福山阿部藩
藩主
誠之館
先賢
福山藩
関係者
誠之館
歴代校長
誠之館
教師
誠之館
出身者
誠之館と
交流した人々
誠之館所蔵品
関係者
誠之館同窓会
歴代役員
武田平之助
本名
武田直行
たけだ・へいのすけ たけだ・なおゆき
福山藩士、藩校誠之館文武掛、集議院議員、検事・判事
武田平之助


経 歴
生:天保9年(1838年)4月26日、江戸本郷丸山生まれ
没:明治45年(1912年)2月5日、胃潰瘍による心臓麻痺で没、享年75歳、東京駒込・勝林寺に葬る
文久元年(1861年)6月 23歳 豊橋藩士長坂平之丞長女八重と結婚
福山へ。福山藩御供番頭、御近習、誠之館文武掛
明治2年(1869年)〜
 明治3年(1870年)
32〜
33歳
備後福山藩・権大参事、少参事
明治2年(1869年)7月8日 32歳 集議員議員
明治5年(1872年) 35歳 兵庫県警部
明治7年(1874年)ごろ 37歳ごろ 兵庫県三等警部
明治9年(1876年) 39歳 四等警部
明治12年(1879年)ごろ 42歳ごろ 三等警部
明治14年(1881年) 44歳 神戸・姫路裁判所検事、正八位
明治15年(1882年) 45歳 岐阜始審裁判所検事
明治16年(1883年) 46歳 従七位
明治21年(1888年)ごろ 51歳ごろ 高知始審裁判所検事、奏任四等下
明治23年(1890年) 53歳 広島始審裁判所判事
明治24年(1891年) 54歳 三次区裁判所判事、監督
明治30年(1897年) 60歳 司法省退官
明治30年(1897年) 60歳 正六位、勲六等瑞宝章
明治42年(1909年) 72歳 阿部伯爵家協議員


生い立ちと学業、業績
武田直行。天保9年(1838年)生る。広島県士族。武田五一(京都高等工芸学校教授兼大蔵省臨時建築部技師、正五位)の実父にして通称平之助。

阿部伯爵家協議員、旧備後福山藩権大参事退職判事正六位勲六等。明治3年(1870年)福山藩公議人となり、明治7年(1874年)ごろ兵庫県三等警部を拝命。明治9年(1876年)四等警部に。明治12年(1879年)ごろ三等警部に。明治13年(1880年)ごろ友野信平と神戸裁判所検事に任じ正八位に。明治15年(1882年)岐阜始審裁判所検事に転じ、明治16年(1883年)石尾孝基等と従七位に。明治21年(1888年)ごろ奏任四等下を以て高知始審裁判所検事たり。明治30年(1897年)退官。明治45年(1912年)2月5日胃潰瘍を以って歿す。享年75歳。
   (出典1)
博物館明治村が発行した展覧会図録『武田五一・人と作品』の年譜に大正元年(1912年)2月5日、父直行死去と平之助の訃が載っている。享年が記されていないのでいつ生れたか逆算することは難しい。しかし、昭和10年(1935年)私家版として出版された大植四郎編著になる『明治過去帳―物故人名辞典―』によれば天保9年(1838年)生れで、胃潰瘍で75歳で病没したことが記載されている。

また、明治村が所蔵している武田家資料によると、平之助の母は喜智といい、鳥取藩士田中与作の二女で、平之助の父と結婚し天保4年(1833年)11月14日に入籍した記録がある。父は藤七郎といい、江戸詰の下級藩士で十石二人扶持の御近習(御刀番)をしていた。平之助は、長男で阿部家の中屋敷である本郷丸山で誕生した。幼名は不明だが、通称を平之助(秉之助)といい、諱(名)を直行といった。平之助の下に多勢
(たき)・政(まさ)・佐助・猶(なお)・鶴(かく)・真輝(まさてる)[安之助]の妹四人と二人の弟がいた。そして先述の武田家資料によると平之助は、万延2年(1861年)年6月に豊橋藩士長坂平之丞長女八重と結婚したことがみえる。万延2年(1861年)2月19日に文久元年と改暦しているので、正しくは文久元年6月、23歳のときである。

平之助は、江戸詰であったが、いつ頃か不明だが、福山国元勤務に替わったらしい。文久元年の『福山御人数』には、御供番頭五十俵とあり、その後に作成された『福山藩官禄』では御近習二人扶持十二石、誠之館文武掛とある。先述の年譜によると、武田五一は、明治5年(1872年)11月15日福山西町乙二〇一番地で生まれている。

明治2年藩主阿部正桓は、新政府より福山藩知事に任命され続いて藩政改革に着手した。まず官制を改め、執政・参政を廃止し知事を補佐する大参事に箱館出兵の総督として功績のあった岡田吉顕を任命し、その下に権大参事・少参事・権小参事・大属・権大属・少属・権少属・史生・庁掌・使部などの機構と官員を配置する。明治維新後の平之助の職歴は次のとおりである。
 2〜3年 少参事(65石)・権大参事(90石)
 5年   兵庫県警部として神戸へ赴任
 14年  検事となり神戸・姫路裁判所詰
 15年  岐阜始審裁判所詰
 19年  高知始審裁判所詰
 23年  判事となり広島始審裁判所詰
 24年  三次区裁判所判事、監督
 30年  司法省退職

なお彼は、銀
(かね)・鈴(すず)・鉚(りゅう)・待(まち)・五一(ごいち)・六(むつ)・信(のぶ)・八二(やつじ)・久米(くめ)の二男七女をもうけた。五一は「五大州(世界)一の立派な人物になれ!」との願いから命名したという。五一の弟八二と妹久米の二人は幼くして亡くなっている。

平之助は菩提寺である東京駒込の勝林寺に葬られ、墓碑は工学博士である息子の五一自らの設計によるものである。昭和15年(1940年)、この寺は道路建設により立退き、墓は染井墓地近くへ移転した。
   (出典2)


出典1:『明治過去帳−−物故人名辞典』、大植四郎編、大植四郎私家版
出典2:『福山誠之館同窓会会報(第10号)』、33頁、 「建築家武田五一・田邊淳吉の親たち」、園尾裕、福山誠之館同窓会編刊、2003年6月1日
出典3:『郷賢録』、24頁、福田禄太郎著、福山城博物館友の会編刊、平成12年10月1日
出典4:『近世後期の福山藩の学問と文芸』、86頁、福山市立福山城博物館編刊、1996年4月6日

出典5:『福山学生会雑誌(第37号)』、67頁、「故武田直行畧傳」、武田五一誌、福山学生会事務所編刊、明治45年2月28日
2004年11月10日更新:出典●2005年6月2日更新:氏名●2005年11月25日更新:経歴●2006年3月30日更新:タイトル●2007年11月26日更新:本文●2007年12月21日更新:経歴●2008年4月28日更新:出典●2009年11月26日更新:氏名●2016年8月18日更新:経歴・出典・関連情報(削除)●