「阿部正弘伝」    島田荘司(昭和42年卒)
幕政と維新政治
幕末期の徳川幕府は、将軍以下愚人の集合体であり、彼らには判断というものができず、決定事項はすべてが祖法遵守の現状維持で、問題点はといえば、責任発生と切腹を恐れて先送りを繰り返し、その一方で天皇を狭い京の御所に不当に封じ込めて不敬の年月を重ね、民には切り捨て御免の威圧を働いた上にことごとく国政を誤り、日本に禍をもたらし、ついには朝廷の叱責を受けて滅亡した、というふうに一般に理解されている。

しかしこうした捉らえ方もまた一方的であり、明治維新を肯定にとらえようとするあまり、多くの事実を見ていない。幕府から政権を引き継いだ薩長主導型の新政府は、もはや切腹の恐怖がないので旧幕臣の閣老たちよりは判断に実があり、部分的には治績もあげたが、黒船の威圧に無思慮に怯えすぎ、彼らの来航の理由を分析しようとせず、天皇を必要以上に持ちあげすぎ、富国強兵に発狂邁進して、兵鍛練時の暴行によって日本人の精神を江戸期以上に荒廃せしめ、ようやく近代軍隊の養成が成れば、当初の国防精神を忘れて隣国他国を侵略し、わが民を鬼畜とののしらせたあげく、宣戦布告なく真珠湾を奇襲して、屈辱の東京裁判にまで国民を導いたという、全体として失敗の歴史としてとらえることも可能である。
 わが近代史にあるものは、幕末時の幕府閣老たちとも大差のない思考分別の欠如ともいえ、流動する国際情勢への洞察も、巧みな舵取りの判断もできず、目的設定のないまま、自身の劣等感からひたすらに自国民叱責を繰り返す、怯える者たちの発狂であったという理解も、将来に向けて意味あることと思われる。

この理由には、黒船からの膨大な贈り物を受け取り、アメリカ軍と意気投合し、和気あいあいの船上親睦パーティで交流した者たちが失脚し、その間素朴な民話的恐怖心と見下し心から黒船軍を鬼と捉え、思考や判断力を持たない動物と誤解して、顔を見る機会もないまま、ひたすらに怯えていた者たちが政権を執ったこととも関係があろう。

幕末の政治中枢が、切腹に怯えて前例反復を繰り返す愚者ぞろいであったことは一面事実であろうが、当時一人の傑出した政治家が、幕政側中枢にいたこともまた事実である。水野忠邦、井伊直弼、そして維新の志士たちの著名の谷に埋もれて彼の評価は不当に低いが、老中首座という要職にあった時期、彼が打った多くの革新的な手だてや、作りあげた施設が、明治期の政治家たちの発想よりも遥かに今日的であり、現日本を導いている。

阿部正弘の成した仕事は、改革と呼ばれることはないが、彼こそは真の意味での体制改革者であった。このことは、江戸期の三大改革と呼ばれる享保、寛政、天保の改革と内容を比較してみればあきらかである。

これら三つは、時代背景も、改革を必要とした状況も異なるので、一律にくくることはできないものの、語弊を恐れずに述べるなら、そのどれもが徳川幕府と、実行者の権威を高めるために成されており、経済問題の逼迫を、販売価格や人件費、加工賃を力で低く抑え込むことで強引に乗りきろうとする発想である。同時に民には威圧でもって倹約を強制し、遊興風俗の行きすぎを是正し、儒教学問に励まさせ、為政者側のシステムには手をつけることなく、全体としては民への行儀教育にすり替えておさめようとする画策である。

経済問題と民の享楽不行儀とは基本的に別ものであり、民の不行儀によって経済が活気づくこともあり得るから、混同には慎重な点検が必要となるが、この痕跡はいかにも乏しい。すなわちこれらの改革は、経済問題の失策が為政者側への批判に育つ以前に、民に対して打った先制攻撃的対処とも見え、これらは改革というよりも愚民政策のより徹底であり、阿部正弘の後に大老井伊直弼によって成さる安政の大獄とも精神は共通する。

一方阿部正弘の改革は、これらとは根本的に発想を異にしており、民に要求するものはなく、自身の立場をも危うくしかねない、支配階級側の身分構造改革に手をつけるものであった。これは黒船という強い外圧があったゆえに成せたものではあるが、このような自己点検の発想を持った政治家は、開祖家康を別にすれば、長い徳川の治世にあって阿部がただ一人である。

