有職故実(ゆうそく・こじつ):

=有識故実(ゆうしょく・こじつ)
有識は、平安時代末期までは有識と書いて「ゆうしょく」「ゆうそく」「ゆうそこ」などと読み、鎌倉時代以来、慣用して有職と書き「ゆうしょく」と読み、江戸時代も公家はこの読みを踏襲したが、国学者の間では「ゆうそく」と読むのを例とした。
故実も、古実とも書き、「こしつ」と清んで読んだが、武家は「こじつ」と濁って読むのを例とした。
有識も、故実も、本義は先例に立脚する伝統的信念の発露であり、『貞信公記』延喜7年(907年)9月9日条に重陽
「与二年来例一相違、是故実也」
とあるとおり、先例の中でも時宜相応の例をもって、たとえ新例であっても、これを故実と称した。
いわゆる「故実、故事之是者」(『史記』魯世家註)ということである。
ただ故実は、当事者の信念なので、その当否については批判があり、『明月記』建久3年(1192年)4月2日条に、後白河法皇崩御の諒闇の服を九条兼実の説として
「雖二先例一雖二故実一不用事歟者」
とある。
かような指導者として批判するに足りる識見をもつ博識を有識といい、その修得者を識者という。
令制では、国の行事の細則を式に規定しているが、摂関制以来、幼帝や摂政による臨機の新例が勘案され、朝議の場所も特殊の大儀のほかは朝堂から内裏に移行し、調度の敷設、装束、進退の作法なども漸次、唐様から和様化した。
かくて式によりながらも時の摂関の意向を反映した先例が時代とともに増加し、父祖の例を踏襲する子孫たちによる家流を生じた。
そのための徴証として各自がそれぞれに禁中行事を中心とする日記を作成し、自家はもとより、他家の日記も借用書写して他日に備えた。
摂関制以来の天皇以下貴顕の膨大な日記は、有識故実の記録であり、有識の家は多数の日記を収蔵した家といわれたほどである。
家流の分派は、『延喜式』撰進に参加した貞信公藤原忠平の子、小野宮太政大臣藤原実頼と九条右大臣藤原師輔以来著名であり、前者の流派に『小野宮年中行事』、後者の流派に『九条年中行事』があって互いに径庭を示し、子孫それぞれに家流を伝えた。
醍醐天皇の第7皇子源高明は、実頼の次女を嫡妻とし、その没後、師輔の三女を後妻として両流の機微に通じ、その著『西宮記』には諸説を併載して古礼の有識書と尊重された。
また実頼の孫の藤原公任は、御堂関白藤原道長の子の教通を婿とし、家流に九条流を加えて『北山抄』を著わし、一条院以来の有識書として注目された。
さらに大江匡房が後二条関白藤原師通のために撰述したという『江家次第』は、一部に師通の子の忠実の批判はあるが延久年間(1069−1074)以後の有識書の白眉とされた。
忠実の子の頼長は『台記』久安6年(1150年)正月14日条に
「北山抄・小野記、年来所見也、而依先祖此説、唯縁土御門説
といい、さらに
「先年禅閣語曰、九条殿委曲説也、而御堂為一条左大臣聟、受彼大臣訓、其説于今不絶者、御堂末流豈背彼相府説乎」
として当時の家流の意識を伝えている。
院政以来、禁中・院中・私第の行事に祭祀・法会・遊宴が盛儀となって展開し、風流の一日晴
(いちにちばれ)の増加とともに、故実は枝葉末節に拘泥して複雑となって形式化した。
ことに如木
(じょぼく)とよばれた装束硬化の風潮は衣紋方(えもんかた)を登場させて、様式化が最高潮に達するとともに、爾後の有識はその形骸の追随にとどまり、行事の改廃・中絶・再興に伴って、いかに往時の盛儀を復活するかという努力の繰り返しに過ぎなくなった。
