福山阿部藩
藩主
誠之館
先賢
福山藩
関係者
誠之館
歴代校長
誠之館
教師
誠之館
出身者
誠之館と
交流した人々
誠之館所蔵品
関係者
誠之館同窓会
歴代役員
野島泰治
のじま・たいじ
医師、医学博士、国立療養所大島青松園長、
国際ハンセン病学会会員、日本ハンセン病学会名誉会員、
香川県文化功労賞、
高松市庵治
(あじ)町名誉町民、福山市名誉市民、
従三位勲二等旭日重光章
野島泰治


経 歴
生:明治29年(1896年)11月10日、広島県安那郡川南村(現福山市神辺町川南)3255番地生まれ
没:昭和45年(1970年)3月3日、膵臓癌で死去、享年74歳
大正3年(1914年)3月16日 17歳 広島県立福山中学校(誠之館)卒業
大正10年(1921年)3月30日 24歳 大阪医科大学(現大阪大学医学部)卒業
大正10年(1921年)12月1日 24歳 大阪医科大学(現大阪大学医学部)産婦人科教室に入室
大正11年(1922年)4月1日 25歳 陸軍歩兵8連隊に入隊
大正11年(1922年)7月21日 25歳 大阪市立桃山病院医員
大正12年(1923年)1月10日 26歳 大阪医科大学実験診療科助手
大正12年(1923年)9月29日 26歳 第三区府県立外島保養院医員
大正15年(1926年)11月11日 30歳 大阪商船株式会社医師
昭和2年(1927年)6月20日 30歳 第四区府県立大島診療所医員
昭和7年(1932年)2月 35歳 医学博士の学位を受ける
昭和8年(1933年)4月20日〜
 昭和44年(1969年)4月1日
36〜
72歳
第四区府県立大島診療所所長
昭和16年(1941年)7月 44歳 大島療養所は国立大島青松園と改称
昭和19年(1944年)11月15日 48歳 勲六等瑞宝章
昭和23年(1948年)2月23日〜
 昭和24年(1949年)12月31日
51〜
53歳
国立善通寺病院長兼務
昭和26年(1951年)12月2日 55歳 朝日新聞第3回保健文化賞
昭和29年(1954年)1月15日 57歳 山陽新聞社賞
昭和31年(1956年)4月 59歳 ローマでのハンセン病国際会議で日本の現状を報告
昭和38年(1963年)8月20日 66歳 国際らい学会正会員、第8回学会へ出席
昭和40年(1965年)11月3日 68歳 香川県文化功労賞
昭和42年(1967年) 70歳 国際らい学会(ブラジル)に出席
昭和43年(1968年) 71歳 国際らい学会に出席、途中ローマ法王に謁見
昭和44年(1969年)4月1日 72歳 国立大島青松園名誉園長
昭和44年(1969年)4月19日 72歳 日本ハンセン病学会名誉会員の称号を贈られる
昭和44年(1969年)6月25日 72歳 (財)藤楓協会より特別表彰
昭和44年(1969年)11月3日 72歳 勲二等旭日重光章
昭和44年(1969年)12月22日 73歳 香川県庵治(あじ)町名誉町民(その後合併により高松市庵治町名誉町民)
昭和45年(1970年)3月3日 73歳 従三位
昭和45年(1970年)3月25日 73歳 広島県神辺町名誉町民(その後合併により福山市名誉市民)
日本らい学会会長


生い立ちと学業、業績
広島県安那郡川南村(現福山市神辺町川南)の医師野島徳磨の次男として出生。
大正3年(1914年)3月福山中学校(現誠之館高校)卒業。

大阪医科大学(現大阪大学医学部)予科を経て、大正10年(1921年)3月同大学卒業。
在学中に療養所外島保養院を訪れて、ハンセン病治療の実態に大きなショックを受けたことが、後年療養所医師の道を歩む一つの伏線となった。

徴兵検査を受けると甲種合格。
入隊前に見聞を広めておけ、という教授の助言もあって大阪商船の船医となり、半年間にわたってアジアの諸国へ航海した。

大正10年12月陸軍歩兵8連隊に入隊するも尿中蛋白痕跡で即日帰郷。
いったんは大学産婦人科教室に入ったが、大正11年(1922年)4月再び8連隊に入隊。
4ヵ月後に腎臓炎で倒れ除隊。
大阪市立桃山病院の伝染病の臨床医として働いていたが、不運にもペストに感染して隔離され、生死を彷徨った。

大正11年(1922年)12月末、大学に新設された実験診療科助手となり、臨床の病理、細菌、血清の検査、ワクチン、培養基製造などの仕事に没頭した。
殊に、この教室では癌、梅毒、ハンセン病の各抗原とその血清間のいろいろな実験をした。
その度に外島保養院へ往来することが多かった。

大正12年(1923年)9月、実験診療科主任の有馬博士から、外島へ行きハンセン病の病原菌培養を成功させてくれないかと依頼され、第三区府県立外島保養院医員となった。
後年著した随筆集『らいと梅干と憲兵』のなかで、見えない糸で結ばれていったハンセン病との出会いについて、5つの要因をあげているが、「最後の決心は、恩師のすすめと未知の問題の多いハンセン病医学に引きつけられたものと見る外はない」と書いている。

昭和2年(1927年)6月第4区府県立大島療養所医員となった。
福山中学校(誠之館)の大先輩
小林和三郎所長(明治32年卒)の強い勧めに、3年間の約束で赴任したものであった。

