トラック環礁内の戦艦武蔵、左後方は姉妹艦の大和。

 昭和18年4月4日の朝5時、連合艦隊司令長官山本五十六は、トラック環礁に停泊していた
連合艦隊旗艦・武蔵の司令長官室で目覚めました。この日から1週間の予定で、「い号作戦」
指導のため、ラバウルに行く予定になっていたからです。

 山本五十六は、疲れていたようです。昭和14年に連合艦隊司令長官という激職に就いて以来
すでに3年半、年齢も60歳になっていました。ミッドウェーで大敗北を喫したのが前年の6月、
「長官思に耽られ憂鬱の風あり」と連合艦隊参謀長の宇垣纏が「戦藻録」に書いたのは
17年6月22日でした。ガダルカナルの敗戦が決定し、2万人の犠牲を出して撤退する方針が
決まったのが同年12月・・・実のところ、ほぼ1年近く、山本五十六はなすこともなく、この環礁に
居座っていたわけです。

 この時期、なぜ山本五十六がヒマだったのか? それは、連合軍が反撃の準備を整えるために
時間が必要だったからなのです。言わば敵方の事情で生じた空白の時間でした。既にその兆候は
現れていました。前年の11月21日、トラックを訪ねた第8方面軍司令官の今村均に、山本五十六は
こう語っています。

 ・・・今になって、お互い隠し立てはしていられない。海軍で、零戦1機が米軍機5機ないし
10機と太刀打ちできると言っていたのは、開戦当時のことで、ミッドウェーで優秀な
パイロットを沢山なくしてから、なかなかその補充がつかず、現在でも1対2とは言っているが、
敵の補充率がこっちの3倍を上回っているので、日増しに力の懸隔が出来て、率直な話、
難戦の域に入っているんだ・・・


 山本五十六は小柄な人で、身長は160cm、体重60kgといったところでした。大股できびきびと歩き、
指先がぴしっと伸びた敬礼が綺麗だったと言われています。この日、随行の幕僚たちとともに、
武蔵乗組員に別れをつげ、右舷舷梯から長官艇に乗り移り、トラック環礁内の夏島水上基地に
向かいました。

 使用機は97式輸送飛行艇で、早朝から整備してありました。ところが定刻になっても出発
しません。同乗する誰かの遅参のせいで、そのことを告げると、山本五十六の顔が一瞬曇った
そうで、これは彼が時間に極めて几帳面な性格を示す一つのエピソードです。この性格が、
後にP38に迎撃される下地を作ることになります。定刻に若干遅れて離陸。武蔵の上を一度旋回
して別れを告げ、南に進路をとって、午後1時40分、ラバウル・シンプソン湾の水上基地に到着
しました。

 ラバウルに着くと、彼は幕僚とともに、ラバウル方面の海軍のヘッドクォーターである、南東方面
艦隊司令部の庁舎に入りました。ここで出迎えた草加任一司令官は、山本の白目がいやに黄色く
どんより濁っているのを見て、真っ先に「ああ、こりゃ、大分疲労しておられるな」と思ったそうです。

 宇垣纏の「戦藻録」には、「い号作戦」の経過が事細かに書かれていますが、今日それを読むと、
ガックリするほど行き当たりバッタリの印象を受けます。

 「い号作戦」とは、日本軍の誇る虎の子の母艦航空隊を総動員し、延べ486機の戦闘機、
114機の艦上爆撃機、80機の艦上攻撃機によって、ガダルカナル、ポートモレスビーの敵基地を
完膚なきまでに叩き、南太平洋の制空権を一気に奪い返そうというものです。

 しかし、既にほぼ1年前のミッドウェー海戦時から、日本海軍の暗号は米軍に解読されていました。
そして、ラバウル周辺の密林内や、周囲の島々には、いたるところにコーストウォッチャーと呼ぶ、
連合軍側の無線通信員がおり、日本軍の動静は各基地に筒抜けになっていました。これに加えて
優秀なレーダーで、連合軍側は早くから日本軍の攻撃を知り、迎撃の戦闘機を上空に上げ、
艦船は避難させて、万全の体制で待ち構えていたわけです。

 これに対する日本軍側の情報収集能力は著しく低く、要するにその都度偵察機を飛ばして見る
しか方法がなかったことが分かります。その結果、大雨が降って出撃出来なかったり、行っても
空振りだったりで、当初1週間だった予定はどんどん延びて2週間になり、しかも海軍航空隊の
ほぼ全力を挙げた航空作戦だったにも係らず、実際に挙げた戦果は少なかったようです。