そのため憑拠の例証とする日記を引用しやすいように類別に抄出編集することが盛んになり、恒例
(こうれい)・臨時の行事部類には『節会部類』『諸儀次第部類』『朝儀部類記』『朝覲行幸部類』『拝賀部類』『新嘗祭部類』『乞巧奠部類』『除目部類』『大饗部類』『殿上淵酔部類』『改元散状部類』『年号勘文部類抄』『御即位部類』『御誕生部類』『元服部類』『立后部類』『准后宣下部類』『上表部類』『凶事部類』など、服飾部類では『服色部類』『御?行幸服飾部類』『近衛服色部類』『凶服部類』など、職掌分類による故実集成として『貫首故実』『夕郎故実』『上卿故実』『廷尉故実』『作法故実』など枚挙に遑がない。
聞書・覚書・意見書にも富家殿藤原忠実の『中外抄』『富家語
(ふけご)』、九条藤原伊通の『大槐秘抄』、後鳥羽院の『世俗浅深秘抄』などがある。
装束中心の書としては、源雅亮の『満佐須計装束抄』、家流の一日晴の記録集成として久我(源)通方の『餝抄』、藤原定家の『次将装束抄』、鷹司冬平の『後照念院殿装束抄』、中山(藤原)忠定の『年中諸公事装束要抄』『物具装束抄』などは有名である。
また朝儀の萎靡を憂えて撰修された順徳天皇の『禁秘抄』諸芸能事にも
「天下謝礼時、御失礼尤左道事也、後三条・白河殊有識也、必々可之也」
として有識の必要性を説き、南北朝時代以来の後醍醐天皇の『建武年中行事』『日中行事』、北畠親房の『職原抄』、二条良基の『百寮訓要抄』、一条兼良の『桃華蘂葉
(とうか・ずいよう)』『公事根源』『代始和抄』『女官飾抄』なども有職書の宝典と尊重され、近世以降、これらの書物の階梯・注解が行われた。
行事の場所も里内裏が普通となり、装束も如木の普遍化とともに日常と行事の際の懸隔がはなはだしくなって、衣服の下克上が一般の風潮となった。
尋常の朝服は束帯から衣冠に移り、公卿日常の直衣
(のうし)は狩衣(かりぎぬ)に、地下常用の水干(すいかん)は労働者から向上した直垂(ひたたれ)に、女房の重袿(かさね・うちぎ)は重小袖(かさね・こそで)に代わって、名称は同一でも、時代により着用者の地位も、衣服の形状も、地質・色目・文様も相違して、後代の認識で前代の内容を理解することが困難になった。
行事の特殊装束も、中絶後に復活した様式は、その時点での研究水準に、製作者の技術と経済的負担の実情によって相違を生じている。
そのため『伊勢物語』や『枕草子』をはじめとする禁中を中心とする文学作品類の有識用語は、公家以外には理解困難となり、公家にあっても時代の下降につれて難解となったので、実際に行事を施行する識者としての有識本来の研究のほかに、物語類をはじめとする古文献にみえる有識故実の用語を研究することが盛んになった。
すでに『源氏物語』に関しては、鎌倉時代ころから用語の解釈が試みられ、順徳天皇の曾孫である四辻善成『河海抄』は、それら注釈の集大成として著名である。
その補訂という一条兼良の『花鳥余情』をはじめ、『源語秘訣』『源氏物語之内不審条々』、その子冬良の『源語装束抄並肖柏問答抄』、この書を参考にした宗碩の『源氏男女装束抄』などは、いずれも当時の有識からみた考証解釈であり、この研究は、公家から武家・連歌師・僧侶と次第に発展した。
これに反し、本来の有識は、室町時代末期以来、宮廷の不振につれて衰退し、行事や装束に中絶をみたが、天正16年(1588年)の聚楽第行幸は、応仁年間(1467−1469)以来の沈滞した有識の復活を促し、豊臣秀次も関心を示して、『言経卿記』文禄2年(1593年)2月24日条には
