福山阿部藩
藩主
誠之館
先賢
福山藩
関係者
誠之館
歴代校長
誠之館
教師
誠之館
出身者
誠之館と
交流した人々
誠之館所蔵品
関係者
誠之館同窓会
歴代役員
妹尾正毅
せお・まさき
外務省、ペルー大使、ノルウェー大使、アイスランド大使
妹尾正毅
生:昭和8年(1933年)9月13日、広島市生まれ
昭和21年(1946年) 13歳 広島県立福山誠之館中学校転入
昭和24年(1949年) 16歳 松永高等学校入学
昭和27年(1952年) 19歳 松永高等学校卒業
昭和31年(1956年) 23歳 東京大学法学部法律学科卒業
昭和31年(1956年) 23歳 外務省入省
昭和48年(1973年) 40歳 アジア局北東アジア課長
昭和50年(1975年) 42歳 在ジュネーブ日本代表部参事官
昭和54年(1979年) 46歳 法務省入国管理局総務課長
昭和56年(1981年) 48歳 外務省経済局次長
昭和58年(1983年) 50歳 サンフランシスコ総領事
昭和60年(1985年) 52歳 領事移住部長
昭和62年(1987年) 54歳 ペルー大使
平成4年(1992年)2月 59歳 国連大使
平成4年(1992年)7月 59歳 ノルウエー兼アイスランド大使
平成7年(1995年)7月 62歳 外務省退官
平成9年(1997年) 64歳 誠之館同窓会総会において記念講演
 「日本の明日を考える」
中国電力株式会社顧問
綜合警備保障株式会社顧問
福山大学客員教授(国際関係論)
福山誠之館東京同窓会副会長・顧問
学校教育への期待 高校生が示してくれたもの   妹尾正毅   (出典1)
無限の可能性引き出そう
 広島県立誠之館高校はJR福山駅の北方2キロ、小高い丘の上にある。その正面入り口を目指して1台の乗用車がゆっくり上って行く。そこまでは、どこにでも見られる光景である。違うのはその先、300メートルの坂道を埋めた1000人余の生徒が小旗を振り、歓声を上げ、飛び出して来る。
 手に持つのはノルウェーの国旗。2月21日、オッド・フォッスアイドブローテン駐日ノルウェー大使が講演をするために、私とともに、この高校を訪れた時のことである。
 坂道の終わりが正面玄関、その隣でブラスバンドがグリークの「ペールギュント」から魔王の館の場面を演奏している。いつ練習したのか、難しい曲を上手に聞かせる。指揮者と握手して校長室に。そこで茶道部の生徒から歓迎の薄茶を振る舞われ、先に東京でノルウェー大使館を訪問した引率の先生と生徒が挨拶する。ちなみに、この場面を含め生徒の用語はほとんどすべてが英語である。
 講堂に移り、ノルウェー国家の演奏と君が代の斉唱に続いて校長先生と生徒会長の歓迎の辞、次いで寸劇が披露される。紫式部の「源氏物語」から相聞歌を交換する場面と、イプセンの「ペールギュント」の劇。船が難破して無一文になったペールギュントが、長年彼を待っていたソルベーグと再会する場面、そこに「ソルベーグの歌」のソプラノ独唱が加わる。
 更に、力強い歓迎の合唱を聞いた後、約1時間のパワー・ポイントを交えての大使の講演となる。通訳は英語担当の先生方が分担された。
 高校の資料館で150年前からの貴重な品々を拝見した後、昼食を生徒とともにしてから記念の植樹。それを終えて、校舎の3階、4階からの声援に送られ、再び300メートルの人垣にもみくちゃになりながら、止めてあった乗用車にたどり着く。
 大使は私に向かって「4年間の日本滞在で今日ほど感動したことはない」と述べた。
