2度目の種子島紀行

専務理事:副分団長  中村 隆嗣

前回種子島を訪れたのは2004年8月5日〜8日であり、今回は5年ぶりの訪問となる。あの時は大人ばかりでの訪問であり、フェリーにマイクロバスも載せてもらえなかった。今回は船舶も一新されて大型車両の積載が可能となったので、福山から大型バス(45人乗り)で種子島へ乗り込んだ。

8月1日(土)
 種子島へ向けて出発の日。20時を回る頃、集合場所の妙政寺駐車場へ三々五々、参加者が集まり始めた。我々を種子島へ運ぶ大型貸し切りバス(45人乗り)は、早めに到着していた。都合で参加できないリーダーも何名か来て、参加費の徴収などの協力・援助をしてくれた。有りがたいことである。先月29日の打ち合わせの際、バスの席割りや宿舎の配置が既に出来ているものと思っていたが、全く何も出来ていなかった。急遽、席割を急いだ。分団員はできるだけ分団員同士で、保護者は保護者同士での配置を終え、適当な場所にリーダーを配置した。「分団長と事務局長は前」と聞いていたので、最前列の左右の座席を指定した。宵闇も濃くなり、照明抜きでは分りにくくなってきた駐車場を出たのは、予定通りの21時であった。
 2号線を下り、福山西ICから山陽自動車道に乗った。土曜日で「通行料金がどこまで行っても1000円」と言うこともあり、車の数は多かった。最初の停車地「宮島SA」へ向けて移動したが、広島広域運動公園(通称:ビッグアーチ)は煌々と照明が点っていたが、サンフレッチェの試合でもあったのだろう(宮島SAのTVで、10でサンフレッチェの勝利を報じていた)。
 参加者はまだまだ元気で、バスの中は会話が弾んでいた。
 宮島SAでトイレ休憩。バスが着くと全員が下車、特に煙草組は急いで下車し煙を出していた。SAの駐車スペースには車両が多く、中にはサンフレッチェの試合の帰りと思われる一団もいた。広島県から山口県へ入る辺りから車両の数も減り、山陽道は市街地から離れていく。バスのヘッドライトだけが、進行方向を明るく照らしていた。「種子島へ行く」と言う期待で胸を膨らませつつ、消灯された車内が静かになって行った。

8月2日(日)
 日付は2日に変わったが、バスは未だ山口県。0時46分頃に壇ノ浦SAに到着。SAの暗い駐車場から見える対岸の灯りや、水道を通過して行く船の灯火に郷愁を感じた。24時間営業の店舗では土産物をはじめ色々な商品を販売していたが、揚げたドーナツ様の菓子や竹輪を購入して乗車する人もいた。若いカップル達が結構見られたが、長距離移動でもしているのだろうか。
 壇ノ浦SAを後にして、車は「関門海峡大橋」を渡る。眼下に見える町の灯が一枚の絵画のように見えていた。
 九州道に入ると明かりの無い山中を走る。辺りは真っ暗闇。「寝るしかない」ので車内は段々静けさを増し、やがて私自身も眠りの中に入って行った。九州道は今年の梅雨で、大宰府辺りが通行止めとなり迂回が必要になっているが、その辺りの記憶が全く無いということは完全に寝入っていたのだろう。北熊本SAで小休止の後、本当に真っ暗な九州道を南下した。たとえ遠目であれ、一つの明かりでも見えると「あっ、あそこに人間がいるのだ」と安堵感を憶える。これは人間の性なのだろうか。
 鹿児島県に入る前、非常に長いトンネルを通過した。私が良く利用する米子道の湯原トンネルは全長4kmだが、それ以上に長かった。新幹線で通過する際はトンネルの長さには無頓着だが、自動車で通行する時は長ければ多少恐怖心も湧く。宮崎県への高速道入り口は“えびのJC”である。ここから「宮崎自動車道」は始まるが、県南が高速道路網で結ばれているだけで東国原知事が言われるように「九州における陸の孤島」というイメージが理解できる。
