遺 言 の ラ ク ダ


 中東の昔話です。
 昔、年老いたアラブ人が、自分の死期をさとり、三人の息子を
枕元に呼んで言いました。
「私が死んだら、私のラクダの半分は長男に、三分の一は次男に、
そして、九分の一を三男にゆずる。」
 それから間もなく、父親は亡くなりました。ところが、父親の所有
していたラクダは十七頭だったので、どう考えても十七頭のラクダを、
二分の一、三分の一、九分の一に分けることができません。
とうとう、どのように分配するか、三人の兄弟で言い争いが始まりました。
そこへ、一人の旅人がラクダに乗ってやってきました。旅人は、
兄弟のケンカの理由を聞いて、
「そうか、それなら私のラクダを差し上げましょう。そうすれば
分けることができるでしょう。」
と言いました。
 なるほど、旅人のラクダを足すと十八頭となり、長男は半分の九頭、
次男は三分の一の六頭、三男は九分の一の二頭をもらい、みごとに
ケンカは丸くおさまりました。旅人は、
「よしよし。では、最後に残った一頭は、わしがもらって行こう。」
と、自分の乗ってきたラクダに乗って、去っていったそうです。

 計算の合わないはずのものが、一頭のラクダを加えることによって
計算のあう、おもしろい話です。
一頭のラクダを加えることによって、十七頭のラクダを二分の一・
三分の一・九分の一に分けることができ、さらに一頭余った、
という、パズルのような問題は、どうしてこうなるのでしょうか。
 算数の問題として考えると、二分の一・三分の一・九分の一を
足すと、答えは「十八分の十七」となり、分母を十八にすることに
よって、二でも三でも九でも割り切れ、さらに十八分の一が余る、
ということなのです。
 ところが、息子達は割り切れない十七という数に固執し、また、
ほかの兄弟が与えられた以上にラクダをもらわないようにと、
こだわったがために兄弟のケンカとなったのではないでしょうか。

 ラクダを切り裂いて分けたのではなんにもならないのですから、
もし、長男が二分の一に少し足りない八頭で我慢をし、同じように、
次男は五頭、末っ子は一頭で我慢をすれば、残ったラクダは
三頭になります。これを兄弟仲良く一頭ずつ分けたら、長男は九頭、
次男は六頭、三男は二頭となり、同じ結果となるのです。
 「兄弟仲良く、力を合わせて」という遺訓では、毛利元就の
「三本の矢」の話が有名ですが、このアラブの昔話も、考えように
よっては同じ意味の遺訓ともとれます。

 私たちの生活においても、似たようなことはないでしょうか?
「こうあるべきだ」と思いこんでしまうと、ほかの考え方ができなく
なってしまって、無用の摩擦を生じさせることは多々あることです。
そんな時に、ちょっと離れて考えてみると、意外とすんなり物事が
解決したりするものです。

 千利休の逸話とされる、次のような話があります。
 晩秋のある日のこと、弟子の一人が庭の掃除をしていました。
弟子は、一枚の落ち葉も残さないように、きれいに掃除をすませ
ました。千利休は、その庭を見て、
「まだ掃除はおわっていない」
と、掃き終わったばかりの庭に数枚の落ち葉を散らしたそうです。
 落ち葉をきれいに掃除し、ほうき目の通った庭は本当にきれいな
ものですが、あまりにも整いすぎているのもなにか窮屈なものです。
そこに数枚の枯れ葉を散らすことによって、なんともいえない
「ゆとり」が生じることでしょう。 
私たちも、物事を几帳面に、真面目に考えすぎ、自分自身で
行き止まりの袋小路をつくっていることは意外と多いものですが、
そんな自分の心に気付くことは、なかなか難しいことです。

 そんな時、相手の心を思いやるなり、少し自分が損することを
考えるなり、数枚の落ち葉を散らす工夫をすれば、もっと広い
世界が見えてくるのではないでしょうか。
 「丸い卵も切りようで四角、ものも言いようで角が立つ」とか
言いますが、ひとつの思いに固執しない、柔軟な心を持ち続け
たいものです。