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| 水戸藩主(第9代) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 生:寛政12年(1800年)3月11日、江戸・小石川の水戸藩邸生まれ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 没:万延元年(1860年)8月15日、水戸城で急死、享年61歳 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 水戸藩(35万石)第9代藩主。第7代藩主・徳川治紀(はるとし)の第3子として、江戸小石川に生まれた。母は烏丸資補の女。幼名は虎三郎、啓三郎。はじめ紀教(のりたか)のちに齊昭(なりあき)。兄の第8代藩主・齊脩(なりのぶ)の嗣子となる。字は子信、叔寛。通称は虎三郎、のち敬三郎。号は景山、潜竜閣と称した。諡は烈公。夫人は有栖川宮織仁親王女吉子(登美宮)。厳正なる水戸の家風の下に育てられ、会沢正志斎らに学ぶ。 文政12年(1829年)、30歳で兄の跡をつぎ第9代藩主となり、従三位に叙し、左近衛権中将に任じた。齊昭の生涯は、いわゆる烈公という諡号(しごう)の通り、幕藩体制の矛盾が噴出してきた内憂外患の幕末期を、徳川御三家の藩主として、藩政・国政の諸方面に対して、積極果敢にその指導力を発揮して、烈しく燃えた一生であった。その一生は第1期から第4期までに分けて概括できよう。 第1期 文政12年(1829年)〜弘化元年(1844年) まず襲封より天保15年までの第1期は、幕府のそれより3年もさきがけた水戸藩の天保改革であった。藤田東湖・戸田忠太夫らを登用。天保の大飢饉に対応する経済の安定、士道の高揚、人事の刷新等のため、齊昭は天保8年(1837年)、改革の四大目標を示した。 その第1「経済の義」は水戸全領の検地。 第2の「土着の義」は、家中を城下から移して地方に土着させること。 第3「学校の義」は、藩校弘道館や各地郷校の創設である。 第4「総交代」は江戸定府の藩士の一部を水戸に帰任させることである。 これらは、いずれもある程度の成功を見た。 さらには天保元年(1830年)に、老中大久保忠真に書を送って綱紀刷新を計り、天保5年(1834年)山陵修復を建議して賛意を求め、これと前後して蝦夷開拓の建議を試み、天保10年(1839年)には、「戊戌封事(ぼじゅつふうじ)」を将軍に提出して大船解禁・蝦夷地開拓の事を計ったが、これら数度の建議に対して、老中は祖宗の禁令に固執していずれも否決したのみでなく、水野忠邦退閣後はこの議をもって弘化の難の一条件とした。この間蘭学者を招いて造艦書を翻訳せしめ、郡宰に命じて船材を整え、船を派遣して蝦夷地の調査を試み、幕吏間宮林蔵に彼地の事情を問わしめ、天保10年(1839年)には自ら『北方未来考』を著して準備に怠りなかった。天保11年(1840年)就藩して国政に精励、中でも弘道館の建設に力を致し、天保14年(1843年)には寺社改正を断行して神仏混同を改め、多くの僧を還俗せしめた。 第2期 弘化元年(1844年)〜嘉永2年(1849年) ところが、弘化元年(1844年)5月、齊昭は突然幕府から隠居謹慎を命ぜられた。ここから、嘉永2年(1849年)の藩政復帰までの、蟄居雌伏の時代が第2期である。この期間に齊昭が、老中阿部正弘に書面をもって意見を開陳したその書簡集が『新伊勢物語』である。弘化元年(1844年)11月謹慎が解かれると、関白鷹司政通を通して京師との関係を深め、一方蘭学の研究の意欲も急速に加わった。 第3期 嘉永2年(1849年)〜安政4年(1857年) 嘉永2年以後、とくにペリー来航を機として、老中阿部正弘の包容力に包まれて、縦横に自己の政策を展開した幕政参与の時期が第3期である。嘉永6年(1853年)7月海防参与の命が下りると意見10ヵ条を建言し、和戦を一決して大艦製造を最急務とした。ついで安政元年(1853年)7月軍制改革に参与、翌安政2年(1854年)幕政改正に参与した。 第4期 安政4年(1857年)〜万延元年(1860年) 安政4年6月の正弘の死を契機に、齊昭の立場は次第に苦しくなり、安政4年(1857年)7月、海防・政務両参与を免ぜられ、特に安政5年(1858年)の安政条約調印以後、将軍継嗣問題などが起こり、井伊大老との政治的対立は決定的となり、安政5年(1858年)7月謹慎。安政6年(1859年)8月27日、水戸に永蟄居を命ぜられ(安政の大獄)、加えて水戸藩内の党争すなわち尊攘派分裂という事態が発生し、万延元年(1860年)8月15日、謹慎中の水戸城内で、失意のうちに、波乱の生涯を終えた。享年61歳。茨城県久慈郡の瑞竜山に葬る。 主な著書として、以下がある。『明訓一斑抄』、『大極論』、『海防愚存』、『砲術問答』、『北方未来考』、『不慍録』、『雲霓機纂』、『景山奇方集』、『景山和薬集』、『景山女誡』、『景山文集』、『景山公詩文』、『景山詠草』、『要石』、『進思録』、『彪物語』、『海防過去未来考』、『仏滅秘策』、『山海二策』、『告志篇』、『和訓集成』、『八洲文藻』、『明倫歌集』、『息距編』、『鷹書集成』。 (出典1)〜(出典5) |
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| 出典1:『誠之館記念館所蔵品図録』、58頁、福山誠之館同窓会編刊、平成5年5月23日 出典2:『国史大辞典(10)』、292頁、「徳川齊昭」、吉川弘文館編刊、平成元年9月30日 出典3:『堂々日本史14』、113頁、NHK取材班編、KTC中央出版刊、1998年4月17日 出典4:『明治維新人名辞典』、658頁、日本歴史学会編、吉川弘文館刊、昭和56年9月10日 出典5:『常陽藝文 特集徳川齊昭 (1991年6月号)』、財団法人常陽藝文センター刊、平成3年6月1日 |
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| 2005年8月2日更新:レイアウト●2006年6月27日更新:タイトル、所蔵品●2006年7月4日更新:所蔵品●2006年8月31日更新:所蔵品●2007年1月18日更新:経歴、本文、関連情報、出典●2007年9月21日更新:経歴、出典●2007年10月10日更新:誠之館所蔵品●2008年1月15日更新:本文、関連情報削除●2008年6月18日更新:本文、出典●2008年11月28日更新:[斉昭→齊昭]、氏名、本文、誠之館所蔵品、出典●2009年8月3日更新:誠之館所蔵品●2010年1月27日更新:誠之館所蔵品●2010年2月23日更新:誠之館所蔵品●2011年8月11日更新:誠之館所蔵品● | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||