福山阿部藩
藩主
誠之館
先賢
福山藩
関係者
誠之館
歴代校長
誠之館
教師
誠之館
出身者
誠之館と
交流した人々
誠之館所蔵品
関係者
誠之館同窓会
歴代役員
佐沢太郎
さざわ・たろう
洋学修業者、文部権少書記官
佐沢太郎 (出典1)


経 歴
生:天保9年(1838年)6月19日、備後国品治郡新市村(現福山市新市町新市)生まれ
没:明治29年(1896年)5月29日、享年59歳、駒込吉祥寺に葬る
12歳 父を失って母の実家に養われる
嘉永5年(1852年) 15歳 江木鰐水の家塾・久敬舎に寄留勉学
嘉永7年(1854年) 17歳 元服して元太郎と名のる
安政2年(1855年) 18歳 佐沢泰介の家をつぎ佐沢を姓とする
安政4年(1857年) 20歳 寺地強平について蘭学修業をはじめる
安政6年(1859年) 22歳 萩の青木周弼の門に入り蘭書を学ぶ
坪井信道(つぼい・しんどう)塾に入る
文久元年(1861年)春 24歳 大坂緒方洪庵の適々斎塾(適塾)に入門する
文久元年(1861年)10月17日 24歳 適塾にいた佐沢に「洋学修業」の命あり
文久2年(1862年)秋 25歳 出府し、幕府の西洋医学所において蘭書の研究をつづける
文久3年(1863年)10月より 26歳 藩邸に入って洋書調所・医学所に通学し、のち開成所に通って勉学をする
元治元年(1864年) 27歳 幕府より開成所句読師
慶応2年(1866年) 29歳 開成所教授手伝並
慶応の終わりごろ 30歳ごろ 桂川甫策らと「遠近新聞」を発刊
明治元年(1868年) 31歳 この頃、元太郎改め、太郎を名乗る
明治元年(1868年)3月 31歳 福山藩の勘定所詰
明治元年(1868年)7月 31歳 帰福して、藩校誠之館洋学助教
明治2年(1869年)9月 32歳 兵学助教を兼務
明治2年(1869年)12月 32歳 洋学教授兼兵学教授
明治3年(1870年)12月 33歳 福山藩一等教授
明治4年(1871年)11月 34歳 福山県の廃止とともに解職
明治5年(1872年) 35歳 上京して文部省に勤務
明治5年(1872年)2月 35歳 九等出仕、編輯寮勤務
明治6年(1873年) 36歳 『仏国学制』(1・2編)を文部省より出版
明治10年(1877年) 40歳 辻新次らと「教育新誌」(汎愛社刊)を発刊、その編集長となる
明治12年(1879年) 42歳 書肆弘文社社長
明治13年(1880年) 43歳 普通学務局勤務
明治17年(1884年) 47歳 文部権少書記官
明治18年(1885年)8月31日 48歳 「福山教育義会」幹事兼委員を委嘱される
明治18年(1885年)12月 48歳 職を辞す


生い立ちと学業、業績
生い立ち
福山藩士。幼名豊太郎、元服して元太郎。名は高仰、字は詩山、号は神水。

小林義直と肩をならべて幕府洋書調所に学び、のち「学制」の制定に大きな功績を残したのが佐沢太郎である。
佐沢は天保9年(1838年)6月19日、備後国品治郡新市村(現福山市新市町新市)において三木嘉久平
(みき・かぐへい)の第五子として生まれた。
12才の時父を失って母の実家に養われていた。
嘉永7年(1854年・17才)で元服して元太郎と名のった。
安政2年(1855年)、18才の時、品治郡江良村の漢蘭折衷の医師・佐沢泰介の家をつぎ佐沢を姓とした。


学業

嘉永5年(1852年・15才)江木鰐水の家塾に寄留勉学。
安政4年(1857年)、
寺地強平について蘭学修業をはじめ、ついで安政6年、萩の青木周弼(あおき・しゅうすけ)の門に入り青木の弟研蔵に学んだ。
さらに文久元年(1861年)春、24歳のとき念願がかない大坂緒方洪庵の適々斎塾(適塾)に入門することができた。
ちなみに、寺地、青木、緒方の三人はいずれも坪井信道
(つぼい・しんどう)塾の同窓である。
文久2年(1862年)の秋、師の洪庵に随行して出府し、洪庵が頭取となった幕府の西洋医学所において学び、蘭書の研究をつづけた。
これより前、かねて佐沢に嘱目していた福山藩は、文久元年(1861年)10月17日、適塾にいた佐沢に「洋学修業」を命じていたが、佐沢は文久3年(1863年)10月から藩邸に入って(恐らく洪庵の没後であろう)、ここから洋書調所・医学所に通学し、後専ら開成所に通って勉学をした。
《この時の同期に
五十川基、野上村出身の小林義直がいる。
いずれも寺地門下生で、福山藩洋医学興隆の三俊英である。
医学校兼病院の
同仁館設立にあたり、この3人が師の寺地を助け尽力したのは言うまでもない。》
仏学を兼修したのはこの時期であった。


