福山阿部藩
藩主
誠之館
先賢
福山藩
関係者
誠之館
歴代校長
誠之館
教師
誠之館
出身者
誠之館と
交流した人々
誠之館所蔵品
関係者
誠之館同窓会
歴代役員
利根川浩
とねがわ・ひろし
福山誠之館校長(第2代)
利根川浩


経 歴
生:嘉永4年(1851年)12月16日、備後国深津郡福山生まれ
没:昭和7年(1932年)8月、鎌倉で死去、享年82歳
明治11年(1878年)7月13日 28歳 東京師範学校中学師範学科を卒業
明治11年(1878年)9月11日 28歳 熊本県一等訓導
明治12年(1879年)5月21日 29歳 熊本県依願免職
明治12年(1879年)6月7日 29歳 福山師範学校訓導
明治12年(1879年)7月7日 29歳 広島県福山中学校教師
明治13年(1880年)2月4日 30歳 広島県福山中学校副校長兼教師
明治14年(1881年)11月30日 31歳 広島県福山中学校校長兼一等教諭
明治15年(1882年)2月8日 32歳 広島県福山中学校校長兼一等教諭を免ぜられる(在任期間3ヶ月)
明治15年(1882年)2月23日 32歳 京都府師範学校二等教諭兼監事
明治15年(1882年)9月25日 32歳 京都府師範学校二等教諭兼校長心得
明治17年(1884年)2月22日 34歳 京都府師範学校校長兼二等教諭
明治18年(1885年)5月26日 35歳 群馬県第57・59学区公立小学校長
明治19年(1886年)1月8日 36歳 群馬県師範学校二等教諭
明治20年(1887年)1月17日 37歳 群馬県属 第二部学務課兼群馬県尋常師範学校教諭
明治20年(1887年)3月14日 37歳 群馬県属 第二部学務課兼群馬県尋常師範学校教諭兼群馬県尋常中学校長
明治20年(1887年)9月21日 37歳 第五高等中学校教諭
明治21年(1888年)10月29日 37歳 第五高等中学校教諭兼幹事心得
明治22年(1889年)11月22日 38歳 長崎県尋常師範学校長
明治25年(1892年)4月1日 41歳 秋田県尋常師範学校長
明治25年(1892年)5月18日 41歳 叙正八位
明治25年(1892年)10月13日 41歳 秋田県尋常師範学校長辞任
明治28年(1895年)7月6日 44歳 島根県第二尋常中学校長
明治30年(1897年)4月28日 46歳 島根県第二尋常中学校長辞任
関係年表
明治11年(1878年)12月10日 「広島県師範学校分校」、「福山師範学校」と改称
明治12年(1879年)6月30日 「広島県福山師範学校」廃止
明治12年(1879年)7月7日 「広島県福山中学校」設立
明治12年(1879年)9月16日 「広島県福山中学校」開校
明治13年(1880年)6月 広島県議会第2回通常会にて福山中学校廃止問題起こる
明治13年(1880年)8月 福山中学校廃止問題終結
明治14年(1881年)7月29日 「中学校教則大綱」制定


生い立ちと学業、業績
[事績・業績]
本校の教師から副校長(後の教頭か)を経て、校長になった唯一の人物である。その間どのような教師であったか(担当教科は主として英語の訳読・英習字等であったらしいが)、また管理職としてどのような業績があったか不明である。ただ、初代
石井英太郎校長が、県議会議長であり、また義倉財団専務理事として、校外において多忙であったために、開校当初からの、特に教育内容設定に、当時部下3名のリーダーとして、多大な貢献があったことは間違いない。次のようなエピソードが記録されている。

明治12年(1879年)9月14日は、学校がはじめて宿直を開始した日である。この日、まず宿直したのは先任教師利根川浩氏である。氏は宿直日誌にこう記している。

「校内粛然、事ノ記スベキナシ。夜中、火ヲ得ルノ具ナキヲ以テ、非常ヲ戒ムルニ由ナシ。自今『摺附ケ木』等ノ用意アリタシ」

翌日から早速「摺附け木」二つ、蝋燭二挺が用意された。「摺附け木」とはいうまでもなく、マッチのことである。
(『百三十年史・上巻』329頁)

率先して行動する利根川の姿がうかがわれる。

なお、1987年度ノーベル医学生理学賞を授与された利根川進博士は、利根川校長の曾孫である。
   松岡義晃(昭和28年卒)
旧名は武次郎。


関連資料1:『誠之館百三十年史(上巻)』、329・346頁、福山誠之館同窓会編刊、昭和63年12月1日
関連資料2:『島根県立浜田高等学校資料』
2006年3月24日更新:本文・関連資料●2006年8月21日更新:経歴・本文・関連資料●2008年5月23日更新:本文●2010年6月16日更新:レイアウト・経歴●