徳川の幕臣にあって、阿部正弘は果敢な実行力と、過不足のない謙虚さを持った希有な政治家であった。儒学を学びながら、自らの責任で先人の前例を破る決断ができた高位政治家は彼が一人と見え、そうなら彼以外のどの人物がペリーと対しても、和親条約の締結というような極端な祖法破りはむずかしく、尊大ゆえの優柔不断が無意味な引き延ばしを生じさせて、これは最終的に黒船との戦端が開くことを意味するので、幸運ならば江戸の一角が焼かれた程度でおさまったろうが、日本側の抵抗力が強ければ焦土となった江戸はアメリカ領となり、続いて入ってきた欧州勢に戦火に乗じて干渉されて、列島は分割植民地化される展開もあり得た。

開国まで
阿部正弘の半生をざっとたどってみる。阿部は文政元(一八一八)年十一月十七日、江戸の福山藩邸で生まれている。父は正精、母は高野具美子といって正精の側室であった。具美子は正精の没後は剃髪し、持明院と称したが、正弘の賢さや、祖法を果敢に壊していく革新的な発想は、正妻の子でなかったこととも、なにがしか関係しているかもしれない。

天保7(1836)年、18歳のおりに正弘は兄の養子になって家督を継ぎ、福山十万石の藩主となった。この家は徳川家普代で、幕府閣老に任命される家柄でもあったから、天保9年、20歳のおりに正弘は御奏者番に推挙され、城に登った。風貌にも魅力があったらしく、大奥の女官たちの一部はなかなか騒いだという。

天保9年に正弘は、越前福井藩主松平治好の次女、謹子と結婚するが、彼女は嘉永5(1852)年、黒船来航の前年に病没することになる。

翌10年には正弘は寺社奉行を兼任するまでになり、これらの仕事で非凡な才を発揮したから、将来の閣老と目されるにいたった。

この時代、天保の飢饉直後にもかかわらず、時の将軍の熱心もあって大奥の力が増大し、その贅沢浪費が目立つようになっていた。その一方、海外から阿片戦争の大禍が伝えられたから、天保12(1841)年、家斉の死後12代将軍を継いだ家慶は、軍事予算獲得も視野に入れて、経済の建て直しをはかった。老中水野越前守忠邦に命じて周到に計画し、天保の改革を断行したところが、これが過酷にすぎて庶民の反発をかい、失敗する。

越前守が免職になると、御勝手掛、すなわち会計総裁も責任発生を嫌い、連座して辞職した。乞われて正弘が老中職に登ったのはこの直後、天保14(1843)年のことである。すると、これを待っていたかのように、大事件が続発した。

翌弘化元(1844)年5月に江戸城本丸が炎上し、幕府は明暦の大火に次いで為政のシンボルを失った。7月にはオランダ国王の親書をたずさえた国史コープスが軍艦で長崎に来航し、開国を勧告するという大事件が持ちあがった。幕府中枢はこれらに対して何の判断もできず、こういう大事のおりに首席筆頭老中の座にすわれる人材は、若干27歳の阿部伊勢守正弘以外にはなかった。

弘化2(1845)年、やむなく筆頭職に登った正弘は、就任と同時に会計総裁を兼任し、江戸城本丸の御普請懸奉行も兼ねさせられ、さらにはオランダ国史来訪の対処までをも担当しなくてはならなくなった。将軍家慶はというと、先の天保の改革失敗に萎縮しており、ひたすら穏便にと伊勢守を説得した。

オランダの開国勧告は、この時が2度目のものであった。鎖国の開始に関しては諸説があるが、もともとは3代将軍家光の代に、オランダのVOCの方から持ちかけた提案と考えられるので、時勢の変化を見たオランダが、これはやめる潮時と日本に勧告するのは妥当なところであった。しかし儒教日本では、状況のいかんに関わらず、神とも近い先人が決定した内容を後世人が覆すことは不敬犯罪であり、到底できない相談であった。

1度目の開国勧告は前任の老中、水野越前守忠邦が斥けていたので、伊勢守正弘は再度越前守を閣老に呼び戻し、彼の専任課題にさせようとはかった。しかしこれは他の老中連の排斥に遭って成功せず、やむなく通信通商の拒絶を定めた祖法を遵守するという建前から、閣老の連署でオランダ国務大臣に返書を認め、勧告を再度斥けた。

