福山阿部藩
藩主
誠之館
先賢
福山藩
関係者
誠之館
歴代校長
誠之館
教師
誠之館
出身者
誠之館と
交流した人々
誠之館所蔵品
関係者
誠之館同窓会
歴代役員
守分勉
旧名
藤井勉
もりわけ・つとむ ふじい・つとむ
中国銀行頭取
守分勉


経 歴
生:大正5年(1916年)4月19日、広島県深安郡千田村(現福山市千田町千田)2391生まれ
没:平成12年(2000年)8月16日、享年85歳
昭和9年(1934年) 17歳 広島県立福山誠之館中学校卒業
昭和14年(1939年)3月 22歳 松江高等学校卒業
昭和17年(1942年)9月 26歳 京都帝国大学法学部卒業
昭和17年(1942年)9月 26歳 神戸海上保険会社(後の同和火災海上保険)入社
昭和18年(1943年) 27歳 守分家に入る
昭和22年(1947年)1月 30歳 中国銀行入行、鴨方支店雇
中国銀行鴨方支店支店長代理
昭和27年(1952年) 35歳 中国銀行福山支店長代理
昭和28年(1953年) 36歳 中国銀行倉敷支店長代理
昭和30年(1955年) 38歳 中国銀行倉敷駅前支店長
昭和32年(1957年) 40歳 中国銀行倉敷支店長
昭和34年(1959年) 42歳 中国銀行取締役
昭和36年(1961年) 44歳 中国銀行審査部長
昭和38年(1963年) 46歳 中国銀行常務取締役総務部長
昭和47年(1972年) 55歳 中国銀行専務取締役
昭和47年(1972年)ごろ 55歳ごろ 地銀協監事
昭和51年(1976年) 59歳 中国銀行副頭取
昭和52年(1977年)1月 60歳 中国銀行頭取
昭和56年(1981年)11月 65歳 藍綬褒章
昭和61年(1986年)11月 70歳 勲三等旭日中綬章
昭和62年81987年)6月 71歳 中国銀行会長
平成元年(1989年)6月 73歳 中国銀行相談役


生い立ちと学業、業績
守分勉は大正5年(1916年)4月19日、広島県深安郡千田村(現福山市千田町)にて、地主藤井宇一郎の5男に生まれた。
実父宇一郎は税務署長など官吏の生活で岡山県、広島県、島根県の各地を歩き、勉の小学校入学は現在の竹原市忠海で迎えている。
当時、広島税務監督局管内で父の上司であった小川郷太郎、公森太郎、三土忠造の名と人柄は家庭で話題となり、幼な心のなかにも強く焼きついて成長したという。

地元の福山誠之館中学から松江高校文科甲類に進み、京都帝国大学法学部卒業。
昭和17年(1942年)卒業とともに、神戸に本社のある神戸海上保険会社へ入社(戦時中、同和火災となる)。
昭和18年(1943年)、守分十に請われて婿養子入り、岡山県浅口郡玉島町乙島(現倉敷市)で入籍。

戦後、昭和22年(1947年)1月中国銀行へ入行、鴨方支店へ雇の資格で配属された。
最初の仕事は封鎖預金担当で、米穀通帳等の諸証書により、新円を渡すという経験をした。
同地で支店長代理に昇進。
以来、昭和27年(1952年)福山支店長代理、昭和28年(1953年)倉敷支店長代理、昭和30年(1955年)倉敷駅前支店長、昭和32年(1957年)倉敷支店長、昭和34年(1959年)取締役就任、昭和36年(1961年)審査部長、昭和38年(1963年)常務取締役総務部長、昭和47年(1972年)専務取締役へ。
昭和39年(1964年)ごろより瀬崎専務取締役、古西専務取締役の上京に際し随行、昭和47年(1972年)ごろよりは地銀協監事など守分十頭取を代行。
昭和51年(1976年)副頭取、昭和52年(1977年)1月、守分十死去により頭取に就任。
   (出典1)


出典1:『中国銀行五十年史』、578頁、株式会社中国銀行編刊、昭和58年4月21日
2005年6月1日更新:本文、出典●2006年5月30日更新:タイトル、連絡先(削除)●2006年12月8日更新:レイアウト●2008年4月2日更新:経歴、本文●2009年6月24日更新:経歴●