けれども、約束の期限が過ぎても継続して治療と研究に励み、昭和7年(1932年)2月ハンセン病の血清反応に関する研究で、医学博士の学位を授与された。

昭和8年(1933年)4月現職で病没された小林所長の後任として、大島療養所長に就任した。

昭和8年(1933年)公衆電話開通。
昭和11年(1936年)所内にラジオ設置。
昭和13年(1938年)電気の海底線を敷設。
同年には諸施設の増築が行われた。
さらに、従来井戸水に依存していたが、天水利用の水道を設置するなど、施設設備の充実にも努力した。

昭和16年(1941年)7月、国立療養所大島青松園として新発足した。

昭和19年(1944年)11月、勲六等瑞宝章を授与された。

昭和20年(1945年)の終戦後の混乱から、大島青松園の運営にも様々な支障が起きた。
何より入所者の食糧の確保、治療のための薬品や医療品の補充、更には大島と高松を結ぶ連絡船の維持など、苦労の絶え間がなかった。

昭和23年(1948年)2月から翌年の12月まで、国立善通寺病院長を兼務した。
これは当時占領下にあった状況のなかで、進駐軍との交渉で重要な案件があったためと云われている。

昭和26年(1951年)朝日新聞第3回保健文化賞、昭和29年(1954年)山陽新聞社賞を受賞。
いずれも多年にわたるハンセン病に関する基礎研究(特に病原菌の培養研究・・・野島株は有名)、療養所での診療活動や運営、学会での研究発表などが、顕著な功績と認められたものである。

昭和31年(1956年)4月ローマで開かれたハンセン病の国際会議に自費で参加。
日本の現状を報告し、世界の情勢を把握して帰国。学会等に報告した。

その後、国際ハンセン病学会の正会員として国際的な学会や会議に出席し、学術研究の成果を報告すると共に、諸外国の新たな研究を吸収し、世界各地の療養所や病院を視察して、その長所を取り入れるよう尽力した。

昭和40年(1965年)11月香川県文化功労賞を受賞した。

昭和44年(1969年)4月1日大島青松園長を退任し、同日名誉園長の称号を贈られた。
昭和44年(1969年)4月日本ハンセン病学会名誉会員に推薦された。
6月には財団法人藤楓協会より特別表彰された。

昭和44年(1969年)11月、秋の叙勲で勲二等旭日重光章を授与された。
昭和44年(1969年)12月香川県庵治
(あじ)町から名誉町民(その後の合併により高松市庵治町名誉町民)の称号を贈られ、昭和45年(1970年)3月には、広島県深安郡神辺町から名誉町民の称号が贈られた(その後の合併により福山市名誉市民)。

昭和45年(1970年)3月3日逝去、同日をもって従三位を贈られた。
葬儀は神辺町川南の生家で盛大に行なわれ、福山中学校(誠之館)時代からの親友であった
徳永豊福山市長が、弔辞を述べた。
神辺町川南の向山墓地に葬られている。

野島泰治が国内および国際的な学会や会議等で発表した研究論文は、144を数えるという。
終生「結核とハンセン病はどこが違うのか」を問い続け、結核菌とハンセン病菌の一元論を主張した。

しかし、野島が生涯をかけて研究し続けた病原菌の培養は、平成15年(2003年)現在なお世界の研究者の努力にもかかわらず、成功していない。
けれども、治療法と薬剤は格段に進歩し、かって不治とされた病は完全に治療できるものとなった。
その歴史と共に歩んだ野島泰治の74年こそは、正にハンセン病の制圧と入所者の人間解放を願って闘った生涯であった。   
佐々木龍三郎(神辺町立図書館長)


誠之館所蔵品
管理 氏 名 名  称 制作/発行 日 付
04862 野島泰治 著 『随筆集 らいと梅干と憲兵』 野島泰治先生記念会 昭和46年
04863 野島泰治 著 『祈る らい医師の海外紀行』 野島冨美 昭和48年
04881 「野島泰治 勲二等旭日重光章 徽章」 昭和44年
04882 「野島泰治 勲二等旭日重光章 証書」 昭和44年
05534 故小林博士記念事業会 編 『小林博士追悼録』 故小林博士記念事業会 昭和12年


探しています
氏 名 名  称 制作/発行 日 付
『野島泰治先生研究業績集』


出典1:『広報かんなべ(bR67)』、神辺町役場刊、昭和59年4月15日
出典2:『随筆集 らいと梅干と憲兵』、野島泰治著、野島泰治先生記念会刊、昭和46年3月3日
出典3:『祈る らい医師の海外紀行』、野島泰治著、野島冨美刊、昭和48年9月10日
関連情報1:『誠之館同窓会報(第2号)』、7頁、「救らいの慈父 野島泰治 青松園園長」、森田雅一、福山誠之館同窓会編刊、1995年5月14日
関連情報2:HP「福山市、市町村合併コーナー、福山市・神辺町合併協議会情報」
2005年4月14日更新:経歴・本文●2005年4月19日更新:関連情報●2006年3月2日更新:経歴・本文(深安郡→福山市)●2006年4月28日更新:タイトル●2007年10月2日更新:経歴・関連情報●2008年1月31日更新:本文・関連情報削除●2008年2月15日更新:本文●2008年2月19日更新:経歴・本文●2008年3月25日更新:経歴・誠之館所蔵品・出典・関連情報●2008年4月15日更新:誠之館所蔵品●2009年2月26日更新:経歴●2009年11月18日更新:誠之館所蔵品●