しかし、ここからが未曾有の国難の始まりであった。難儀は外圧によるばかりでなく、内部よりの攘夷要求こそが深刻だった。攘夷と鎖国は、先の三大改革の精神にも通じる、幕府安泰のための正義だったからである。

不平の最たる主が、水戸の老公、徳川斉昭だった。失敗した先の天保の改革は、阿片戦争の情報に怯えたゆえでもあり、幕府は異国の軍船の攻撃力を噂に聞いて、祖法である外国船打ち払い令の緩和を決めていた。異国にいたずらに戦闘行動をとれば、軍船を持たない現在の幕府の海防力からすれば、支那の二の舞になることはあきらかである。かといって大船軍艦を持つことは、その建造も購入も祖法によって硬く禁じられていたからできなかった。正弘もまた異国軍船の攻撃力についてよく情報を入れていたから、現在闘うことの愚を知っていた。

しかし水戸の老公は、この非常識に怒り心頭であった。アヘン戦争の大禍がある今だからこそ、外国船の打ち払いは徹底しなくてはならない。このようなことは子供でも解る理屈である。外国船の打ち払いは、京都の天皇もまた強く望まれているところであるから、今こそ貴い祖法を遵守し、侍たるもの、一命を賭して断固攘夷を断行すべきであるのに、この弱腰はなんとしたことかと強く詰問してきた。またこの正論に、大声で賛意を唱える大名は多数いた。

そこで正弘は、来るべき国難にそなえ、水戸老公の政治的懐柔策に出た。奔走して弘化4年、老公の息子五郎麿(一説には七郎麿、のちの徳川慶喜)を一橋家に入れたのである。一橋家とは、田安家、清水家とで御三卿を形成しており、将軍家に御世継ができなかった場合、ここから要員を補充するという目的を持つ家柄であった。ここに養子に入るということは、老公の息子はのちの将軍候補者となったことになり、老公は満悦至極となって、伊勢守正弘に深く感謝するところとなった。

さらに正弘は、老公の息子である水戸の慶徳公の結婚相手に、将軍家の養女、有栖川宮の線姫を選び、婚約させた。この線姫はまれな美女であり、これを見た大奥が、この婚約を破棄させ、将軍家慶の息子、次期将軍と目される家定の妻にとひそかに運動した。これには家慶公の思惑もからんでいたと言われる。しかしこれを知った正弘は即刻手を打ち、線姫をすみやかに水戸に輿入れさせた。老公はこの処置にも大いに満足し、これらによって正弘は、厄介な水戸の老公の懐柔に成功した。老公は以後も江戸城中枢に向けてうるさく攘夷を具申したが、正弘に面と向かって言うことは遠慮するようになった。

弘化3年5月、琉球に英仏両国の軍艦が現れたという報らせが、薩摩藩から江戸城に届いた。江戸にいた島津斉彬公は急遽帰国し、翌年、琉球外交問題処置の伺書を正弘宛てに送ってきた。同種の文書はその後もたびたび正弘に送られたが、内容をひと言で言えば、琉球には外国船の渡来を許してはどうかというものだった。これは鎖国政策には違反するものだが、琉球は清国や薩摩との通商によって成り立つ国であるから、外交拒絶を励行させるよりも、琉球にのみは外交判断の独自性を黙認する方が日本の安全保障にかなうと具申するものだった。

しかしこれは表向きのことで、斉彬と正弘とは当時すでに親友づき合いであったから、内々了承の話し合いがあらかじめできていた。外様薩摩の77万石藩主と、普代福山10万石の藩主とが、何故これほどに肝胆合い照らす仲になったかは定かでないが、薩摩の斉彬は、当時西には並ぶ者がないとうたわれた名君であったから、人間的な魅力も持っていたろう。薩摩は富裕な藩で、西の要衝でもあったし、正弘は斉彬を盟友として次第に頼りにするようになっていた。

しかしこの判断に、水戸の老公は激昂した。正弘に次々に書簡を送りつけ、異人どもが琉球を望んでいる理由は邪教、通信、通商の三箇条であるから、フランス人に琉球上陸を許せば彼らに琉球を与えるも同然で、いずれ琉球人は邪教の虜となり、これはやがて薩摩や大隈にまで及ぶ。フランス以外の国々も同じ穴のむじなであるから、彼らは次には北方の蝦夷も手に入れ、神国日本を挾み撃ちにする魂胆である。今回の話は是非とも厳しく拒絶の要がある、と例によって激しい口調で訴えてきた。

