|
||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||
| 福山誠之館校長(第10代) | ||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||
| 生:慶応4年(1868年)6月16日、岡山市生まれ | ||||||||||||||||||||||||||||||
| 没:(不明) | ||||||||||||||||||||||||||||||
| 在 任 期 間 大正元年(1912年)10月5日〜大正6年(1917年)7月9日 (4年8ヶ月) |
||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||
| 「事績・業績」 福中後期の特色は生徒定員の増加による学校規模の拡大と内容の充実だというが、校長としての行政面での取り組みと、教育内容面での取り組みにこの校長の役割は大きかった。 1、老朽化した校舎の撤去、新築が進められ、校長はその計画・竣工に中心的に関わった。 2、校歌制定とか、父兄懇談会の定期的開催など、教育内容の充実に努めた。 特に校歌制定の経緯について記しておく。 この校歌の制定は、明治末年青木儀太郎校長によって発案され、すでに作詞も卒業生葛原しげる氏に依頼ずみであったが、同校長の転任により、立ち消えとなっていた。そこで田村校長は就任後直ちにこの企画をうけつぎ、作詞を本校樋口慶千代教諭に依頼した。そこで出来上がったのが、「神仙遊ぶ」である。以後昭和7年(1932年)の新校歌制定まで、歌い継がれていった。 また、この校長は教科指導に極めて熱心であった。普通校長は講話などを行うことはあっても、教科指導を行う場合は稀であるが、この校長はそれを行ったようである。 「あの頃の教師は、今から思えば個性の強い人達が多く、いわゆる偉い先生が多かったように思うし、それを今なお幸福に思っている。田村喜作校長は5年生の時インピリアルリーダーを教えて下さったが、1つのセンテンスを分析しながら講義を進められ、主として英語で話されたのだが、日本語による講義よりもよく理解が出来、本当にあり難く思ったことである。」(鳥山進−大正5年卒業『温故知新』より)(出典1) 「本校教育の目的は、生徒をして勅語の趣旨を守り、忠良にして常識あり、身体強健にして大胆によく世界に眼を放ち、立憲国民として時代に適合する人物を養成せんとす。」と述べ、また、「諸君は常に読書家であれ。万一事故死することあるも、さすが福中の生徒だとの讃辞を得られるようにせよ。」と諭したという。 大正時代の教養主義を誠之館教育に注入しようとした一つの表れでもあろうか。 松岡義晃(昭和28年卒) |
||||||||||||||||||||||||||||||
| 出典1:『回顧−誠之館時代の思い出−』、20頁、「温故知新」、鳥山進、福山誠之館同窓会編刊、昭和58年5月15日 | ||||||||||||||||||||||||||||||
| 関連情報1:『誠之館百三十年史(上巻)』、820頁、福山誠之館同窓会編刊、昭和63年12月1日 関連情報2:『高岡中学・高岡高校百年史』、60・62・138頁、高岡高等学校百年史編集委員会編刊、平成11年3月30日 |
||||||||||||||||||||||||||||||
| 2004年10月27日更新:経歴●2005年4月4日更新:関係略歴、本文●2005年7月15日更新:経歴、関連資料●2006年3月27日更新:本文●2008年4月28日更新:経歴●2009年11月24日更新:本文● | ||||||||||||||||||||||||||||||