分 か ち あ い の 心


 平成十二年一月二十八日、新潟県柏崎市で、
約九年二ヶ月におよぶ監禁から十九歳の女性が
保護されました。この事件を報じる新聞記事で
印象的だったのは、犯人が逮捕された後、
「拘置所に入って、こんなに監禁がつらいとは
思わなかった。」と、供述していることです。
少女を監禁し虐待し続けた、三十七歳の犯人の
心には、九年あまりの間、少女を思いやるという
気持ちは一度も生じなかったのでしょうか。

 死刑囚をあつかった本などを読んでみると、
ほとんどの死刑囚は、刑務所で自らの死を
見つめながら過ごしてゆくうちに、深く己れの罪を
反省し、次第に清らかな心になってゆくそうです。
しかしながら、本来清らかな心を有しているのなら、
どうして大罪を犯す前にそういう心に目覚められ
なかったのだろう、という無念さが残ります。
 我が身をつねって人の痛さを知れ、ということわざが
ありますが、我が身をつねらなくても人の痛さが
分かる心を育ててゆきたいものだと思います。

 私たちの家庭生活は、分かちあうことによって
なりたっています。それぞれの時間や空間や思いを
分かちあって暮らしています。一台の車やテレビを
分かちあって使い、子ども達もひとつのおもちゃや
ゲーム機を分かちあって遊んでいます。
 ところが、子ども達を見ていると、時には分かちあいが
うまくいかないで、ひとつのおもちゃを取りあってケンカが
はじまることもあります。このような時、親であるあなたは
どうしますか。
お兄ちゃんに我慢させますか、それとも、他のおもちゃに
興味をむけさせますか。

 家庭教育の子育てコンサルタントをつとめている、
アメリカのドロシー・ロー・ノルト博士は、このような時、
どちらかの子に「自分は損をしている」という気持ちを
感じさせたら、本当の分かちあいの心は生じないと
言われています。ひとつのおもちゃを独り占めして
遊ぶよりも、二人で仲良く遊んだ方が楽しいんだ
ということを感じさせなくてはいけないと教えられて
います。
 本当の意味での分かちあいは、与えることなのであり、
見返りを期待しない心なのです。その人のことを思って、
その人が本当に必要としているものを与え、その代償を
期待しないことです。私たちが本当にそういった行為が
行えた時、私たちの心には「損をした」という気持ちは
残りません。なぜなら、もっと本質的なところで、喜びを
感じているからです。

 私たちの仏教では、見返りを期待することなく、
人に与えることを「布施」と呼んで尊んでいます。
物でもお金でも、気持ちでも行いでも、なんでもよいから
喜んで人に与えること、つくすことが尊い行為とされています。
そして、この布施には限りがありません。
 子どもがお母さんに、「教科書を読むから聞いてて」と
頼みました。お母さんは、「いいけど、はやくしてね。
電話をしなくてはいけないから。」と答えました。
すると、子どもの気持ちは、少し傷つきます。
「お母さんは電話の方が大切なんだ」と。
 このような時、もう一歩子どもの心に踏み込み、
もう一歩深く、与えることができれば最高なのでは
ないでしょうか。
このような、限りのない布施行を行じてゆきたいものです。