正弘は、拒絶すれば琉球に火の手があがり、禍は九州に及ぶおそれがある。そうなればこれは、いずれ全国に及ぶ。どこかを開港しなくてはならないなら、南の離島琉球は、日本に最も害が少なかった。ここは穏便に収拾することが得策と考えて、正弘は老公の拒絶案を退け、斉彬に主張を実行させた。ここは水戸と薩摩が対立しかねない危険な局面であったが、幸いフランスがまもなく琉球から立ち去ってくれたので、ことなきを得た。

開 国
このようなことがあって、いよいよ嘉永5(1852)年となり、長崎のオランダ商館長から江戸に、1年以内にペリー提督率いるアメリカの艦隊が、開国を求めて江戸に現れると報らせる「別段風説書」が届く。これには艦隊のおおよその規模や、軍艦の名前、臨戦態勢にある砲装備の内訳までが記された詳細なものだったから、信憑性も高く、正弘はついに未曾有の国難に対することになった。

この年、正弘は愛妻を亡くして気落ちしていた。この頃に亡き妻を詠んだ、切々たる思慕の歌も遺している。

正弘は、政治家として優秀であっただけでなく、女性への情も厚く、こまやかな人物であったらしい。老中首席の職にあっての登城の途中、彼は本所石原町に独り暮らす母のわび住まいに、しばしば立ち寄った。たいていは美味なものを探して届けるものであったが、この住まいの近くに長命寺という寺があり、この境内に味が評判の桜餅の店が出ていた。この出店の番をしていた娘をおとよと言い、「江戸名所百人美女」の一人として、錦絵に描かれたほどの美人であった。
ひと目で彼女の美貌に心惹かれた正弘は、しばしば篭を停めさせ、母のためにこの桜餅を買ったといわれる。この美女を詠った歌も遺っている。政策において彼がしばしば見せる異色の温情は、彼のこういう性質とも無関係ではあるまい。

妻の病没に加え、この頃の正弘は体調も思わしくなくなっており、重い病のゆえと思われたから、彼はこれだけの難局に対応するにふさわしい状況にはなかった。しかし幕府には彼に替われる人材は皆無だったから、老中職は通常4年程度が任期とされていたが、正弘の老中在職は、すでにこの時点で9年の長きに及んでいた。

正弘は老中会議を招集して別段風説書を示し、ペリー来航への対策をはかった。ところが、戻る対策案は皆無だった。みな祖法の遵守という建前を口にし、もしもそれがむずかしいなら、とにかく先に延ばせと主張した。内心みな、その間に自身は職を辞し、後進に事態を委ねたいとのみ考えていて、そこを突けば、そもそもオランダ商館の言うことなどはあてにはならないから、アメリカ艦隊など来ないと言った。これでは会議の要を成さず、前もって情報を得た意味がなかった。

会合を重ねても、老中連は正弘から視線をそらし、十年一日の建前を鸚鵡のごとく繰り返した。国の政治中枢のこの無策を見て正弘は慄然となり、改革の要を強く思った。この問題の核心は、日本に海防能力がないからである。これはオランダなどから軍船を購入することが祖法で禁じられているがゆえであった。祖法を破る勇気を持たなければ国が滅ぶ局面に、今や正弘たちは立っていた。しかし正弘がいかにはかっても、議論はこのタブーの周囲をぐるぐると回るばかりで、核心に及ぶ気配はない。

国家存亡の危機が増すほどに、老中連は果てしなく無能をさらけ出した。世襲を重んじる身分制度が、城の心臓部に無為無策の烏合の衆を作りだしていた。政治機構はあきらかな制度疲労を起こしており、近く襲来する未曾有の国難に対処するには、この陣容では無力の窮みだった。早急な人材発掘の要を、正弘は痛感した。

翌嘉永6(1853)年、オランダ商館からの情報通りに、4隻のペリー艦隊が浦賀沖に姿を現わした。幕政中枢は成すすべもなくうろたえ、長崎に廻ってもらうようにと言い、祖法の遵守をとばかりを繰り返し、国書を受け取ればこれを破ることになるから受け取るなと主張し、では戦端の回避はどうするのかと問えば対策はなく、ひたすらこのたびは帰ってもらって、こちらが考える時間を作れと言った。しかし時間を作ったところで策があるわけではない。引き延ばしているうちにアメリカがあきらめたり、忘れたりしてはくれないだろうかと、子供のような期待を抱いているにすぎなかった。

