福山阿部藩
藩主
誠之館
先賢
福山藩
関係者
誠之館
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誠之館
教師
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出身者
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交流した人々
誠之館所蔵品
関係者
誠之館同窓会
歴代役員
島居辰次郎
しますえ・たつじろう
海上保安庁長官
島居辰次郎 (出典1)


経 歴
生:明治38年(1905年)9月12日、尾道市十四日町258生まれ
没:平成9年(1997年)10月4日、享年92歳
大正7年(1918年) 12歳 尾道市立第三尋常小学校卒業
大正12年(1923年) 17歳 広島県立福山中学校(誠之館)卒業
昭和2年(1927年) 21歳 第一高等学校卒業
昭和5年(1930年) 24歳 東京大学法学部政治学科卒業
昭和5年(1930年) 24歳 逓信省入省
昭和16年(1941年) 35歳 企画院第六部第二課長
海務院総務部総務課長
運輸省海運総局管理課長
陸運監理局輸送課長
北海海運局長
昭和23年(1948年) 42歳 運輸省陸運管理局自動車部長
昭和24年(1949年) 43歳 運輸省近畿海運局長
昭和28年(1953年)2月7日 47歳 海上保安庁次長
昭和30年(1955年)5月4日〜
 昭和33年(1958年)12月5日
49〜
53歳
海上保安庁長官
昭和34年(1959年) 54歳 国内旅客船公団理事長
昭和36年(1961年) 56歳 内旅客船公団が特定船舶整備公団に改称、理事長
昭和41年(1966年) 61歳 セナー株式会社社長
昭和50年(1975年) 70歳 日本原子力船開発事業団理事長
昭和53年(1978年) 73歳 セナー株式会社社長
昭和54年(1979年) 74歳 勲二等旭日重光章
平成元年(1989年)〜
 平成8年(1996年)
83〜
90歳
セナー株式会社会長
科学技術庁顧問
宇宙開発委員会参与
日本原子力船開発事業団顧問
(社)日本水難救済会会長
日本航路標識協会会長
福山誠之館東京同窓会顧問
交通文化章


「陽光に指向して」  島居辰次郎
天皇陛下が、初めて大本営へ行幸されることになった。
それは日支事変初期の昭和十三年十二月八日である。

その当時、私は大本営陸軍部に勤務していて、ちょうどその頃、ある用務を帯びて広東へ出張していたので、この前には帰京して、大本営でお迎えしたいと思った。
それで私自身は、十二月初めには仕事を全部終えて帰れる態勢にしていた。

広東から台北までは軍用機である。
この搭乗手続きに行ったら、そこの主任が、たまたま大本営陸軍部で、もと私と同室のS少佐であった。
「毎便とても混んではいるけれど、あんた一人の席なら明日にでも用意してあげられる」といってくれたが、仲間が三人同行なので、私一人だけ先に帰るわけにもゆかず、結局七日に広東から台北まで、八日に民間機で台北から東京へということになり、行幸を大本営でお待ちすることは流れてしまった。

私共三人は台北についたが、この日の行動は各自別々であり、この日私が訪問を予定していた相手の在、不在が、私のその後の事件に重大な関係を持って来るのであり、その一つの、南支の経済事情調査のため初めて訪れた台湾銀行の人は、会って見ると偶然にも私の兄に、以前ロンドンで大変お世話になったとかで、そのかたのお宅の晩餐に招かれ、南支の経済金融状況のお話を真摯に聞き入り、有用な資料を抱えきれないほど貰って帰った。
従って翌早朝も私は普通に食事し、久し振りに帰る東京の冬を予想して、南方の夏仕度から冬衣に変えた。

午前六時三十分、台北飛行場を翔け上ったダグラス機富士号は、二時間二十分ぐらいしてエンジン故障となり、台北と那覇との間の太平洋上に不時着水、十五分ほどで沈んで行った。
私共は救命胴衣をつけただけで、渺々たる濃紺の太平洋に抛り落された。
朝九時過ぎであった。
幾度もいくども黒潮に呑まれ、また浮び上がり、眼鼻口に潮が突き刺す。
私は潮を飲むと鹹いし苦しいので、身心ともにすっかり疲れ果ててから、眼の前の潮を飲めば直ぐ死ねるから、それまで頑張ろう。
胸に手を当てると未だ暖かい。これならまだ二時間ぐらいは持ちこたえるだろうと思った。
充分な当てもなく、ただ潮流を計算に入れて捜索に来た小さな運搬船に救い揚げられ、すぐ人事不省に陥った。
南の海では未だ陽は没しない午後四時頃であった。
苦闘は七時間にもなっていた。
生存者は私を含めて二人だけ、他は全部行方不明等で助からなかった。

SOSの無電の内容をどこかで間違えて、沖縄にいた航空機も軍艦も、殆ど久場島の南方へ出て行き、その西方で遭難した私共の所へは何も来なかった。たとえ来たとしても、あの広漠たる太平洋の怒涛の大海原では、小さな粒のような人を見い出すことは、とても至難のわざであったろう。

私が救助される前に、既に一人見付かり引き揚げられたが、もう息切れていた。
その一方、潮流にそれぞれ押し流され、相当広範囲に拡散されていたであろうから、その他の海面には、未だ高浪の間に苦闘を続けている人があったかも知れない。
人事不省になる前に、私はそれを救助船の人に口走ったと言われた。
しかしその人達の所へは、小船が行けなかったのである。

これは大きな生死の事件であるが、私の踏み越えて来た人生行路の一こまを、抽出したものに過ぎない。
いろいろな事象に遭遇した。
それは偶発的な、さまざまな要素、因縁が絡んでいる。
これを世の人々は、「運命」という便利な簡単な詞で片付けてしまうかも知れない。

しかし私は説明の付けにくい不思議な事象、それは「造物主の意思」というか、「神」というか、五官では把えられない特別のものがあるように思う。

先ほど事件に裏書きされているように、極限の努力を尽くしても、遂に「神」に会えない場合もあるが、それでも全霊的な努力なくしては、「神」に取りつくことは固より出来ない。

かつて天皇陛下から戴いた「れんげつつじ」の花が、今も庭に微笑んでいる。
那須の御用邸の土壌から、私のところの武蔵野の地に移っても、その強靭な生命力は、幾たびかの炎暑風雪に晒されて、なおかつそのオレンジ色の美しさを保って、陽光に指向している。それは大自然の「神の意思」により息吹いているかのようである。

自分の人生に対して、いかなる次元でも真正面から取り組んで、全霊的に戦って行き、天命に従うことである。人間は息をつづけている限り、努力の継続であり堆積である。

私はこれからも、先人がいろいろの体験から凝縮し出された軌跡や詞をよく噛みしめて、精進の日を続けて行きたい。
   (出典1)


誠之館所蔵品
管理 氏 名 名  称 制作/発行 日 付
06451 中村輝雄 編 『青少年へ贈る言葉 わが人生論 広島編(上)』 文教図書出版(株) 昭和58年


出典1:『青少年へ贈る言葉 わが人生論 広島編(上)』、102頁、中村輝雄編、文教図書出版(株)刊、昭和58年4月11日
出典2:『産経日本紳士年鑑第9版(上)』、さ行139頁、産経新聞年鑑局編刊
2005年5月9日更新:氏名●2006年5月8日更新:タイトル●2006年5月24日更新:連絡先(削除)●2008年4月23日更新:経歴●2008年7月15日更新:氏名・経歴・出典●2010年7月12日更新:写真・経歴・本文・誠之館所蔵品・出典●