福山阿部藩
藩主
誠之館
先賢
福山藩
関係者
誠之館
歴代校長
誠之館
教師
誠之館
出身者
誠之館と
交流した人々
誠之館所蔵品
関係者
誠之館同窓会
歴代役員
高垣久太郎
たかがき・ひさたろう
広島県会議員、神辺町長
高垣久太郎 (出典1)


経 歴
生:明治29年(1896年)3月7日、広島県福山市神辺町生まれ
没:(不明)
大正4年(1915年) 19歳 広島県立福山中学校(誠之館)卒業
現役志願兵として福山歩兵連隊に入営
大正8年(1919年) 23歳 明治大学政経科入学
明治大学政経科卒業
家業を嗣ぐ
広島県会議員(8年あまり)
神辺町長(のち追放で辞任)
昭和23年(1948年)3月15日 52歳 備後文化協会代表として、『鈴鹿秀満翁遺詠 梅のうた集』を刊行
昭和33年(1958年)4月〜
 昭和38年(1963年)2月
62〜
66歳
神辺町長
中国紡織株式会社取締役
備後染色株式会社取締役
紺綬褒章(3回)


生い立ちと学業、業績
高垣久太郎氏は、明治29年(1896年)3月7日生れ。厳父は備後織物の先覚者として知られる故高垣熊太郎氏である。

広島県立福山中学校(誠之館)から福山歩兵連隊に入営した現役志願兵である。大正8年(1919年)明治大学政経科に入り岡本米蔵氏の関係で渡米することになっていた。しかし父は引き戻して家業の織物業につかせた。氏は経営手腕を発揮して、やがて織物業界の重鎮として認められていった。

厳父をなくして間もなく県会議員に立ち、見事当選して8ヶ年勤続した。

資性極めて真面目で戦時中指導者として、率先垂範して織物業を廃業し織機類をすべて供出、更に庭内にあった父翁の銅像をも供出して今やその台石のみが残っている。戦後は補償打切と財産税と土地買収と独禁法には完全に打ちのめされたらしい。しかし意志強固に、質朴にして飾らず、旺盛なる活動力を発揮して苦闘を続け、工場などの遊休建物を住宅に改造して有効活用を図った。禁煙節酒家である氏は無駄を排除して物資を浪費しないので一見吝嗇の如く思われるが、今の神辺小学校の講堂を独力で寄付した。又神辺国民学校創立に際しては1万円、神辺高校の甲種昇格資金には1万円と、当時の貨幣価値を考えると実に巨額の寄付である。その他神社仏閣各種団体遺家族慰問などの社会貢献に尽力した。そうした活動が評価され、氏の頌徳碑が神辺小学校講堂前と、県立神辺高校の庭に輝いている。君は常に「私の行動は碑が監視している」と、控えめに述べる。また教育功労者として紺綬褒章を3回下賜されている。

さらには3期に亘り神辺町長を務めた。1期目は追放で中途辞任、2期目も町村合併で中途辞任した。昭和34年(1959年)3期目の町長に選ばれて、再び同地方行政の中核的存在となった。今や事業と施政に熱達する人格者としての名望が高く、町民の信頼があつい。資性は真摯で、私生活も己を律することに厳しいことは定評がある。

中国紡織株式会社と備後染色株式会社の重役も務めた。

宗教は真宗であり金光教を信仰している。趣味としては書画俳詩で、常に重政黄山先生と童謡の
葛原しげる先生を崇拝している。


出典1:『政治産業文化備後綜合名鑑』、野上五郎・式見静夫編、備後文化出版社刊、昭和34年9月
出典2:『備後備中肖像名鑑 郷土を創りつつある人々』、村田露月・式見静夫編、備後文化出版社刊、昭和37年8月
2005年6月2日更新:本文●2006年3月31日更新:タイトル・経歴・本文●2006年8月28日更新:経歴・本文●2008年4月25日更新:経歴・本文●2010年9月16日更新:経歴●2011年2月28日更新:経歴●