拓本「舟里寺地先生之碑」 00351
阪谷朗廬
明治11年(1878年)3月
紙本軸装 135×58 cm
拓本「舟里寺地先生之碑」
 これは、福山城本丸筋鉄御門北側に建っていた寺地強平(寺地舟里)石碑を拓本にとったもの。この碑は、現在福山城二の丸西側小丸山の先人の森(長屋門の北側)に移されている。
撰文の内容は、以下の通り。
 舟里寺地先生ノ碑

本邦欧学ノ行ハル、端ヲ医術ニ啓
(ヒラ)ク。其術ノ初メテ起ルヤ、宿習主ト為リ。上下忌疑シ、指シテ異端邪説ト為シ、@A攻撃ス。幸ニ豪傑之士、真理ノ存スル所ヲ知リ、百折撓(タワ)マズ。示スニ實効ヲ以テス。然ル後人肇メテ之ニ服ス。以テ今日ノ盛ヲ至ス、舟里寺地先生ノ如キハ其一也。先生ハ備後福山ノ人、初メ漢医方ヲ学ビ、年甫(ハジ)メテ十九、医範提綱ヲ読ミ、慨然トシテ曰ク済生ノ真理此ニ在リ。ト。文政十二年春業ヲ京都ニ問フ。当時京阪ノ間、原書未ダ行ハレズ。概ネ唯譯書ヲ講ズ。先生奮ヒテ長崎ニ遊ビ、始メテ蘭書ヲ読ム。研精三年、遂ニ東江戸ニ入ル。坪井信道塾ニ寓シ、緒方洪庵及青木川本諸子ト、日夕討論ス。業大イニ進ム、天保八年郷ニ帰ル。是ヨリ先、嘗テ洪庵ト京阪ニ分立シ、大イニ其学ヲ開カンコトヲ約ス。因ッテ将ニ出デテ京ニ寓セントス。父君固ク執リテ聴(ユル)サズ。先生悵然(チョウゼン)タリ。既ニシテ曰ク、父母ノ国ヲ開ク、亦我ガ任内ノ事ナリト。乃チ居ヲ福山城下ニ卜(ボク)ス。城下ノ医家、本一二欧方ヲ喜ブ者有リ。然レドモ亦唯譯書ニ據(ヨ)リ、通ゼザルトコロアレバ、輙(スナワ)チ漢方ヲ雑(マジ)エ用フ。其原書ヲ以テ主ト為ス、則チ先生ニ創マル。衆或ハ悪ミ、或ハ嫉ム。譏議(キギ)B張(チュウチョウ)ス。先生笑ヒテ顧ズ。洪庵諸友ト書牘往復。琢切益勤ム。治效漸ク人ニアツシ。種痘術ノ新ニ傳ハルヤ、先生奔走シテ、其種ヲ得テ之ヲ播ク。群疑沸騰シ、斥(シリゾ)ケテ妖妄ト為スニ至ル。先生説諭力ヲ尽クス。機ニ応ジテ験ヲ取リ、其術日ニ行ハル。済(スク)フ所実ニ多シ。数州ノ嬰孩(エイガイ)、今ニ至リ其沢ヲ蒙ルト云フ。此時ニ当リ、藩主正弘君、徳川政府老中為リ。先生ヲ江戸邸ニ(ヘイ)シ、待ツニ殊例ヲ以テス。専ラ欧書ヲ講ジ藩校ニ命ジ、欧学科ヲ創立ス。先生帰リテ教授ニ任ジ、後欧学益開ク。更ニ医学校ヲ設ケ、兼ネテ病院ヲ開ク。先生ヲ推シテ長ト為ス。実ニ明治二年也。此ニ至リ先生ノ志始メテ大イニ行ハル。方今海内翕然(キュウゼン)トシテ欧学ヲ重ンズ。而シテ備人旗ヲ掲グル、特ニ医術ノミナラズ、欧米ノ政治経済教育法律兵制等ノ諸書ヲ訳シ、以テ世ニ資スル者、彬々(ヒンピン)然トシテ其間ニ列立ス。皆先生唱導ノ力也。豪傑ノ士沢ノ及ブ所広ク且遠シト謂フ可シ。先生辟(ヘイ)ニ応ズル時、蝦夷開拓ノ挙有リ。主命ヲ奉ジ、同藩ノ士ト東蝦ヲ跋渉シ、擇捉(エトロフ)諸島ヲ探リ、開拓説ヲ作リ、之ヲ献ズ。嘉永中、海防之令発スルヤ、福山ノ火薬、之ヲ他州ニ仰グ。先生建言シテ、製造場ヲ設ケ、藩ハ、始メテ便ヲ得タリ。是皆余力経世ニ及ブ者也。先生人ト為リ温雅灑落(シャラク)善ク談ズ。其学旁ラ理化物産本草ニ長ズ。又和学ニ通ジ、訳述頗ル多シ。未ダ梓ニ付サズ。梓行スル者ハ大砲使用軌範有ルノミ。名ハ豊。一名束。字ハ子亨。舟里ハ其号。(コウ)ヲ孝助君ト曰ヒ、世阿部氏ニ仕フ。(ヒ)ハ大塚氏。(ハイ)務仲氏。子無シ。兄ノ子準三ヲ養ヒ嗣ト為ス。先生晩年官ヲ罷メ優遊病ヲ養フ、明治八年十二月七日没。享年六十有七。福山城北、木之荘二五谷ニ葬ル。而シテ墓碣未ダ銘有ラズ。門人別ニ碑ヲ城下ニ樹テ、(シロシ)先生ノ友人為(ナ)リシヲ以テ文ヲ託サル。銘ニ曰ク。卓識業ヲ立ツ。一方ノ傑。迷霧ヲ被拂シテ。永ク正掲ヲ表ス。厥(ソノ)功国ニ在リ。厥(ソノ)愛人ニ在リ。石兮(ヤ)C(ロク)ス可ク沢兮淪(ホロ)ビズ