 5時頃桜島SAで停車したが、このSAは時間営業のようで店舗には総てシャッターが下ろされ、室内は恰も暖房がかかっているような暑さだった。空は薄っすら明るさを帯びていたが、鹿児島港の着時刻を調整するために城山へ向った。西郷さんの銅像を左手に見ながら進むと、一面「大賀ハス」の葉や花が見られた。早朝というのに、既に三脚を準備して蓮の花の撮影に集中している人もいた。城山へ向う道路は“九十九折”である。左右に揺れながら、上を目指す。「西南戦役の際、西郷が隠れた窟」という場所を右手に見つつ、車は駐車場へ。時刻が時刻、他に駐車している車はいなかった。「噴煙なびく桜島を見よう」と展望台へ急いだが、生憎の天候。桜島は雲に隠れていた。堀江リーダーの指導でのラジオ体操を終える頃、健康を目的にしている団体や個人が三々五々と登ってきた。「桜島が見えなくて残念ですね。どちらから来られたのですか?」と聞いてくる人もいた。遠くに、これから乗船するフェリーの姿も見えていた。山道には人懐っこいネコもいた。山にはクスの巨木やスダジイの巨木も見られたが、概して樹木は大きく、クスが優勢の樹相であったように思えた。
 7時過ぎに鹿児島港着、下車して待合室で朝食を摂った。鹿児島の業者に依頼した朝食用の「サンドイッチと牛乳」と、昼食用の「幕の内弁当」。昼食用の弁当は、船内で食べるために積み込んだ。
 折角鹿児島に来ているので増水先生に電話をかけたが、生憎「今週は福岡での勤務」とのこと。「久しぶりだから、是非会いたかったのに」とも言われた。霧島市にある「第一工業大学」が主たる勤務場所(教授)なので、こちらに居られると勝手な判断が間違っていた。次の機会を約束して、電話を切った。
 前後するが、埠頭で待っている時フェリーの関係者と思われる方が来られ「ここはコアジが良く釣れるんですよ」と言われた。海面を見ると、小魚が群れて泳いでいる様子が伺えたが、それ以上に驚いたのは「大きなエイ」の姿だった。正に悠然と泳ぎ去った。
 8時にフェリー「プリンセスわかさ」に乗船。船中の人となった。フェリーは出港後暫くは錦江湾内を進む。種子島までの距離で見れば、外洋のほうが距離は短い。進路右側に薩摩半島左側に大隈半島を望みながら、33ノット位の速度で走っているとモニター画面が知らせてくれた。湾内は揺れは殆どなく、大隈半島には風力発電用の風車が十数基設置されているのが遠目に見え、また新興宗教の施設らしき建物も見えた。薩摩半島側には喜入の石油備蓄タンクや指宿の温泉街、さらには開聞岳(薩摩富士)も見ることが出来た。常時乗客数が望めないようで、売店はほぼ閉鎖状態だった。甲板での潮風はネットリしていて、気持ちの良いものではない。船舶独特のエンジン音を響かせながら、一路南下した。右手に「鍋蓋」のような馬毛島が見え始める頃、左手には種子島の北端が見えやがてフェリーはロケットを模した灯台が建つ防波堤を回りこみ、西之表港に入港、接岸した。港の中は静かだった。
 下船後バスに乗車し、最初の目的地「種子島開発総合センター(通称:鉄砲館)へ向った。太陽はギラギラと輝き正に南国暑さは半端ではないはずが、最近の瀬戸内の暑さに慣れているのか暑さへの驚きは無かったが、街行く人は殆どいなかった。鉄砲館の駐車場には車は無く、内部も閑散としていた。真向かいの“土産店”も健在だったが、客はいなかった。

<鉄砲館>
 ロビーに集めてビデオを見せた(15分間)。「私たちの種子島」と言うタイトルで、種子島の自然・地理・歴史・民族などが分り易く紹介されていた。
 その後、リーダーと共に小集団での学習時間を1時間半位とって、展示物等を見て回らせた。以前と展示物には変わりが無く、再来者には新鮮味に欠けるだろう。ただ、大雑把には「種子島知識」が入力できたことだろう。
 道路を挟んで真向かいの榕城中学校には、14代島主種子島時尭(我が国で初めて鉄砲を作らせた人)の像が鉄砲館を見下ろしていた。
 ここ種子島は、昔から良質の砂鉄が取れた(現在でも海岸の白砂の中に、砂鉄の黒い筋が恰も砂模様のように見えている)。その砂鉄を使って精錬された鉄で、ハサミや包丁を造っていた。その技術が種子島(火縄銃)製造のベースにあったのである。