しかしこのたびのペリーの来航と要求は、気紛れな開国通商の要請ではなく、日本近海で漁をしている自国の捕鯨船団の燃料補給や、難破時の安全確保であることを正弘はおぼろに知っていたから、琉球に来航したフランスのようなわけにはいかない。

これ以上引き延ばせば戦争になると判断し、正弘は敢然と祖法を破って、ペリーからの国書を久里浜で受け取らせた。開国の重大犯罪を考える者が城内に影もないのは当然だが、国書を受け取るという行為がまた切腹覚悟の違法であったから、老中連は誰もがこの判断から距離を置き、舌禍を恐れて沈黙を守っていた。そこで正弘は、これを自分1人による決断とするほかはなく、孤立した。ペリーは、来年返事を聞きに戻ると言いおいて、帰っていった。

この直後から、病を押しての阿部正弘の八面六臂の活動が始まった。まず老中連を見限り、この陣容ではとうてい独裁の能はないと見て、前例を破る諮問政策を展開した。開国の是非を全国諸藩にはかったのである。しかしこれは予想した通り、問題への意見よりも、幕府の弱腰を糾弾する声ばかりが戻った。続いて得られた回答の大半は、当然のように開国の反対と攘夷の断行であった。

正弘は次に、寛永13年からの大船の禁というこれも祖法を大胆に破り、長崎奉行の水野に命じてオランダから蒸気軍艦の購入を決めた。さらには大船建造も解禁とした。そうなると大船操船の技量を心得る海兵が大量に必要になるので、これを学ばせる留学生を、大挙してオランダに送ることを決めた。この学生の人選は、身分禄高にとらわれずに行うことも決めた。

このため、オランダ留学生の内からのちの榎本武揚のような人材も排出した。彼は平民の出で、のちに万国航法、国際法を自在に読み、操れる唯一の日本人になった。正弘に見いだされ、後に海軍奉行に登る勝海舟もまた、禄高の低い旗本の出だった。

こういう時代、問題意識を共有し、しかも自身の判断ができる有力大名は、薩摩の島津斉彬をおいてなかったから、正弘は彼にさらに接近し、今後は自分と連帯して難局にあたってくれるように依頼した。斉彬は承知し、これを受けて自身も桜島で大船建造の準備をはじめた。こういう経緯から、薩摩藩は開国派となる。

続いて正弘は、前年アメリカから帰国し、郷里の土佐にいる漁師、中浜万次郎に使いを飛ばして即刻江戸に呼び寄せた。打ち首とすべき海外渡禁の罪を許し、本所の江川屋敷に住まわせたあげく、アメリカとの交渉時の通訳を予定して、彼を幕臣に取りたてた。漁師の倅からの非常識な出世であったから、世の秩序を乱すものとして、これにも猛反対の声があがったが、正弘は強引に押し通した。

オランダ人から西洋式の砲術を学び、私財を投げうってオランダ式大砲を購入し、イギリス軍の砲や軍艦の威力を訴え、西洋式砲術取り入れの必要性を天保上書として幕府に上申していた高島秋帆という人物がいた。その後彼は江戸に出て、武蔵徳丸原で洋式砲術調練を行ったため、前例を破ったとして謀反の疑いをかけられ、投獄ののちに蟄居を命じられていた。正弘は、周囲の反対を押してこれも許し、青天白日の身として近くに呼んだ。

高島はこれを喜び、名を喜平と改名して、嘉永上書を再び上申した。この中で高島は、彼我の破壊能力に差がありすぎるから、これより4,5年間は絶対に闘ってはならない、その間に洋式の大砲を購入し、戦闘力を整備すべしと懸命に訴えていた。

正弘は中浜万次郎をそばに呼び、彼が10数年暮らしてつぶさに見てきたアメリカという新しい国について、詳細に話を聞いた。万次郎は黒人奴隷のいる南部でなく、北部のニューイングランドにおり、能力を認められて学校にも通わせてもらっていたので、アメリカ人の美点や、民主々義について熱心に説明した。万次郎はアメリカ大統領とも立ち話をした体験があり、これについても話した。