 日本に駐在する外国の大使が高校で講演をするという話は、あまり聞かない。新幹線に乗り4、5時間を掛けて行くとなると、まずあり得ないことである。それが実現したのは昨年の秋、東京への研修旅行に当たり、訪問先の近くにあるノルウェー大使館を外から眺めるという案を示されたグループが、それよりも大使館を訪問したい、と考えたことから始まる。
 一行は大車輪でノルウェーのことを勉強した。応接に当たった大使館員に、ノルウェー語で挨拶し、英語で質問し、素晴しいグループという印象を与えた。話を聞いた大使が興味を持ち、講演に行きたいと言った。常日頃から、日本は東京だけではない、地方にもノルウェーの仲間、拠点を作りたい、と思っていたからである。
 訪問の日の歓迎は素晴しかった。何よりも素晴しいことは、先生方がこれを単なる1時間の講演に留めることなく、全校を挙げた国際交流の経験ととらえ、生徒たちがそれを自分たちのテーマとして受け止め、進んで考え、計画し、実行した、ということである。すべて念入りに計画されたものながら、その場での友好の雰囲気は全く自発的なものであり、だからこそ大使も感激したのだと思う。
 自分の学校を訪れた外国の大使が国旗に向かって直立し、国歌を斉唱する姿を見守る生徒達は、日の丸や君が代についても感じるところがあるはずである。語学も大事だと強調しているだけでは生徒はその気にならないが、自分が皆の前で英語で話すとなれば事情は一変する。姉妹校ができて夏休みにはホームステイに行き来するようになれば、なおさらであろう。
 私は国際交流は機会をとらえて実行することに意味があり、学生ながら自然にそれから何事かを学ぶというものだと思う。試してみると高校生も中学生も無限の可能性を秘めていることが判る。学力の低下を嘆くよりも、彼等に未知のものごとへ参加挑戦する機会を提供し、より広い世界や社会に目を開き、問題意識と方向感覚を抱いて、明日への飛躍へと続けて行く、そういう意欲と活力を引き出すことが肝要なのではないか。そういう点から見て、今回の訪問は多くのことを示唆しているように思われた。(元駐ノルウェー大使・福山大学客員教授)
 「創立百五十周年に寄せて」  妹尾正毅   (出典2)
 私は昭和8年広島市に生まれた。その後京城(今のソウル)に移り、そこで終戦を迎えた。小学校の6年生だった。現地の人々が別人になったように日本人の住居を襲い、略奪を行なった。日本に帰るしかなく、父の郷里松永を目指した。途中生まれ故郷の広島を通過し、草木も100年は生えず、もう人間は暮らせない、と云う話を車中で聞いた。
 大学卒業と共に外務省に入った。それ以外は何処も受験しなかった。不合格の場合はどうする積りだったのか、今でも不思議に思う。恐らく終戦前後に目撃したことが強烈な原体験となり、こう云うことのない日本にしなければ、と一途に考えていたのであろう。
 外務省には約40年間勤務し、その約半分を外国で、残りの半分を国内で勤務した。最初は長年アジアの問題に関わり、その後は各地で色々の問題を担当した。日本が右肩上がりで発展を続けていた時代であり、夫々の時点で前向きの構想や施策を考え、推進することが出来た。インドネシアのクーデターに続く国際的援助体制の提案、アジア開発銀行設立構想の推進、東南アジアに対する文化外交の試み、国際熱帯木材機関の設立と本部の日本(横浜)への誘致等、総て実を結んだだけに幸運だったと思う。
 もっとも良いことばかりではない。ワシントン勤務の時は、ジョンソン大統領のベトナム政策の転換と大統領選不出馬決定を事前に掴めず、日本の週刊誌に「眠っていたワシントン大使館」と云う記事が出た。一握りの人しか知らなかったことだが、そんなことは書いてくれない。朝鮮半島担当課長時代には、所謂金大中事件や文世光事件が発生した。日韓関係をどうするかで手一杯であり、北朝鮮との国交樹立を考える余地等は全くなかった。