   福山城主従五位阿部正桓篆額
    友人備中阪谷素撰文
    内田義脩書
 明治十一年三月建     廣郡鶴D
   (出典1)
訳  注
@
A
坪井信道
(つぼい・しんどう)
 寛政7年(1795年)1月2日〜嘉永元年(1848年)11且8日。江戸時代後期の蘭方医。名は道。字は信道。誠軒・拙誠軒・冬樹と号した。幼名は環。通称は一助・道庵。
 寛政7年(1795年)正月2日美濃国池田郡脛永村(岐阜県揖斐郡揖斐川町)に、岐阜城主織田秀信の流れをくむ坪井信之の四男として生まれた。
 文政3年(1820年)江戸に出て按摩をしながら、宇田川榛斎の門に入り蘭医学を学んだ。同文政12年(1829年)深川上木場三軒町に医業を開き、治療をこうもの門前市をなしたという。かたわら学塾安懐堂をひらき、ついて深川冬樹町に移って、学塾を日習堂と改名した。毛利侯はその名声を聞いて侍医として召しかかえ、300石を給した。同時代の伊東玄朴・戸塚静海とともに江戸の三大蘭方医と称せられた。
 文政9年『診侯大概』1巻を著わし、西洋医方にもとづく診断法の大要をはじめて紹介し、体温計を用いて体温の測定方法を論じた。ほかに著訳書として『製煉発蒙』2巻(文政12年)、『医則』、『病理論』、『内病論』、『治法総論』、『万病治準』30巻、『扶歇蘭杜
(フーフェラント)神経熱論』3巻〈天保4年(1833年)〉などがあり、いづれも写本として伝えられている。
 嘉永元年(1848年)11月8日、54歳で没した。浅草誓願寺に葬られたが、のち多磨墓地、さらに染井墓地に改葬された。法名冬樹院松誉実誠信道居士。その墓碣銘は塩谷宕陰の撰。
 門下として名をなしたものに、緒方洪庵・青木周弼・川本幸民・杉田成卿・黒川良安などがいる。
   (出典2)
悵然 ちょうぜん
(1)いたみ悵
(うら)むさま。なげくさま
(2)がっかりしたさま
譏議 そしる、非難する、そしり
B張 あざむく、たぶらかす、ほらをふく
琢切 =琢磨、切は骨や角を切ること
嬰孩 みどりご、あかんぼう、孩も赤子
(ヘキ) 呼び出す
翕然 集まり合うさま、一致するさま
彬々 十分に備わっていること、盛んで鮮やかなこと
灑落(シャラク) 心がさっぱりしていて物事にこだわらぬこと
亡父のこと
なきははのこと
つれあいのこと
(シロシ) 阪谷朗廬の本名
C ろく
元・旧の意
阿部正桓
(あべ・まさたけ)
福山阿部家第10代
D 碑を刻む意味
出典1:『関藤藤陰 伝記と遺稿』、志水主計著、藤陰遺徳顕彰会刊、昭和52年5月
出典2:『明治維新人名辞典』、640頁、日本歴史学会編、吉川弘文館刊、昭和56年9月10日
出典3:『福山の碑』、74頁、「寺地強平の碑」、三上勝康著、福山市文化財協会刊、昭和50年11月10日
出典4:『新編「福山いしぶみ散歩」』、103頁、「寺地舟里」、佐野恒男著、福山市文化財協会刊、1996年9月1日
2004年12月17日更新●2006年11月21日更新:レイアウト●2007年1月18日更新:本文、関連情報●2009年9月30日更新:レイアウト、写真、本文、出典●2010年12月7日更新:名称、仕様●2012年3月1日更新:仕様・出典●2012年3月12日更新:出典●