 鉄砲館を後にして、バスは一路宿泊施設の「島間自然の家」に向った。国道58号線を南下したが、車窓から見える景色は「サトウキビ」の畑と、「サツマイモ」の畑ばかり。民家があっても、人の気配はなかった。所々道路工事が行われたようで、新道がバイパスのように見えた。「種子島公立病院」が新設されていた。
 種子島は、北から「西之表市」「中種子町」「南種子町」の3行政区に分かれている。全人口は34128人(2009年6月)である。その南種子町の交差点にある信号機は、手動で向きが変えられる。丁度その信号で右折する時に見えた看板に「行きは、8月4日午前2時から6時まで通行止。帰りは、8月7日(時間を忘れた)通行止」とあった。何でも「HU−B」に関係する物を大型トレーラーで運ぶらしい。車内の意見は「一度は見てみたい!」であった。
 島間で道を間違え、駐在さんの先導で「自然の家」に着いたのは15時頃だった。自然の家の部屋割りも出来ていなかったので、急遽部屋割りを作成し、下車時に指示を出した。この「自然の家」は元島間中学校だったが、生徒数減で閉校したものを社会教育施設として利用されているもの。YAC本部が主催する「種子島スペースキャンプ」の際も、ここが宿舎となる。手入れはあまりよくなく隅にほこりなどの汚れが目立つが、とれないのだろう。部屋は網戸にされてはいたが、風通りは良くなくムンムンとしていた。昔は学校だっただけに、周囲には樹木が沢山植えられていたが手入れは届いていなくて伸び放題。蕾が沢山付いた「ソテツ」の樹が多かった。
 荷物を置いて旅の疲れを取らぬうちに大部屋に集め「種子島の自然」についての学習をした。明日の大崎先生の講義への事前学習である。PPTを使っての学習だったが、部屋は明るく画面は小さくで、説明は難しげで分りにくかったようだった。学習終了後、またバスに乗車し茎永の「河内温泉センター」へ入浴に行った。アルカリ性温泉とでも言うのだろうか、泉質はヌルヌルしていて何でもお肌ツルツルになるとか。気持ちの良い温泉(湧出温度27℃とか)だった。宿舎に帰り夕食。弁当は味噌汁付きで、業者から取り寄せた。食後、天気が良かったので“星空観察”。福山の空との違いを、金尾リーダーが分り易く説明してくれた。この日は南種子町は「ロケット祭り」とか。町を挙げてのイベントらしい。21時過ぎには、遠くで打ち上げ花火の音だけが聞こえていた。その頃には、これまでの疲れからか、みんな寝入っていた。風通りは悪く、蒸し暑い夜だった。翌日、管理人さんが言われるには「これまでで一番蒸し暑い夜だった」とのことだった。

8月3日(月)
 いよいよ待ちに待った「種子島宇宙センター見学」の日が来た。起床後、6時半にラジオ体操。堀江リーダーはこういう指導が上手である。でも、体操をしている参加者の様子は、体操というよりは手足がブラブラと動いているだけのように見えるのはなぜだろうか。
 朝食はコンビニに予約を入れていたパンと牛乳を受け取りに行き、7時から食堂で食べた。中には牛乳の飲めない子や食の細い子もいて、食事もなかなか難しい。大人は、北野リーダーが運んできた本格的なコーヒーメーカーで美味しいコーヒーをいただいた。8時半に宿舎を出て、一路「種子島宇宙センター」を目指した。途中「茎永層群」の砂岩を見たり、稲の収穫風景を見たり。砂岩の崖は凄かった。海食洞が高い所に開いているが、その様子が恰も「敦煌の岩窟像」のように思えた。稲は全体に低い種のようだが、刈り取った後を放置しておくとまた伸びて稔るとのことだった。またこの辺りの墓は、掘り込んだあと文字に金箔を貼り付けているようだが、その理由は定かではない。何でも長崎県や鹿児島県では、「経済的に恵まれている層が“金文字”にしているようだ」との説明もある。調べてみるのも面白いかも知れない。
