福の神と貧乏神


  誰しもが来て欲しいと願うのが「福の神」で、もし自分の家に
 いるのなら、どうぞ出ていってくださいと願うのが「貧乏神」でしょう。
 この福の神と貧乏神について、涅槃経というお経に次のような
 お話しがのっています。

  ある家に、とても美しい女の人が訪ねてきました。豪華な服を着て、
 見るからに気品のある女性でした。その美女は、「私は吉祥天です。
 福徳を授けに来ました。」といいます。幸福の女神の到来ですから、
 家の主人は大変に喜んで、家の中に招き入れました。
  ところが、そのあとから、もう一人の女性が入ってこようとしています。
 こちらのほうは、見るからにみすぼらしい、醜い女性でした。
 「おまえは誰だ。」と主人が問うと、「私は黒闇天(こくあんてん)。
 私の行くところ、必ず災厄がおきる貧乏神です。」と後からきた女性が
 言いました。家の主人は、貧乏神に家の中に入ってこられてはたまり
 ませんから、「おまえなんか、とっとと消え失せろ。」とどなりました。
 すると、その黒闇天は大声をあげて笑いました。
 「あなたは馬鹿です。さっき入って行った吉祥天は、わたしの姉です。
 わたしたち姉妹はいつも一緒に行動しています。わたしを追い出せば、
 姉の吉祥天だってこの家から出て行きます。」
  そして、そのとおり、吉祥天と黒闇天は肩を並べて、その家を去って
 行きました。

   この涅槃経の話しは、福の神の性格をよく表わしています。
 このように、福の神であるところの吉祥天と、貧乏神であるところの
 黒闇天とは、姉妹、いいかえると、一心同体なのです。
  成功のシンボル、お金ですら、それをどん欲に求めすぎると、
 かえって不幸のもとになります。以前、テレビで、六億円の脱税が発覚
 したニュースを流していました。その人は、重加算税、罰金等で
 七億二千万円を追徴された上で、一年二ケ月の懲役、さらには
 社会的信用を落としてしまいました。
  また、逆に、一病息災という言葉がありますが、病人の方が
 かえって長生きする例が多いようです。病気は身体の注意信号です
 から、注意信号がつけば用心すればいいのです。かえって、
 今まで医者にかかったことがない、と健康を豪語している人の方が
 ぽっくり逝くといったこともあります。

  こうして考えてみると、福の神の吉祥天と、貧乏神の黒闇天とが
 一心同体であるということもうなづけることです。そして、私たちが、
 これは福の神、これは貧乏神とえり好みをして一喜一憂するという
 ことは、私たちの自分勝手な考え方だということもできます。

  よく霊場めぐりなり、お寺めぐりをするときに、「あそこには、
 あちこちに賽銭箱があるから、一円玉をたくさん用意して行った
 方が良い」などという声を聞くことがあります。一円玉をぽいと賽銭箱に
 いれて、「家内安全、大願成就、商売繁盛、身体健全、諸縁吉祥、
 子供が良い大学に入れますように…」、これでは神さま仏さまも
 大変です。
 神さま仏さまを、お賽銭を入れると御利益が出てくる自動販売機に
 してあげたのでは、申し訳ないような気がします。

   江戸時代の曹洞宗の禅僧、大愚良寛禅師、あの良寛さんは
 こう言っています、
 「しかし、災難にあう時節には、災難にあふがよく候。死ぬ時節には、
 死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるる妙法にて候。」
 災難にあって、じたばたしてはいけない、災難にあえばどっぷりと
 災難につかることだ、と、災難だの幸運だのと差別しないで、それに
 こだわらない心を良寛さんは教えて下さっています。
 これが、仏教の生き方なのです。

  災難だ、幸運だ、と自分勝手にご都合をならべている凡夫の姿に、
 仏さまは「いい加減にしろ」と苦笑いをされているかも知れません。
 しかし、この「いい加減」ということが大切なのです。何事もほどほどに、
 極端に走ることのない、ゆったりとした大道、つまり「中道」を歩むことが
 肝要なのです。