子ども達の心の中に
例年のことですが、交通死亡事故の多さに胸が痛みます。
交通事故で若いお父さんをなくされた、かわいい子どもをなくした、
そんなお葬式にあった時には、私たちもとてもつらい思いがします。
ときどき新聞で、「若者の無謀運転」という言葉を目にすると、連想する
のは、昨今の中高校生の自転車の運転マナーの悪さです。
横に二〜三人並んで走るのはもちろん、赤信号を無視したり、車の前を
突然横切ったり。ひやりとした経験は、私だけではないと思います。
以前、アメリカから親戚がやってきました。私のいとこが三人、初めて
日本に来ましたが、その中の一人が、中高校生の自転車の無謀ぶりを見て、
「彼らは、自転車の乗り方を教えてもらっているのか」と驚いていました。
その時は返事に困ってしまいましたが、あとから、アメリカではどういう風に
教えているのか聞いておけば良かったと悔やまれたことです。
話はかわりますが、次のような事件が週刊誌に出ていたことがあります。
何年も前の11月1日のことですが、横浜のある小学校の五年生のクラスで、
ひとりの女子児童にいじめを続けていた男子児童9人に対し、担任の先生が、
ちょうど給食時間だったこともあり、「そんなにイヤなら食べなくていいから、
教室の外に出ていなさい」と叱ったことから事件は始まりました。
9人はそのまま外に出てしまい、その中の6人は、先生の「あやまれば中に
入ってもいい」という言葉を無視して、11月7日まで授業をボイコットして
しまったそうです。
7日に横浜市教育委員会から、行き過ぎなので改めるようにという指導が
あり、7日夕方、校長先生と担任の先生が子ども達の家庭を謝罪して回った
そうです。
これでは女の子に対するいじめが正当化されたようで、何か釈然と
しない所の残る事件ですが、この間、くだんの子ども6人はずっと給食を食べ
なかったかというとそうではなく、ちゃんと「給食費を払っているのだ」と要求
して、廊下で給食を食べていたそうです。
まったく権利意識だけは、立派なものです。
今さら、基本的人権には公共の福祉という足かせがあり、権利には義務と
いう裏打ちがあるというようなことを云おうとは思いませんが、中高校生の
自転車の乗り方といい、この横浜の子ども達といい、はたして人に迷惑を
かけて平気なのだろうかという素朴な疑問が残ります。
私が子どもの頃、叔父の寺によく遊びに行きました。叔父の寺では
保育園をしていたので、園児達の帰る時間になると、「ののさまは、口では
なんにも言わないが、私のすること知っている……」という歌を園児達が
歌っていました。「ののさま」とは、「仏さま」の幼児言葉ですが、
今にして思えば、子ども達にいつとはなしに、心の中に仏さまの存在を
植え付けていこうということだったのではないかと思います。
この場合、仏さまとは、「良心」と言い換えてもいいのでしょうし、
「宗教心」と言い換えてもいいでしょう。
私たちは、よい子・悪い子、できる子・できない子、善悪、美醜などと
物事を二元的に見がちですが、仏さまの目からみると、みんな許されて
共に生きている仏の子です。それを忘れてしまうと、他人に対する疎外と
しては「いじめ」、自分の疎外感から「非行」といった問題がでてくるのでは
ないでしょうか。
「宗教のない教育は腕のよい悪魔をつくる」という言葉がありますが、
宗教の「宗」という言葉には、「物事の本質、本源」という意味があります。
お互いにかけがえのない生命を生きているんだ、お互いにお互いを尊重
しながら生きていかなくてはいけないのだ、ということをしっかりと自覚し、
また子ども達にも教えてゆかなくてはいけないと思います。
中高校生のルール無視の自転車の乗り方、これが「若者の無謀運転」、
車の免許を取ったときの痛ましい交通事故につながらなければいいのだけど、
と思われてなりません。