「惣別、有職御草子之儀奉行可仕由被仰了」
と伝えている。
江戸時代に入ると、元和6年(1620年)の徳川和子入内、寛永3年(1626年)の二条城行幸と盛儀が続いて、華麗な装束・調度の再興をみたが、時流の反映と武家様式の混入と相まって、特異な狂い咲きにも似たいわゆる寛永有識を生じた。
これを一般好事家は近世有識と称したが、近衛基熙は、有識家として知られた平松時方・東園基量・野宮定基・滋野井公澄・高橋宗恒たちとはかって異風の払拭につとめ、有識書類の校合整理、古画や絵巻物類の考証参看、博捜した遺品類の実測図や標本の調成、装束・調度の製作技術の復活など、そのすぐれた識見を日記や諸本の奥書に伝えている。
貞享4年(1687年)には大嘗会、元禄7年(1694年)には賀茂祭を再興し、左中将野宮定基は近衛使をつとめて有識研究の成果を発揮した。
爾来、国学の発達と幕府の伝統尊重の政策と相まって、有識の道は、公家文化の伝統顕示標識となって展開した。
松平定信が、裏松光世の大内裏研究の業績(『大内裏図考証』)を採用して、保元内裏を規準に復元した寛政新造内裏は、その成果であり、調度・装束も殿舎相応に復活して配置され、王朝様の行事の進展をみるに至った。
その前提には、父祖の有識の道を継承した滋野井公麗・野宮貞晴・高橋宗直・広橋兼胤たちの尽力によるところが多い。
いずれもすぐれた識者であり、宮廷内の指導者として、武家や民間の文献依存の研究者の追随を許さないが、日記・随想・覚書の類に業績や見識を伝えるほかは、公刊の著書のないことが遺憾である。
なお山科家の歴代の日記も装束の調成と復元の実情を伝えて貴重であり、ことに現行の宮廷装束に関連する幕末の『言成卿記』や、山科言成の備忘書としての『筐低秘記』は重要である。
公家の有識書梓忌避は家流の秘事の公開回避のためであり、研究の成果は行事の際の発表にあった。
歴史画家の有識研究の成果が作品に凝結したのと同様である。
そのため公刊の書は、滋野井公麗の『禁秘御抄階梯』『公事根源鈔階梯』などの注釈書類に過ぎない。
古典理解のための有識は、慶長古活字本以来、本文の出版刊行の盛行につれ、幅広く浸透して、武士をはじめ民間の好事家や学者にも普及し、古典の研究家で有識故実にふれぬものはないほど盛んになった。
ことに文献だけで検討しやすい官職関係は、『職原抄』を基本として、壷井義知の『職原抄通考』『職原抄弁疑私考』『職原抄仮名抄』、その門下の多田義俊(南嶺)の『職原鈔弁講』などが知られている。
装束・調度関係では、以上の二人をはじめ、新井白石・荷田在満・速水房常・大塚嘉樹・伊勢貞丈・松岡辰方・同行義・屋代弘賢・栗原信充・藤貞幹・山田以文・橋本経亮・田中善一など枚挙すべくもない。
大名では田安宗武・松平定信が注目され、史料集として『装束色彙』『装束集成』『礼儀類典』などが編集された。
その著述も公家を凌駕するほどとなったが、実物による知識は束帯や衣冠・直衣などを常用としていた公家に及ぶべくなく、いずれもその指導に俟(ま)ったので、多くは近世の遺品による知識をもとに古典を推測する傾向から文献相当の時代に対する復元的理解を欠いて現代に及んでいる。
明治以後の有識故実は、基本とする文献・遺品・絵画に面目を一新して、研究躍進の徴候を示したが、行事の西欧化とともに風俗史の一部門とするか、有識故実を細分して、制度史・典礼史・服飾史・工芸史などの範疇に入れて、本来の有識故実は、特殊の宮中の儀礼や神社の祭典にわずかに面影をとどめるに過ぎなくなった。
《国史大辞典より》