 その後、サン・フランシスコ総領事時代には日米貿易摩擦がたけなわで、日本側の立場を擁護するため現地の新聞に寄稿したりテレビ番組に出演したりした。日本の大幅出超が続くなかでその効果には限度があった。反面現地の人々は大らかで親しみ易かった。成功した者はそれを社会に還元する、という生き方を知ったのも貴重な経験だった。
 忘れられないのはそれに続くペルーでの勤務である。スペインの南米支配の根拠地、日本の南米移民の原点であるこの国で、私はフジモリ大統領出現の前後4年近くを全力投球のうちに過ごした。テロ事件が頻発し、その対策に追われる日々だったが、赴任の1年半後、世論調査で日本が米国を抜いて「尊敬する国」の第1位となった。フジモリ氏が大統領に当選するのは、その1年後のことである。私は「デバテ」と云う政治雑誌で、2年連続して、「ペルーの政治に最も影響力のある外国人10名」の1人に選ばれたりした。
 私だけが飛び抜けた仕事をしたという訳ではない。当時の日本はバブル崩壊の直前で、大企業の米国不動産買いがペルーでも話題になっていた。経済危機からの脱出を模索するこの国では、日本が救世主のように見えたのであろう。投票直前に至ってのフジモリ人気の急増現象はそう考えなければ理解出来ない。
 それから15年、当時はアジアと言えば日本だったが、今は中国の台頭が目立つ。これからの日本外交を背負う人々には従来以上の才覚が求められる。
 日本はどうすれば良いのか。米国の軍事的優位は今後数10年間は揺るがないとの見地からは米国との協力・信頼関係の維持が第一となる。反面、今や日中貿易は日米貿易を凌駕し、日中関係の緊密化は時の流れである。日中韓に東南アジアを加えた東アジア共同体を目指す動きも一層活発になって行こう。日本は国益の命ずるところに従い新しい施策を講じて行かねばなるまいし、その過程では農業問題や人の移動等につき思い切った発想の転換が必要となろう。また、国際社会への貢献という観点からは、我々が如何なる日本、如何なる世界を希求するかを発信して行かねばならない。それは、恐らく、平和を重んじる社会、異なる文明の共生を大事にする世界、ということであり、日本自身には世界中の人が訪れたい魅力的な国、千客万来の日本を目指して欲しい。その点、少子高齢化は試練だがチャンスでもある。将来を悲観視ばかりせず、常に先を見て進むことを心掛けたい。
 最後に、外務省退官後のことに話を戻したい。私は現在、これまで出来なかったこと、又、人の為に役立ちそうなことを、少しでもしたいと考えている。わけても関心があるのは、外国の人と郷里に関わることである。外国の人と云うのは外務省時代を通じて外国の人々の善意に助けられて来たからである。郷里は日増しに交通の便が良くなり今や遠い処ではない。福山大学で教鞭をとり、誠之館の仲間と落ち合うのが近年の喜びになっている。
 平成15年には駐日ノールウェイ大使の講演に同行して誠之館を訪問した。大使が4年間の滞日でこれ程感動した日はなかった、と洩らした素晴らしい感動的な出迎えだった。
 我々にかけがえのない想い出深い日々を与えてくれた誠之館が、これからも、次々と育つ若者達に夢と希望を与え、実現させて行く場として発展することを心から念じている。
出典1:『中国新聞』、「学校教育への期待 高校生が示してくれたもの」、妹尾正毅、中国新聞社、平成15年3月14日
出典2:『誠之館創立百五十周年』、112頁、「創立百五十周年に寄せて」、妹尾正毅、福山誠之館同窓会編刊、平成17年2月
2005年5月11日更新:本文、出典●2006年5月30日更新:タイトル●2007年9月10日更新:経歴●2009年7月10日更新:経歴、出典●2011年9月12日更新:経歴●