またこの国の武器の強大についても万次郎はよく知っており、高島の話と合わせて正弘は、再来するペリー艦隊との避戦はもちろん、開国までを、この時に決意したと考えられる。

幕臣を見限った正弘は、外国人と談判のできる即戦力の人材を、身分格式にとらわれず、広く世間に求めた。これもまた、いっときの対話でなく、国を開くことを想定しての、長期計画のゆえであった。

この時正弘は、下層平民の出である中浜万次郎をこの任にあたらせようとする心積もりでいた可能性がある。しかしこの時もまた、水戸の老公が猛然と反対の手紙を送って寄越し、横槍を入れた。いわく、このような火急の時、万次郎なる者がアメリカから帰国しているのはタイミングがよすぎる。アメリカが自身に都合よくことを進めるため、送り込んだスパイに相違ないので、通訳に使うことも控える方がよい、軽率は国家百年の大計を誤る、と訴えるものであった。このために正弘は、翌年の条約調印の際に、彼を通訳として使うことはあらめざるを得なかった。

しかしこのために日米の交渉は、日本語からオランダ語、オランダ語から英語、というふうに二重の通訳を通すほかはなくなって、のちに日本に米総領事館を置くと決定したつもりのアメリカ側と、双方がその必要を認めた際には置くこともあり得ると理解した日本側、というような齟齬が生じた。

正弘は続いて海防掛、大森の大砲演練場、また台場建設掛、大船建造掛を次々に新設して、若い有能な人材を抜擢配置した。そしてこの時も慣例を破り、俊英を短期間で目付に抜擢したり、高禄の旗本でない者を高位につけたり、父の禄高を越える禄の地位への就職も成したので、秩序を壊すとして、周囲の猛反対をかった。しかし黒船来襲の非常時であるからということで、正弘はこれらの声も強引に封じた。正弘はそれほどに幕政の閣老に失望し、人材に飢えていた。万次郎や喜平などユニークな人材を周囲に集め、必要なら急場凌ぎの彼らを手足に使って、難局を乗りきる心づもりでいた。

ペリーが去って数日後、正弘が側近の老臣に、「先鞭をつけ、文武を引きたて、志気を奮わしめる」と語った言葉が伝えられている。この言葉の通りに正弘は、以後猛然と人材育成の準備を始めた。江戸の福山藩屋敷から、正弘は文武場建設についての布告を発している。

これはそれまでに存在していた福山藩校弘道館を廃止し、誠之館と名を改めてまったく新たな文武場と成す計画であった。その内訳は以下のようなもので、革命的な「仕進法」を含んでいる。正弘はまずこれを自らの藩校で実践し、いずれは全国の藩校に行わせる考えでいた。

入学時の年齢は8歳、武芸は10歳からとする。10歳から15歳までは文武兼修で、15歳からは「存じ込み」の芸、すなわち各自の好む、得意のものを専修する。17歳になったら本考試を受け、その成績によって、初段、二段、三段に評価する。文武ともに二段となれば、当主ばかりでなく、部屋住みの者も出仕できる。文武の内、一方しか二段にいたらぬ者は召し出されない。反対に無足人(下士)の倅であっても、成績がよければ召し出される。

封建的な身分社会においては、家老の嫡子は家老を継ぎ、仕分は禄高によってそれぞれ相応の格の職に進むことができた。しかし正弘が定めた新しい仕進法では、こうした秩序は白紙に戻され、当人の能力次第ということになった。

家老の子が家老職を保証されないということは、父親の恭順心の離反につながり、秩序の崩壊を招くので、幕臣たちからは猛然たる反対の声があがった。当時確固たる立場を持っていた儒臣、門田朴斎は、周囲の常識を代表して意見を具申した。学芸の等級でその録に減があるなどということになると、全藩の子弟に不平を抱かせることになるから、即刻辞めた方がよい。真っ向からこう反対をとなえた門田を、正弘は即刻解雇し、帰郷を命じた。

反対の声は、正弘の側近中の側近、石川和介からもあがった。石川は、これまで正弘の手足となって動いていた忠臣だった。彼は、この仕進法は下々にとって達成が困難であるゆえに減知と受け取られ、説得はむずかしく、人の和を破ることになる。しかし正弘はこれも聞き流した。

