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| 教育家 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 生:天保元年(1830年)12月9日、備中国都窪郡中島村生まれ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 没:大正8年(1919年)5月12日、享年90歳、東京大田区本門寺に葬る | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 天保元年(1830年)12月9日、備中国都窪郡中島村村長・三島寿太郎正c(まさあきら)の第ニ子として生まれた。名は毅(つよし)、字は遠叔、通称は広次郎・貞一郎。また桐南・絵荘・中洲と号した。 13歳にして備中高梁の山田方谷に従学し、14歳の時には塾長となる。さらに23歳、津藩の斎藤拙堂に師事した。安政3年(1856年)帰郷し松山藩へ出仕する。その後、江戸昌平黌に遊学し、佐藤一斎らに学ぶ。安政6年(1859年)、松山藩校有終館会頭の傍ら藩政に参画し、藩主板倉勝静(いたくら・かつきよ)をたすけ、戊辰の役後朝譴をこうむった藩の命脈をつなぐに功があった。明治3年(1871年)致仕し、専ら育英に専念した。 明治5年(1872年)以後、中央において法官をつとめたが、明治10年(1877年)官を辞して、私塾二松学舎を創設、ついで東京高等師範学校・東京帝国大学古典科の教授として教鞭をとった。 明治29年(1896年)以降、東宮侍講として皇太子の教育にあたった。彼は重野安繹(しげの・やすつぐ)、川田甕江(かわだ・おうこう)とならんで、明治の三大文章家と称せられた。 福山藩関係では、江木鰐水の「鰐水江木先生墓碣銘」(東京谷中墓地)が中洲の撰である。 大正8年(1919年)5月12日に没、享年90歳。東京都大田区の本門寺に葬る。 著書に、『詩書輯説』、『禹貢図』、『三天図』、『尚書古文系表』、『漢書百官志図』、『明史職官志図』、『温史通論』、『渉猟日記』、『権輿雑録』、『探梅日記』、『皆夢文詩』、『霞浦遊藻』、『論学三百絶』、『中洲詩稿』、『日本政記論文段解』などがある。関連書に山田準編『中洲三島先生譜』、「東京学士会院雑誌」12の7『会員三島毅の伝』、「斯文」1の5三島復『三島中洲翁の逸事』がある。 |
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| 出典1:『国事鞅掌報効志士人名録』、史談会編刊、明治42年6月 出典2:『誠之館記念館所蔵品図録』、67頁、福山誠之館同窓会編刊、平成5年5月23日 出典3:『明治維新人名辞典』、951頁、日本歴史学会編、吉川弘文館刊、昭和56年9月10日 出典4:『日本書道史』、331頁、奥山錦洞著、清教社刊、昭和16年12月5日 |
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| 関連情報1:『福山学生会雑誌(第48号)』、附25、「鰐水江木先生墓喝銘」、三島毅、福山学生会事務所編刊、大正5年7月27日 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 2005年6月20日更新:レイアウト●2006年6月30日更新:タイトル、所蔵品●2007年1月24日更新:経歴、本文、出典●2008年1月21日更新:経歴、本文●2008年7月27日更新:関連情報●2010年4月23日更新:写真、出典●2010年11月10日更新:経歴、本文、出典●2012年1月6日更新:誠之館所蔵品展示品● | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||