 9時過ぎに宇宙センターの一般者駐車場へ着いた。9時半にならなければ「宇宙科学技術館」は開館しない。それまでの時間を、HUロケットのレプリカがある広場で過ごさせた。JAXAの職員(大木田さん)の案内で科学技術館へ行く。入館無料。4〜5名を一班にしてリーダー一名を配置して、見学を始めた。11時から前の所長:園田さんの講演があるので、それまでに買い物をすることを許可しておいた。大木田さんとの話の中で「今日の見学は一般と同じ3施設」とのことだったので、早速YAC本部の小定君に電話を入れた。「YACの団員としての特典がない」と。間なしに返事が返ってきて「竹崎のプレスセンターの見学を入れた」と。極短時間ではあったがプレスセンターは好評だった。「一般が入れないところに入れた」だけで満足度が上がるのだ。外は風が強く、浜の砂が舞っていた。ここは「竹崎漁港」で、通常は誰でも入ることが出来る。夏場は海水浴場でもあり、建物一階のトイレだけが常に開放されている。周りの景色も素晴らしく、土地の色と海の色が対照的に美しかった。海岸に近い海の色は、どこまでも澄んだブルーだった。
 12時半から職員食堂で昼食。手際よく・・・と考えて「カレー」にしたが、並んで受け取らねばならなかった。職員が使用しない時間帯で、一般に開放されているらしい。我々の後ろに十数名が並んでいた。職員食堂だけにサービスが良い。コーヒーは暖かい物も冷たい物も飲み放題だったが、気づかない人が多かった。
 13時半から施設見学。一般見学者と同じコースということで「総合指令棟(RCC)」「大崎第一事務所」それに「ロケットの丘展望所」を見学して回った。RCCは打ち上げ時のコントロールセンター。同じものは大型ロケット発射場の地下12mの所にもある。前回の訪問の際はこの地下施設も見せてもらえたのだが、今回は「大型ロケット発射場」さえ見学不可能。近くへ行くことさえ出来なかった。今月中に打ち上げられるHU−Aと9月11日の打ち上げ予定のHU−B1号機が搬入されているのが理由らしく、的川先生が言われるには「総務省管轄だから、可能性はゼロに近い」だった。大崎の事務所では、倉庫にあるもう打ち上げられることのないHU型のロケット本体を見た。一段目二段目共に横たわっていたが、今回初めて見た人はその大きさに圧倒されたのではなかろうか。前回無かった一段目・二段目のエンジン部分やスカート、さらにはフェアリングや衛星を載せる台座もあった。これらは「科学技術指定」の物品として「南種子町に貸与されている」と園田さんが言われた。福山の子ども達が見たいときに見れるよう、福山に展示してやりたいと思った。ロケットの丘からは、大型ロケット発射場が良く見える。その景色をバックに、記念撮影をした。そこからの帰り、「グンバイヒルガオ」を見せてやりたくて、園田さんにお願いしたところ、快く承諾してくださった。その植物は「固体ロケット試験場」にある。今回は総ての施設がフェンスで囲まれ、施錠もしてあった。ゲートでのセキュリティーも厳しさを増していた。試験場入り口の錠を外して門を開けて入った。群落は小さくなっていたが、それでも大きく育った状態を見ることができた。「ここでは植物には関心がないからなあ。これからは少し考えなければ」と、園田さんの言葉があった。燃焼実験の炎で変質したり壊れたりしているコンクリートをみて、ロケットエンジンの威力を感じてくれただろうか。
 15時半から宇宙技術館で大崎先生の講演が予定されているので、急いで戻った。疲れと空調の良さで、寝入ってしまう参加者もいた。種子島の自然や歴史・文化について持論を中心に話されていたが、漫談さながらのように聞くことが出来た。早口で内容も多くて、低学年には理解が難しかっただろう。でも3名、種子島で産出するカキの化石を貰い、宝物のように持ち帰っていた。素晴らしい土産となったことだろう。