江戸で布告されたこの仕進法は、正弘の郷里福山にも種々の流言となって伝わった。現在では当然とも見えるこの発想だが、儒教封建時代の常識としては、乱心にも匹敵する異常な発想で、批判は大いに渦巻いたが、正弘は断固としてこれを貫いた。平時なら以前通りでよいが、これから諸外国を相手にしていく時代に入っては、きわめて優秀な人材が必要となる。世襲が送り出すようななまなかな存在では、これからの激動の時代、国の舵は取れないと信じてのことだった。

この時正弘の内にあった信念は、「文事ある者は、必ず武備あり」という教えで、すなわち「文武両道の士」を作るということであった。名を誠之館と改称した理由を示す、正弘の言葉が遺っている。 「誠者天の道なり。これを誠にするは人の道なり。誠なる者は勉めずして中り、思わずして得、従容として道に中る。聖人也。これを誠にする者は善を擇んで善く、固くこれを執る者なり」

簡単に言うと、誠の心を持つ者は、心の欲するままにして、自然の道にかなうということである。

誠之館は、江戸と福山にそれぞれ作られたが、ここに遺る教えは以上のようなもので、水戸の弘道館にあるような「神儒一体」とか、「尊王攘夷」といったスローガンは見あたらない。今日にも通じる自然な真理と思われる。

しかし正弘の目指したところの文武両道は双方三段という境地であったろう。これはいかにもむずかしいので、のちに正弘も譲ってこの点は緩和した。この仕進法は東西の誠之館で摺り合わされ、やがて公布された。

正弘の改革は続き、洋学禁止令の解除を決定し、西欧の各種学問を学ぶことを自由とした。そうして自ら指揮し、幕府洋学所を設立した。これは維新後開成学校となり、さらには東京大学となる。開成学校時代の教授には、中浜万次郎がいる。

翌安政元(1854)年3月、ペリーは7隻の蒸気軍艦をしたがえて江戸湾に戻ってきた。すでに海国の決意を固めていた正弘は、ペリー一行を横浜に上陸させ、和親条約に調印させた。

しかし日本を属国と成すような不当な条約であれば断固拒絶し、戦争をする旨は各藩に伝達してあり、その際の兵進軍隊列における、自分の馬の位置を明記した資料が近頃発見されている。

アメリカと条約締結を成した以上、同年8月にはイギリスと、12月にはロシアとも続いて締結する運びとなった。

開国後

この時、神奈川沖に停泊していたペリーの黒船に小舟を漕いでき、国禁を侵して外国への渡航を企てた、吉田松陰と金子重輔という二人の若い武士が逮捕された。この事件には、儒学者の佐久間象山も連座していた。3人に対し奉行所は、慣例通りの死罪を内定していたが、海外に目を向けようとする人材は、これからの日本に必要と 正弘は考え、いたずらに殺すことは避けて、国許に戻しての蟄居という軽い罰を奉行所に指示した。のちにこの松陰門下からは、日本を動かす優秀な塾生が多く現れることになる。

安政3(1856)年3月には、寛永6(1629)年以来、230年の長きに渡ったキリスタンに対する「踏み絵」の旧弊を廃し、正弘は思想、信条、良心の自由を、日本人に保証しようとした。

このようにしておいて正弘は、13年の長きに渡った苦痛に充ちた老中職を、この年で辞した。体も相当に悪くなっており、これ以上の政務には堪えられそうもなかったからだ。後任には堀田備中守正睦を推挙し、彼を老中首席筆頭とし、さらに外国御用掛取扱にも任じて、ことの推移は自分の耳に入るようにした。

翌安政4(1857)年の6月17日、阿部正弘は39歳の若さで急逝した。死因は不明だが、一説には癌であったろうと言われる。激務が彼の命を縮めた。

この時島津斉彬は、地もと鹿児島にあって盟友の訃報に接した。彼のこの時の様子は伝わっていないが、のちに福井藩主松平慶永候に宛てた書簡に、偽らざる彼の心境が吐露されている。

天下のために惜しむべき人物を失った。これで世の中も一変することだろうが、今後の政局は老中首座が堀田備中守では心もとないし、井伊直弼あたりがのさばりだすのではないか。