業績

その後、元治元年(1864年)には幕府より、開成所句読師、慶応2年(1866年)には開成所教授手伝並を拝命した。

明治元年(1868年)3月、福山藩の勘定所詰として召し返され、同明治元年(1868年)7月に帰福して、洋学助教を拝命した。
明治2年(1869年)9月、兵学助教を兼務し、同明治2年(1869年)12月、洋学教授兼兵学教授となった。
明治3年(1870年)12月、新官位相当表により、福山藩一等教授となったが、明治4年(1871年)11月、福山県の廃止とともに解職された。

翌明治5年(1872年)上京して文部省に勤務することになり、同明治5年(1872年)2月九等出仕、編輯寮勤務、明治13年(1880年)普通学務局勤務、明治17年(1884年)文部権少書記官を歴任した後、明治18年(1885年)12月職を辞した。

こうした公職の他に、慶応の末年には、桂川甫策らと「遠近新聞」を発刊した。
また明治10年よりは、辻新次らと「教育新誌」(汎愛社刊)を発刊し、その編集長を務めた。
さらに明治12年には書肆弘文社社長となった。

その後も本郷区西片町に住み、「福山教育義会」の結成にあたっては、在京の6人とともにその幹事兼委員を委嘱され、尋常中学福山誠之館の維持発展に力をつくしている。

明治29年(1896年)5月29日、西片町に没した。享年59才、駒込吉祥寺に葬る。

彼の著述の中で、最も著名な『仏国学制』(1・2編)は、明治6年(1873年)文部省によって刊行され、明治政府の新「学制」制定に大きな影響を与えた。
その他に『仏国帝政史』、『初学須知』、『理科読本』などの著書がある。
明治初年本邦学制改革の大いなる功労者であった。
(海後宗臣「福山藩の仏蘭西学者佐沢太郎先生と『仏国学制』」、『福山学生会雑誌』第66号所載)
   (出典1)〜(出典7)


誠之館所蔵品
管理 名  称 編著者 発行所 発行日
07251 『佛國學制[仏国学制](第1第2篇)』 佐澤太郎訳
河津祐之閲
文部省 明治6年〜
 明治9年
07252 『Aures オートル6号』 田所光男編 研究・教育連携オートル(CREA) 平成27年
07252 『繪入 啓蒙訓話』 佐澤太郎訳 咀華亭 明治7年


著書訳書
名  称 編著者 訳 者 発行所 発行日 コメント
『佛國學制(第1第2篇)』(コピー) 佐澤太郎訳
河洋祐之閲
文部省 明治6年〜
 明治9年
所蔵
『繪入 啓蒙訓話』(コピー) 佐澤太郎訳 咀華亭 明治7年 著述自版、所蔵
『牙氏 初学須知』 ガリグエー著 佐澤太郎訳 明治8年 校閲文部省
『労氏 地質学』 ローラン著 佐澤太郎訳 文部省 明治12年
『小学読本』 佐澤太郎編著 文栄堂 明治19年
『小学理科読本二部』 サフレー著 明治21年
『尋常小学第一読本』 佐澤太郎編著 修正出版 明治21年
『尋常小学第二読本』 佐澤太郎編著 修正出版 明治21年
『尋常小学第三読本』 佐澤太郎編著 文栄堂 明治21年
『理事功程佛國之部』 佐澤太郎訳 訂正補約
『斥侯説略』 佐澤太郎訳 訳述
『騎兵野戦要務』 佐澤太郎訳 翻訳
『戦闘説』 反訳月曜会
『督学必携』 反訳文部省
『「ドラフオーマ」動物学』 文部省
『物理日記補遺』 反訳文部省
『小学修身書二部』 佐澤太郎編著
『佛國帝政史』 宮内省訳


出典1:『駅家人物略伝 いにしえわがまちの先覚者たち』、1頁、園尾裕著、駅家公民館ほか刊、2000年5月28日
出典2:『誠之館百三十年史(上巻)』、147・167・168・169・195・196・217・234・244・245・443頁、福山誠之館同窓会編刊、昭和63年12月1日
出典3:『福山藩の文人誌(復刻版)』、210頁、濱本鶴賓著、葦陽文化研究会刊、1988年7月27日
出典4:『福山藩の教育と沿革史』、148頁、清水久人著、鷹の羽会本部阿部正弘公顕彰会刊、1999年8月20日
出典5:『郷賢録』、31頁、福田禄太郎著、福山城博物館友の会編刊、平成12年10月1日
出典6:『福山学生会雑誌(第66号)』、17頁、「福山藩の佛蘭西学者−佐沢太郎先生と『佛国学制』」、海後宗臣、福山学生会事務所編刊、昭和3年8月5日
出典7:『広島県の医師群像−明治時代−』、26頁、阪田泰正著、安芸津記念病院郷土史料室刊、昭和61年1月1日
2005年2月2日更新:本文の修正●2005年3月28日更新:本文・出典●2006年3月10日更新:本文●2007年1月18日更新:経歴・本文・関連情報・出典●2007年7月10日更新:写真・経歴・本文・出典●2008年1月23日更新:本文・関連情報削除●2009年7月22日更新:本文●2009年9月17日更新:経歴・出典●2009年10月19日更新:出典●2011年11月21日更新:経歴●2012年6月13日更新:著書訳書・出典●2015年5月4日更新:誠之館所蔵品●2015年6月9日更新:本文・誠之館所蔵品・著書訳書●