 時間に追われる研修が続く。次は「国史跡:広田遺跡」へ急ぐ。YAC本部の上村さんが紹介してくれた南種子町教育委員会の徳田さんが待っていて下さった。彼女のフィールドらしく、研究を続けているようだ。これまでの成果をパネルにして持参され、それを中心に説明してくださった。遺跡は往々に昔の人々の墓地である。今回のこの講座も、興味や関心がある参加者は多くはなかったろう。1955年の台風22号の波浪で、砂丘の一部が崩壊し発見に至った遺跡である。偶然の発見といえるだろう。貝殻が貴重な装身具であった時代に、それや装身具で飾り立てた人骨が発見され、出土品などから国の史跡として指定されたものである。パンフレットの表紙の写真を見ると、遺跡として指定されている一帯が過去に墓地として利用された理由が分るような地形である。(関心が有る方は、若干のパンフレットがあります。お分けいたします。)
 17時半を過ぎる頃に遺跡の学習を終えた。駐車場から遺跡までの間の砂浜には、海浜植物が多く繁茂していた。良い学習教材である。また「スナガニ」がかなりの個体数が確認された。固体としては小型であるが、動きはすばしこかった。広島県では「貴重種」になっているが、種子島ではどうだろうか。浜にはサンゴのかけらが漂着していたが、太平洋の荒さを垣間見た気がした。種子島では「サルトリイバラ」の葉は先が尖がっている。固体の変化か、それとも種が違うのか。土地独特の変化と考えたいのだが。
 夕食は、今夜はバーベキュー。大崎先生の知り合いの民宿(ホテル サンダルウッドワン)へ行く。既に支度は整っていた。焼いて食べるだけ。適当に分かれて座り、炭火に近い人が焼く係りとなっていた。この民宿の考えたことだろうが、芭蕉の葉でお結びが包まれていた。一時間弱の時間では、バーベキューは楽しめない。おまけに19時半頃から入浴タイムであり、早々に食べ終わってバスへ移動した。風呂は昨日と同じ場所。時間が遅かったので客が少なく、ゆったりと温泉を楽しむことが出来たようだ。
 帰路、島間港へ寄る。前所長さんが「明朝運ぶのはHU−Bのフェアリングです。午前中に陸揚げされていますから、港で見ることはできますよ」と言われていたので、「せめてトレーラーに載せられた物を見よう」と港へ。フェアリングとその取り付け台と思われる物が、夫々トレーラーに載せられていた。コンテナに梱包された状態なので、見た目にはただの箱物。警備員さんが2名おられたが、聞くと「午前1時までの警備です。1時になると運搬担当に引き渡します」とのこと。我々を除いて、見学に来る人はほとんど皆無に近かった。
 宿舎へ帰ると、すぐに消灯とした。あと二日、無事に過ごせますように。夜空を見上げていると、流れ星が数個流れ去った。

8月4日(火)
 今日は「種子島を去る日」である。本日も早朝ラジオ体操で始まった。「朝食後掃除」という予定にしていたが、担当リーダーの計画で朝食前から掃除にかかった。「使用した部屋や廊下、トイレや流しなどを使用前よりは綺麗にしよう」と。割り当ては堀リーダーに一任していたので、その通りに実施した。途中、朝食を挟んでの掃除だったが、しっかりと汗をかいた。
 昨夜は実に良く寝た。「泥のように寝る」とは、このことだろうか。周囲の状況なんて、まったく気にもならなかった。気がつけば朝であった。しかし、皆本当に良く寝ているものだ。子ども達は、起こしてもなかなか起きなかった。
 寝具を片付け、掃除を済ませて8時半頃まで休憩にした。移動を始めても良かったが、9時を予定していたから。20分前に集合させ、管理人さんに挨拶をさせた。中学生が二人いたので一人ずつ挨拶させたが、肝心なところで気後れしてしまう。アドリブや即興での挨拶や動きが出来ないのが、今の子どもの課題なのだろうか。「有難う」の単語は言えても、それに付随する言葉が出ないのだ。