この危惧は現実のものとなり、堀田備中守の采配を不安と見た西の彦根藩から、久々の大老職、井伊直弼の出現となった。この大老が正弘の跡を継いで続く日米修好通商条約を結んだが、しかしこれはその直前の長い逡巡のため、天皇の勅許を得ないままの締結という展開になってしまって、ために多くの藩士はこれを大不敬行為ととらえ、倒幕の燭台に火がついた。

江戸と京の距離の隔たりがこの悲劇を生んだわけだが、井伊の采配には各方面への威信を考えるあまり、判断に逡巡があり、必要な速やかさがなかった。修好通商条約締結の決意が定まっていないので、京都の天皇にあらかじめ勅許を願い出ておく手廻しもなかった。

この不手際糾弾を無思慮に煽った者が、政治中枢に遠慮がなくなった水戸の老公であった。井伊には、阿部正弘のような周辺への老練な根廻し戦略も欠けていた。

井伊への非難は野火のように広がり、続いて彼は幕府と自身の権威を回復せんものと焦って、伝統的な力による秩序回復を画策する。不平分子を次々に逮捕弾圧して、安政の大獄を現出せしめたことは、以降の歴史に隠れもない。この時に処刑された者のうちには、正弘が助命した吉田松陰もいた。

そうした揚げ句、老公の膝下水戸藩脱藩の浪士たちによって、桜田門外で命を落とす展開になる。この大獄により、倒幕の炎はいよいよ大火となった。

不平分子は京に集中し、攘夷派と左幕派とに別れて連夜血の粛正テロを繰り返し、新撰組の出現を招く。しかし尊王攘夷主張の雄、薩摩と長州とが坂本龍馬の仲介によって和解、結託した時、公家岩倉具視の策謀によって錦の御旗が彼らに贈られて、倒幕の勢力は決定的となった。

勝海舟もまた、正弘の死を惜しんでこう述べている。「もし伊勢殿に仮すに数年の齢をもってすれば、薩長は抗敵とはならず、条約調印は勅許され、宮卿親藩の幽閉なく、志士の惨戮冤罪に罹ることなく、水戸公も漸次自重の方針に傾きて、国備の年に整いしは必然なり」

功績に比して正弘の名前が埋もれがちであるのは、若くして死んだゆえもある。彼があと数年老中首席として生き延びていれば、井伊が現れることはなく、斉彬との親密から薩摩は幕府に刃を向けることはなく、御所への事前の手廻しから、修好通商条約はついに天皇勅許のもとに進行し、そうなら不平武士はその口実を得られず、正弘への遠慮から水戸の老公も自重して、自藩藩士をいたずらに煽ることはなかった。

正弘の速やかな軍艦購入の決断と、海兵の養成開始、また洋学取得者の成長などによって、海防軍備は最短距離で整い、続く富国強兵の無理は、もう少し穏やかなものになっていたろう。勝の言うように、確かに以降の展開はまるで違った。正弘はこれらすべての布石を打っていたが、後続の者たちがこれを無にした。


阿部正弘の構想になる藩校誠之館は、正弘の側近である江木鰐水と石川和介によって受け継がれ、発展させられた。嘉永元(1848)年11月に石川が提出した「文武御引立ての儀に付き、申し上げ奉り候書き付け」に、誠之館教育思考の基点となった論考が見える。 この中で石川は、最も大切なるものは「遠大の心得」であり、そのような人材を養成すべきが肝要と述べている。遠大の心得とは、以下のようなものである。
1、「200年来、いかなる推移をたどって今日の時世になったのか」という歴史的考察能力。
2、「今後、時勢はいかなる展開を見せるか」という将来展望能力。
3、「現在この姿のままで、ご心配の筋はないか」という政策立案能力。

これらの「御拵え」になることこそが、文武引立ての目的であるとしている。

いかにも日米和親条約締結の年の創立らしい公の信念であるが、ここには儒学への傾倒、異国への戦意や、天皇崇拝の強制はない。贅肉が落ちて非常にすっきりとしており、時代の狭視を超越して、今日でも色褪せていない。

阿部正弘は支配階級の一員として生まれ、そのトップにまで昇りつめたが、その枠内に留まることなく、広く国内の事情を洞察し、諸外国の状況にまで目を開いて、新たな人材がどうあるべきかを洞察して、よくこれを育てようとしていた。
   (出典1)


出典1:『誠之館同窓会報 誠之館創立百五十周年記念特別号』22頁、福山誠之館同窓会、平成17年2月
2007年10月26日追加