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| 朱子学者 | ||||||||||||||||||||||||||||||
| 生:天明元年(1781年)4月14日 | ||||||||||||||||||||||||||||||
| 没:嘉永4年(1851年)5月8日、享年71歳 | ||||||||||||||||||||||||||||||
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| 豊後出身の医者・加藤周貞の第二子として大坂に生まれ、名を弼(たすく・ひつ)、字は承弼(しょうひつ)、通称長左衛門といい、小竹・畏堂(いどう)・南豊・聶江(しょうこう)・退翁はその号である。 菅茶山の友人である大坂の篠崎三島について古文辞学を学んでいるうちに、望まれてその養子となった。寛政の学制改革の際、小竹は養家を脱出して出府し、古賀精里の門に学んで朱子学者となり、ふたたび大坂に帰って三島塾をついだ。 さて文化8年(1811年)、廉塾を出て上洛した頼山陽が、最初に身を寄せたのが、父頼春水の友人・篠崎三島の養子である小竹のもとであった。小竹は山陽をよく理解し、茶山と山陽の和解を取り持つなど、その後一生を通じて彼を援護しつづけたばかりでなく、山陽の死後も、その遺児たちの面倒をよく見た。例えば、山陽の末子頼三樹三郎の教育をあずかった後藤松陰は、小竹の養子であった。小竹は三樹三郎を世話して江戸昌平黌へ入学させている。 小竹は性穏健にして社交好きでもあったため、関西学芸界の勢力家のような地位を得た。また山陽の死によって師を失った江木鰐水は、山陽と親交のあった小竹に師事するため、天保4年(1833年)2月、大坂に到り、天保6年(1835年)出府するまで、篠崎塾にいた。 小竹は、詩文のみならず、元、明、さらに唐の書法をも学んで、独自のすぐれた筆跡を残している。主な著書として『小竹詩鈔』、『小竹斎文稿』がある。 |
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| 出典1:『誠之館記念館所蔵品図録』、62頁、福山誠之館同窓会編刊、平成5年5月23日 出典2:『頼山陽選集7頼山陽品行論』、13頁、安藤英男編、近藤出版社刊、昭和56年12月10日 |
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| 2005年7月28日更新:レイアウト●2006年6月26日更新:タイトル、所蔵品●2007年6月12日更新:関連情報●2008年1月15日更新:本文、関連情報削除●2008年11月5日更新:経歴、本文、誠之館所蔵品、出典● | ||||||||||||||||||||||||||||||