 利用させていただいた二日間、子ども達は「行儀は良かった」と評価する。暴れたり、汚したりもなかった。上手に施設が利用できたと、誉めたい。
 9時前に施設と管理人さんに分かれを告げて、島間を後にした。役場に寄って書類を提出し、使用料を支払うためである。役場には駐車できないので隣の広場に駐車させてもらったが、「ここもバス会社なのよ。内のバスも利用して」と女性の事務員に言われた。「見たことも無いバスですが、何処から来られた?」と聞かれ「広島県の福山市から。フェリーに載せて来ました」と。人口が減っていること、若者が少ないこと、ロケット祭りのことなど、色んな話に盛り上がったが、バスの運転手はタクシー会社で道について尋ねていたようだ。分団長夫妻がなかなか帰ってこないので北野さんと役場まで見に行き、玄関を入ろうとしたところへ出てこられた。環境からか、役場ものんびりとしているらしい。
 門倉岬へは地方道を南下した。左右にサトウキビ畑を見ながら進むと、珍しく道路工事をしていた。小学校は夏休みで静かだが、運動場は緑色。「芝生?」それとも「草?」。最近は学校のグランドの芝生化が流行っているようだが。門倉岬の駐車場には、レンタカーが一台駐車していた。先客あり、だ。クマゼミが騒音のように鳴いていた。岬には「二等水準点」があるが、そこから見る砂浜の海岸線は美しかった。この浜にイギリスの船が難破して流れ着き、「インギー鳥という鶏が伝えられた」とのことだ。東側には広く太平洋が広がり、南西方向には屋久島が眺められる。この岬にポルトガル船が漂着し、その時に伝えられた鉄砲が後に自家製産され「種子島=火縄銃」と呼ばれるようになったのだ。
 もと来た道を辿り、次の見学地「千座の岩屋」へ。バス会社の事務員によれば、「駐車場までは大型は入れる」とのことだったので、安心して移動した。駐車場の車の数は少なかった。「沖縄の南に台風が発生」と言う天気予報だからか、波は高く大きかった。砂浜には「風紋」が綺麗に残っていた。また、所々に「椰子のみ」が転がっていた。岩屋の中は冷え冷えとして心地よかったが、暗すぎた。所々に水溜りが出来ていて歩くことが出来ない場所もあったが、自然のエネルギーの凄さに気づいてくれただろうか。太平洋からの強風の影響を受けている植物の様子も見受けられたが、「環境と植物」の関係が少しは理解できただろうか。
 「ゴミは出してはいけない」こと位分るはずなのに、「なのに・・・」である。バスから降りるとき一人に一本ずつお茶を渡した。ところが、帰るときペットボトルを持っていない子がいた。聞くと「友達に持ってもらった」と言うが、「預かって持っている」と言う子はいなかった。ということは「ペットボトル一本がゴミとして落ちている」ことになる。些細なことかもしれないが、こうして自然界のゴミは増え続けるのだろう。
 「千座の岩屋」を後にして、バスは一路西之表港を目指した。途中、弁当屋で昼食用の弁当を積み込んだ。西之表港では現在ターミナルの建物を新築中で、仮の待合室は離れた所に設置されていた。「プリンセスわかさ」は既に着岸し車両を積み込んでいたので、昼食はバス内で食べて乗船することにした。来る時と同じ部屋を陣取って座った。先に入っていた女性客一人が、余りの騒々しさに辟易したか出て行った。代わりに入ってきた女性は、最後まで寝ていたようだ。船は予定時刻に出港したが、湾内では揺れはなかった。外洋に出るや、ローリングが大きく、また北の風が強かった。左手には馬毛島が見えたが、本当に鍋蓋のようだった。過去には住民が居たとの記録があるが、現在は無人島とのこと。風上へ向って船は進むため、最終的には着時刻が遅くなった。往路より天候が良くなり、大隈半島の宗教施設や風力発電用風車が良く見えた。薩摩半島側は開聞岳が小型の富士山のような様相で見えていた。麓にある池田湖は、過去には「イッシー」なる生き物が見られたとかで話題になったが、現在はそんな話はないようだ。
