福山阿部藩
藩主
誠之館
先賢
福山藩
関係者
誠之館
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誠之館
教師
誠之館
出身者
誠之館と
交流した人々
誠之館所蔵品
関係者
誠之館同窓会
歴代役員
富田俊一郎
とみた・しゅんいちろう
三原市長(第7代)
富田俊一郎 (出典1)


経 歴
生:明治31年(1898年)5月20日
没:(不明)
大正7年(1918年) 19歳 広島県立福山中学校(誠之館)卒業
旧制大阪高等工業学校醸造科卒業
大正10年(1921年) 22歳 官途に就く
大正13年(1924年) 25歳 家業の酒醸造業を継ぐ
昭和2年(1927年)2月14日 28歳 父の名・俊一郎を襲名
昭和17年(1942年) 44歳 福泉醸造工業株式会社専務取締役
福泉醸造工業株式会社社長
市制施行第1回の三原市議会議員
昭和25年(1950年)1月 51歳 三原酒販株式会社社長
三原商工会議所議員
昭和30年(1955年)12月21日〜
 昭和34年(1959年)12月9日
57〜
61歳
三原市長(第7代)


生い立ちと学業、業績
富田俊一郎は、明治31年(1898年)5月20日、三原市東町の名門旧家先考俊一郎の長男として生まれる。
幼名を慶造と称していたが、昭和2年(1927年)2月14日、父の名・俊一郎を襲名した。
誠之館中学を経て、旧制大阪高等工業学校醸造科を卒業。

大正10年(1921年)専門的研究を生かすべく官途に就いた。

大正13年(1924年)家業の酒醸造業を継ぎ、爾来酒造の繁栄のため、醸造法の改良などの研究に努め、銘酒「快哉」の名を高からしめた。
一時企業整備によって廃業。
昭和17年(1942年)福泉醸造工業株式会社(静岡県)専務取締役、のち社長に就任。
昭和25年(1950年)1月帰郷し、三原酒販株式会杜杜長に選任された。

これより先、市制施行第1回の市議に『人格政治』が提唱されるや立侯補して当選、2期務める。
商工会議所代議員に就任、昭和30年(1955年)12月、三原市長選挙に立侯補し、保守革新の激しい戦いの中にあって奮闘、革新派市長に終止符を打って当選、第7代市長に就任し1期務めて任期満了で昭和34年(1959年)退任した。

この間、数多くの市行政に尽くしたが、特に市立東高校の建設をはじめ第三中学校等教育施設の充実に尽くしたのをはじめ、和田沖干拓を完成させ、また市営グランドを建設。
さらに豊田郡高坂村を、続いて豊田郡幸崎町、鷺浦村を編入合併した。
このほか昭和33年(1958年)8月には「世界連邦平和都市宣言」を可決するなど市勢発展に積極的に取り組んだ。

富田市長は、就任当時から備南経済共栄圏(備南市)の確立と、水資源確保であったといわれる。
温厚篤実な人柄と謹厳高潔なる人格。
公平で是々非々を主義として市民の信望を集めた。

趣味の面でも読書と書画、茶道、音楽など多彩な人であった。


出典1:『備後備中肖像名鑑(郷土を創りつつある人々)』、11頁、式見静夫編、備後文化出版社刊、昭和37年8月
出典2:『日本の歴代市長』、126頁
2005年6月3日更新:本文・出典●2006年4月3日更新:タイトル●2008年5月23日更新:経歴・本文●2010年6月16日更新:レイアウト●