「伯夷叔斉図(はくい・しゅくせいず)」 t0160
阿部正精


 第5代藩主・阿部正精(1774−1826)は、老中となり、江戸福山藩邸内に丸山学問所を建設し藩士教育に努めた。また、正精自身も学問に関心を示し、文化文政期は福山藩の文化の最盛期となった。正精は、沈南蘋(しん・なんぴん)の密画の傑作を描いた。この「伯夷叔斉図」は、正精公が中国の伯夷叔斉の故事をテーマに描いたものである。
 伯夷・叔斉とは、中国、古代前1100年ごろの賢人兄弟。孤竹国(河北省昌黎
(しょうれい)県付近)の公子。伯夷は長男で、名は智、致。字は、公達、公遠。諡は、斉。伯と叔は兄弟の順序の字、氏は黙台氏と伝えられるが、すべて疑わしい。
 父は叔斉に位を継がせるつもりであった。父の死後、叔斉は位を伯夷に譲ろうとしたが、伯夷は父の意思にそむくといって受けず、国外に亡命し、叔斉も位をすてて亡命したので、次男が国人に推されて位についた。伯夷・叔斉は、西伯文王の徳をしたい、文王に身を寄せようとしたが、到着した時は、文王はすでに没していた。
 その子の武王が、殷の紂王を討とうとしていたので、馬を引き止め、「父が死んで葬らぬうちに戦争をするのは孝でなく、臣が君を殺すのは仁でない。」といさめたが、武王はついに武力革命を行ない、天下は周の支配に帰したので、二人は節義を守って周の禄をはまず、首陽山(山西省)に隠れワラビをとって食べ、やがて餓死した。
 この二人は、清節を守った代表者として、孔子・孟子以後ながく誉めたたえられているが、この伝説の歴史的真実性を疑う者もある。1102年(崇寧1年)、宋の徽宗は、伯夷を清恵侯に、叔斉を仁恵侯に封じた。
   (出典1)
2004年4月の展示のために、個人蔵をお借りしました。
出典1:『アジア歴史事典(第7巻)』342頁、「伯夷叔斉」、平凡社、1961年5月20日
2006年3月20日更新:レイアウト、本文、出典●