日本美術院(にほん・びじゅついん):

日本画の団体。
明治31年(1898年)東京美術学校に起った校長・岡倉天心排斥の騒動により辞職した天心が中心となり、明治31年7月7日、東京谷中に設立された。
主幹に橋本雅邦を据え、天心に従って学校を退いた作家など26名を正員とした。
院に研究・制作・展覧の3部門を置き、機関紙『日本美術』を発行、また開院と同時に日本絵画協会と連合して展覧会を開いた。
これに横山大観、下村観山、菱田春草、小堀鞆音
(こぼり・ともと)竹内栖鳳(たけうち・せいほう)らが力作を出品し世間の注目を集めた。
しかし好調は長く続かず、数年後には早くも不振に陥った。
天心の熱意の冷却、正員間の結束の緩み、一部の画家の急進的な試みに対する不評などがその理由に挙げられる。
ことに日本画革新を目指して没線
(もっせん)描法に取り組んだ大観や春草は、世間から日本画を破壊する朦朧派(もうろう・は)と非難され、それが作画の注文を減らして院の財政難を招く結果になった。
とはいえ、失敗に終った大観と春草による没線描法の実験が、空間の意識にかかわる問題として日本画近代化の展開にもつ意味は大きい。
天心は明治39年、日本画の研究所を茨城県五浦
(いづら)に移して再起を図ったが、その努力は実らぬまま大正2年(1913年)に没した。
しかし天心の死は門下を奮起させた。
大正2年秋、大観、観山らは、安田靫彦、今村柴紅、木村武山、小杉未醒、笹川臨風、斎藤隆三らに図って院を立て直し、翌大正3年展覧会を第1回再興院展として華々しく再発足した。再興にあたって彫刻と洋画の部も設けられた。大観『游刃有余地』、観山『白狐』、靫彦『御産の禱
(いのり)』、柴紅『熱国の巻』、小林古径『異端』、前田青邨『湯治場』など、それぞれの代表作に挙げられるものがこの第1回再興院展に出品されている。こうして再興日本美術院は、天心の東洋的な理想主義の衣鉢をつぐ在野の一大勢力として官展に対立し、多少の曲折は経ながら展覧会を重ねて今日に及ぶことになる。ただし洋画部は大正9年に、彫塑部は昭和36年に廃止され、現在は日本画のみで、展覧会を院展と称し、毎年秋に東京都美術館で開催している。ここで活躍した画家として前記のほかに速水御舟富田渓仙、荒井寛方、小川芋銭、北野恒富、太田聴雨、小茂田青樹、近藤浩一路、らが挙げられる。また彫刻家中原悌二郎、戸張孤雁、石井鶴三、平櫛田中、橋本平八、藤井浩祐などの活躍も忘れられない。
《国史大辞典より》