 「戦藻録」によりますと、4回にわたる攻撃で挙げた戦果は、巡洋艦他22隻を撃沈、8隻を大破
したほか、飛行場施設16箇所に大損害を与え、飛行機138機を撃墜したとなっています。
要するに大成功だったと自画自賛している訳ですね。

 ところが実際に敵に与えた被害ははるかに小さいものでした。連合軍側の資料によれば、
撃沈されたのは駆逐艦他5隻。大破したのが商船1隻となっており、これが艦艇被害の全てです。
航空機では、撃墜されたものが12機で、地上で破壊されたものが4機、これが航空機被害の
全てです。他に、ポートモレスビーの飛行場施設に相当の被害があったとしています。

 もっと重大なのは、攻撃に伴う損耗が思ったよりも大きかったことでした。

 戦闘機25機、艦上爆撃機21機、陸上攻撃機15機、合計61機・・・というのが「戦藻録」に
書かれている損耗の数字です。作戦に参加した370機のうち、約17%の航空機が搭乗員とともに
損耗したことになります。

 日本海軍航空隊は、開戦時に3500人の優秀なパイロットを擁し、そのうちの600人は飛行時間
800時間を越える特に優秀なパイロットして、母艦に配属されていました。それが昭和17年6月の
ミッドウェーまでで655名、ガダルカナル以降の航空消耗戦で3045名と、ほぼ90%を失い、壊滅
しました。後になってみますと、その大消耗戦の端緒となったのがこの「い号作戦」だったという
事になります。

 山本五十六は、4月3日から4月18日までの16日間、ラバウルにいた訳ですが、もともと、
彼自身はこのラバウル行きにはあまり乗り気でなかったと言われています。いくらなんでも、
日本軍の暗号がほとんどすべて米軍に解読され、まわりがみんな、聞き耳をたてている中に
無防備で出てきたとは予想してなかったでしょうが、一軍の最高司令官があまりにも前線に
近づくのは原則的によい事ではないと思っていました。

 その為か、最初のうちは疲れ気味だったそうですが、だんだん元気が出てきて、よく食べ、
よく動いたそうです。


 これは私の想像ですが、彼は、ラバウルに来るまでは、出撃する大量の航空機を実際に見送った
ことがなかったのではないでしょうか。真珠湾のときも、ミッドウェーの時も、彼ははるか後方にいた
わけですから、実際には見てないのですね。数百を越える攻撃機がたてる爆音、航空燃料の匂い、
猛烈な砂埃をついて次々に飛び立つ飛行機が、上空で編隊を組み、飛び去っていく・・・それは
素晴らしい眺めだったのではないでしょうか? 攻撃隊を見送っているうちに、もっと最前線に
行って部下を督励したいと思うようになりました。やはり「情の人」と言われるだけのことは
あります。


 そこで急遽予定を変更し、4月18日に、ブーゲンヴィル島のバラレ、ショートランド、ブインの
3基地を、日帰りで視察することにしました。この3つの基地はそれぞれ近いところにあるので、
航空機を使えばサッと見て回ることは可能です。もともと、この3基地は、ラバウルとガダルカナルの
中間地点にあり、ガダルカナルからは650km離れていて、当時の米軍戦闘機の行動範囲外だと
思われていました・・・ただ一機種、P38を除いて。

 ですから、日本軍から見れば自分の庭の中を移動するようなもので、ラバウルからブイン方面への
コースは「ブイン街道」などと呼ばれ、定期コースになっていました。だから、山本五十六一行が
乗った一式陸攻2機に対し、護衛戦闘機は6機しかつかなかったのです。

 ところが、既に知られているように、山本五十六一行の視察スケジュールは分刻みで米軍に
知られていました。そして、山本五十六が時間を正確に守ることも、よく知られていました。そうで
なければ、そもそもこの襲撃計画が立てられなかったのです。ロッキードP38は、特製の増槽を
つければ米軍の中では最も航続距離が長い戦闘機でしたが、それでも現地での滞空可能時間は
数分間しかありませんでした。もし山本一行の予定が10分でも遅れれば、この襲撃計画はすべて
画餅に帰してしまうのです。

 昭和18年4月18日は日曜日でした。

 ガダルカナルの現地時間午前7時25分、ガダルカナル島・ヘンダーソン飛行場から、
ミッチェル少佐率いる16機のロッキードP38戦闘機が次々に離陸しました。彼らは日本軍に
探知されないように、洋上を15mの高度で飛び続け、途中何の視認目標もない中で、コンパス
だけで4回の航路変更を行い、きっかり2時間10分後、ある地点に辿り着こうとしていました。