 桜島は僅かに噴煙を上げ、活火山であることを誇示しているようだが、鹿児島市民は火山灰に泣かされている。下船後、健康ランド「いろはの湯」へ行ったが、駐車している車には薄っすら火山灰が降り落ちているのが分った。
 道に迷いつつ夕食を摂る「ふぁみり庵はいから亭与次郎本店」へ行った。“大人も子どもも同じ料理”というのは平等なようで実は困る。食べきれない場合があるからである。今回も「ご飯はお代わり自由」と言ってお櫃を置いていかれた。ご飯のお代わりをしようと、急いで飯ばかりを食べておかずを残した子がいた。学校と違うので食べ様までをとやかく言うことはしなかったが、どうしたものだろうか。
 種子島の河内温泉でも湯船で泳いでいた子がいた。黙認していたが、家族旅行でも同じことをさせているに違いない。「けじめ」が付いていないのである。鹿児島の「いろはの湯」でも同じだった。規模も大きく、客数も多かった。特に高校生の団体が入っていたが、そこでも気にすることなく泳いでいた。嫌な思いだけが残った。
 団体旅行で多くを引率していくと、怪我や病気が気になる。だから、買い食いはさせなかった。今回は教育というキーワードで繋げば同じかもしれないが、学校ではなく社会教育団体である。出来るだけ注意されることなく過ごさせたいので、大目に見て管理させてもらったが、買い食いの目立つ子がいた。考えてみれば「課題が多く見つかった」研修の旅であったように思う。でもそのことは、分団で考えることより家庭での課題であると思うのだが。
 20時30分にバスが迎えに来た。全員乗車の確認をして、福山へ向けて出発した。総てのスケジュールを消化して、残りは「土産を買わなきゃ」だけだった。特に休暇を取って参加した保護者やリーダーは、職場用の土産が必要だった。これまで土産が買えるようなところがなかったので時間設定をしてこなかったが、さいごのチャンス「九州道の桜島SA」で土産タイムを取る事にした。九州道入り口で道を間違えて余分に時間がかかったが、“22時閉店”というSAで30分ほどの慌しい買い物。全員が買い終わったときは、閉店時刻を過ぎていた。でも、お店側は思わぬ売り上げとなったことだろう。バスの車高が下がるくらいの量を買い込んでいたものね。

8月5日(水)
 九州を出る頃に日付が代わった。桜島SAから数えて4箇所のSAでトイレ休憩のために停車したが、疲れたのか起きてトイレに行く人は少なかった。自動車道のSAやPAにはトラックが多く停車し、エンジンをかけたまま運転手は仮眠を取っているようだった。走行車線も追い越し車線もトラックが多く走行していたが、こうした様子を見るに付け「日本の物流は彼らに負うところが大きい」と、改めて感じた。夜が白みかける頃赤坂バイパスを抜け、瀬戸町に入っていた。車内で分団長の挨拶や南の事務局長の挨拶を聞く頃には芦田川が近づき、皆の心は「今日の仕事」「今日は登校日」になっていたのかも知れない。予定時刻ぴったりの5時30分、バスは妙政寺の駐車場に入りエンジンを停止した。
 迎えの車に自分と土産を乗せて、親が待つ、家族が待つ我が家へと帰って行った。後に3人分の落し物が残っていた。

総括
 種子島は遠かった。私自身も、気持ち(気分)は若いのだが、疲れが抜けない(抜けにくい、ではない)年齢に達しつつあるようだ。強行軍は避けねば、どこかで歪ができそうだ。
 ともあれ、予定した目標はクリアーできたことは喜ばしい。JAXA種子島宇宙センターでの体験や経験が、分団員の今後に有機的な関わりとなることを期待したい。センターの見学に当り、YACの飯田専務理事、上村さん、小定さん、さらには的川先生やセンターの大木田さんなど多くの人々のご協力や御支援でこの研修はできました。感謝したいと思います。

 参加してくださった皆さん、9月以降の分団活動にも積極的に参加し、自分を高めてください。参加してくださり、本当に有難うございました。