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福山誠之館校長(第12代) | |||||||||
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経 歴 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
生:明治9年(1876年)4月1日、熊本市下通町生まれ、本籍地=熊本県飽託(ほうたく)郡春日町764番地 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
没:昭和20年(1945年)3月10日、東京新宿区喜久井町で東京大空襲のため没、享年69歳 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
誠之館校長在任期間:大正14年(1925年)3月25日〜昭和4年(1929年)3月5日(在任4年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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生い立ちと学業、業績 |
「去る大正14年(1925年)4月小職本校長を拝命いたしまして着任早々誠之館之記を拝見して、阿部正弘公が先見の明を有せられました事には、少からず驚嘆いたしました。」で始まり、「我々は、明治大帝以来下し賜はった詔勅を信奉して処世の箴規とする傍ら、正弘公其他先哲の遺志をつぎ、人格修養を第一義とし、文武両道にいそしみ、創造惟努めて大に貢献する所あらねば、有難き御思召に対して奉りて相済まぬ義と考へます。」で終わる「誠之館記碑建立除幕式式辞」はよくこの校長の本校における教育方針を示している。 一つは「正弘公其他先哲の遺志をつぐ」ことであり、次のような施策を行った。 1、誠之館伝来の遺品を1室に収蔵して「校宝室」と名付け、そこで閲覧できるようにし、本校の偉大な歴史に触れさせるようにした 2、「誠之館之記」に、本校福田禄太郎教諭による注釈を加え、印刷して生徒全員に配布しその精神の徹底をはかった 3、大正15年(1926年)5月の皇太子行啓記念事業として「誠之館記碑」を建立し、正弘の精神に則り本校教育を推進することを宣言した。 (『誠之館百三十年史・上』1107頁) 大正14年10月、剣道部が、広島高師主催の大会に優勝した後のことを次のように書いている。 「運動場にて優勝旗披露式あり。其の晩校長先生および剣道部に関係ある諸先生と、同座にて慰労会を受く。校長先生の慰労のお言葉を頂戴し、身に余る光栄を感ぜしと同時に、此の校長先生を戴ける吾福中運動部の黄金時代も、近き将来にありと信じたりき。」(『誠之(第31号)』102頁) 人格の修養を第一義として学問に励み、文武両道にいそしむことを理念とするという点で、その翌年、大正15年(1926年)と昭和3年(1928年)の剣道部の全国制覇は、校長にとっても快事であり、生徒の志気、愛校心を高める契機となったことであろう。 遠征歌「春行楽」の2番にある「思えば去年の夏のころ古き都に攻め入りて栄えある勝利挙げし時」というのはこの時のことであり、「今流にいえば、春、夏の甲子園野球に共に優勝したに等しい快挙であった」(「中学時代の思い出」小川高男、『懐古』88頁)と当時の生徒は回想している。 正弘公の建学の理念への心酔は、校名に「誠之館」を入れる運動に連なってくる。 「大正十三・四年の頃か?、一度校名を『誠之館』と改称したいので、認可してもらいたい旨の申請書を県へ提出したところ、当時の学務部長土屋耕二氏から、それでは誠之館の三字が加わるので校名が長すぎるのではあるまいかとて却下になったことがあった。」(「私の中学時代の思い出」浅利敬六、『懐古』37頁) 昭和2年、誠之館記碑の除幕式当日、本校の卒業生数名が発起人となり、校名変更の賛同連署を求めたところ、たちまち300余名の署名を得た。 また他に前もって100余名の署名を得ていたものを加えて、400余名の署名を添え、校名変更請願書は長岡校長の手により、当時の末松知事に手渡された。 その中にいう。 「カノ正弘公ガ館名トシ水戸烈公ガ誠之館ト題額セラレシヲバ追継シテ今又其ノ佳号を踏襲セントス是レ本校興学ノ淵源ニ溯リ其ノ歴史ノ尊崇スベキヲ知ラシメントスルモノニシテ其ノ教育発達ニ資スベキ一理法タルヤ言フヲ俟タザルナリ」。 建碑除幕式に出席していた知事は、その願いを了とし、文部大臣に上申、8月22日、9月1日よりの校名改称許可が公示された。 「大柄の貫禄あるボリウムタイプ、温顔、温厚篤実、洋服がよく似合い修身講話はもっちりと上品であった。校長の修身訓話のある時代は生徒は恵まれていた。」(「中学時代の思い出」仁科博、『懐古』110頁) 松岡義晃(昭和28年卒) |
長岡恒喜氏は、刀剣、鐔(つば)研究家としても著名。 著書に『戦争と鐔』、『荘内金工之研究』などがある。 特に『荘内金工之研究』は陛下にご献上された。 |
松室哲生氏ご提供の情報 第五高等学校では夏目漱石先生に厳しく教えられた。 また東京帝国大学の哲学科に美学が新設されて夏目先生が東大に移った際に、長岡先生も哲学科・美学の一期生であった。 最初に赴任した高松中学校には、菊池寛がいた。 退職後に鍔の研究に専念するようになってからは、本家筋になる細川護立侯爵に講釈したり、鍔の国宝審査に携わったりした。 谷川徹三など、文人との交流も多く深かった。 そして、昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲のおり、東京新宿区喜久井町の自宅前で焼夷弾の直撃に遭い、一瞬のうちに死亡された。 |
著 書 | |||
氏名 | 書名 | 発行所 | 発行年 |
長岡恒喜 著 | 『戦争と鐔』 | 美術倶楽部 | 昭和17年 |
長岡恒喜 著 | 『荘内金工之研究』 | − | − |
情報提供:松室哲生氏(長岡恒喜氏は、松室哲生氏の母方の祖父にあたられます)。 |
関連情報1:『誠之館百三十年史(上巻)』、328・823・1057・1059・1107・1109・1125・1128頁、福山誠之館同窓会編刊、昭和63年12月1日 関連情報2:『誠之(第31号)』、102頁、「剣道部記事」、藤井勝雄・中島剛、福山中学校校友会編刊、大正15年4月1日 関連情報3:『懐古』、37頁、「私の中学時代の思い出」、浅利敬六、福山誠之館同窓会編刊、昭和58年5月15日 関連情報4:『懐古』、88頁、「中学時代の思い出」、小川高男、福山誠之館同窓会編刊、昭和58年5月15日 関連情報5:『懐古』、110頁、「中学時代の思い出」、仁科博、福山誠之館同窓会編刊、昭和58年5月15日 関連情報6:『福山学生会雑誌(第84号)』、57頁、「長岡恒喜先生を訪問する」、門田岬、福山学生会事務所編刊、昭和12年7月20日 関連情報7:『福山いしぶみ散歩』、6頁、佐野恒男著、福山市文化財協会刊、1993年5月12日 |
2004年10月27日更新:関係略歴●2005年4月5日更新:本文・関連情報●2006年3月27日更新:本文・関連情報●2007年3月6日更新:本文●2007年3月28日更新:本文・著書●2007年7月19日更新:経歴●2008年4月30日更新:経歴●2008年6月30日更新:経歴・著書・関連情報●2009年8月7日更新:経歴・本文・関連情報●2012年2月14日更新:本文・関連情報● |