 ロッキードP38は独特のスタイルから、「双胴の悪魔」と呼ばれていました。機首に
20mm機関砲1門、12.7mm機関銃4丁を束ね、打ち出す火力は絶大な威力を持っていました。


 35分後、約1000km離れたラバウルの東飛行場から、山本五十六や宇垣纏の乗った2機の
一式陸攻と、6機の護衛戦闘機が離陸しました。


 一式陸攻は、翼の燃料タンクに防弾設備がないことから、別名「ワンショット・ライター」と呼ばれて
おり、他の性能は優れていましたが、極めて攻撃に弱い飛行機でした。


空色の線が山本長官機、濃いピンク色の線がミッチェル攻撃隊の航路を示す。

 伸びていく空色とピンク色の二本の線は、ミッチェル少佐の計算どおり、現地時間9時35分
(日本時間7時35分)、ブーゲンヴィル島上空のある地点でぴったりと重なることになります。

 宇垣纏の「戦藻録」には、この時の記録が、1年後の回想の形で詳細に記されています。
宇垣纏自身の乗っていた一式陸攻もこの時に撃墜され、彼自身大怪我をして辛うじて
生き延びました。

 天気晴朗、視界良好の上上飛行日和なり。左右後上方に戦闘機3機宛警戒援護するもの
時々眼に入る。我高度は1500m程度と記憶するなり。

 二番機(宇垣の乗機)は、一番機の左後。編隊見事にして翼端相触るるなきやを時々
危む位にして、一番機の指揮官席に在る長官の横姿も、中を移動する人の姿もありありと
認めらる。航空用図につき地上物の説明を聞きながら気持ちよき飛行を味ふ。

 ブーゲンヴィル島の西側にかかるに及び、高度を7〜800mに下げ。ジャングルの平地上を
一直線に航過する時、機長紙片を手渡し来る。「0745バラレ着の予定」。腕時計を見るに、
将に0730にして、あと15分と覚えたり。

 この時、機は不意に一番機に倣ひ急降下を開始し、50mの高度に降れり。何事? 一同の
心に感じたるところ、通路に在りし機長に「如何したのか?」と尋ねたるに「間違いでせう」
と答えたり。斯く言うことが大なる間違いにて迂闊の至なりしなり。

 即ち上空戦闘機は之より先、敵戦闘機の一群24機が南航の途中より引き返し来るを
発見し、降下中攻隊に警告せんとする時、一番機も敵を認め、何等の余裕なく急降下、
ジャングルすれすれに下りたるものなる事、後より判明す。此処において初めて搭乗員は
戦闘配置に就き、砲門を開き射撃準備をなす。吹き入る風、操縦する機銃等、一時雑音
混じる。

 機がジャングルすれすれに高度を下げたる時、既に敵機と我が戦闘機との空中戦は
展開せられ、数において4倍の敵は容赦なく大物たる中攻(一式陸攻のこと)機に迫る。
之に対して機は急速90度以上の大回避を行う。機長は上空を凝視し、敵機の突っ込まん
とするを見るや、主操縦者の肩を叩きて左右を指示せり。

 一番機は右に、二番機は左に分離し、その距離を増せり。二回ほど回避の後、一番機や
如何と右側を眺むるに、何たることぞ! 約4000mの距離に、ジャングルすれすれに黒煙と
火を吐きたる一番機が速力も落ちて南下しつつあらんとは。

 「しまった!」の考えの外なく、余の斜後の通路に立ちし室井参謀の肩を引き寄せて
「長官機を見よ」と指示せり。之彼との永遠の別離とはなれり。この間僅かに20秒位、
敵の来襲にまた機は又急転して長官機を見失ふ。

 水平に帰るももどかしく、如何なり行きたらんと心は憂に満つ。当然の結果は予想しある
所なるも・・・次の一瞥に機体は既になく、ジャングル中より黒煙の天に沖するを認める
のみ。嗚呼万事休す。

 宇垣纏によって1年後に書かれた「戦藻録」の記述は、山本機被撃墜時の事情を物語る最も
信頼が置ける資料だと言われています。宇垣纏自身は、この時、山本長官を守れなかったことを
終生責任に感じており、昭和20年8月15日、終戦のラジオ放送を聴いた後、大分の基地から、
部下とともに沖縄特攻に出撃して自決しました。懐には、山本五十六から貰った短刀を持って
いました。




非常口順路