雲 居 の 羅 漢 〈うんごのらかん〉
中国江西省にある雲居山は、空高くそびえ、山の頂きには常に
雲がかかっているというので、雲居山と名付けられたそうです。
その雲居山にある五百羅漢像は、道路より数百メートルも高くあおぐ
ところにあり、いつも往来する人々を見下ろしているところから、
自負高慢で、人を見下している人のことを「雲居の羅漢」と呼ぶように
なりました。また一説によりますと、雲居山の羅漢像は鼻を高く造られて
いるので、常に自慢をする、鼻の高い人を雲居の羅漢と称する、ともいいます。
高慢、自慢、増上慢、いわゆる鼻もちならないひとのことをこう呼びますが、
この「慢」という考え方は、もともとは仏教の言葉でした。「慢」とは、
人よりも自分の方が優れていると考えたりする、心のおごり高ぶっているさまを
意味しますが、仏教では、このような心のありようを良くないこととして否定して
います。そのため、古来、禅僧のあいだでは、絡子〈らくす〉の裏に「雲居羅漢」と
書して己の戒めともしてきました。
自分のことを自慢したり、自分のことを鼻にかけて高慢になったりするということは、
本当の自分が自分自身に見えていないと同時に、人のことも正確に見えていない、
自分の色眼鏡を通してしか見えていないからではないでしょうか。
江戸末期の幕臣山岡鉄舟は、江戸城無血開城の功労者として知られていますが、
その山岡鉄舟の言葉に、「人にはすべて能不能あり、一がいに人を捨て、あるいは
笑うべからず。」という言葉が残されています。人にはすべてできることとできない
ことがあり、自分にできることが人にはできないからといって、その人を疎んじたり
笑ったりしてはいけない、という戒めです。勉強はまるっきり苦手な子どもでも、
歌を歌わせたらとても上手な子どももいますし、また、世渡りが下手で苦しい生活を
していても、徳行にすぐれた人もあるように、その人のある一面だけを見て、
その人は劣っていると勘違いをしてしまうようなことは避けたいものです。人は
誰でも短所と長所を同時に兼ね備えているものですから、短所にはできるだけ
目をつむり、長所をできるだけ見ていくようにしたいものです。
慢という字を使った言葉に、我慢という言葉があります。「じっと我慢をする。」
というように、良い意味で使われる言葉ですが、仏教本来の「我慢」という言葉は、
仏教の基本的な考え方の「無我」という理が分からず、自我があると勘違いをして、
自我に執着することを意味しています。いわゆる「自我の強い人」のことを指して
いたのですが、時代の流れと共に、いつの間にか意味が全く逆になってしまいました。
これも、ひとつの大いなる勘違いだったのでしょう。
