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| 福山藩右筆、書の大家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 生:寛政8年(1796年)12月20日、江戸生まれ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 没:文久2年(1862年)10月18日没、享年67歳 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 家は代々福山藩士、成齋は寛政8年(1796年)江戸に生まれた。名は知足・親長、字は子祥・子節、通称は五一・吾一・岩太郎、成齋・静齋・不惑道人・不惑通人・心畫齋・負丘山人・負丘山樵・五一居士・奇觚楼、青々・松亭などと号し、さらに晩年は中風を病み風翁・風道人とも号した。室号に心画室・韓心精舎がある。名の親長、字の子祥は市河米庵に師事していた頃のもので、狩谷掖齋に師事して以降は名を知足、字を子節とした。 父親の親蔵は阿部正精に仕え、福山藩江戸上屋敷(神田龍の口)に住んだ。痩身で、眼光鋭く、常に堂々としていたという。 小島成斎は、阿部正精(あべ・まさきよ)・阿部正寧(あべ・まさやす)・阿部正弘(あべ・まさひろ)阿部正教(あべ・まさのり)の4代に右筆(ゆうひつ)(*1)として仕えている。 初め阿部正精は成齋の素質を見抜き、少年時代に市河寛齋(いちかわ・かんさい)に、ついで寛齋の子・市河米庵(いちかわ・べいあん)について学ばせたが、もっとも傾倒した師は狩谷掖齋(かりや・えきさい)であった。その指導により、漢唐訓詁から秦漢金石文や晋唐の法帖碑版(ひはん)にまで及ぶ研究によって、古書道の真髄を会得した。また松崎慊堂(まつざき・こうどう)に学んだ。市河米庵の清媚な書風を嫌い、楷書は虞世南、行書は聖教序・趙模千文・又高宗、草書は懐素の聖母帖などを学んだ。楷草篆隷(かいそうてんれい)、いずれの書体に於いても人神の域に達していたという。 藩中でも学ぶ者も多く、書道の隆盛に大いに貢献した。幕府からアメリカへの答書を担当し、これを金泥で書いたために中風となった。この時、服壱領を受けた。文化10年(1813年)供番格書吏、文政12年(1829年)右筆となり、のち公用方右筆頭を経て書道教授となる。嘉永6年(1853年)12月、正弘に命ぜられて、再来したロシア使節プチャーチンに対する返書を執筆し、大いに嘉賞された。安政3年(1856年)には奥詰となった。 文久2年(1862年)10月18日没。享年67歳。墓は東京本郷駒込の長元寺、墓表は海保元備製文(*2)。 代表的な著書に『淳化祖帖釈文』、『段註補正』、『五経文学疏證』、『讀令札記』、『讀律私記』、『律版定札記』、『急就草』、『文学考』、『干禄字書辯證』、『成齋題跋』、『酣中清話』などがある。 第一の弟子は、江戸練馬の内田修平、第二の弟子は津山碧山の兄・津山章斎、長州の野村素介という。 |
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| (*1)記録を司る人・補佐役のこと (*2)別に墓は駒込法林寺にあり、碑文は関藤藤陰選稿ともいう[出典4:郷賢録参照] |
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| 出典1:『誠之館記念館所蔵品図録』、66頁、福山誠之館同窓会編刊、平成5年5月23日 出展2:『近世後期の福山藩の学問と文芸』、81頁、福山市立福山城博物館編刊、1996年4月6日 出典3:『福山藩の文人誌』、95頁、濱本鶴賓著、葦陽文化研究会編刊、1988年7月27日 出典4:『郷賢録』、20頁、福田禄太郎著、福山城博物館友の会編刊、平成12年10月1日 出典5:『福山の今昔』164頁、濱本鶴賓著、立石岩三郎刊、大正6年4月26日 出典6:『諸芸術研究(第4号)』、42頁、「小島成斎の書風の変遷」、田村南海子、筑波大学人間科学研究科編刊、2011年3月31日 |
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| 関連情報:『福山学生会雑誌』、福山学生会事務所編刊 (1)第48号、附22頁、「小島成齋先生墓表」、海保元備、大正5年7月27日 (2)第50号、13頁、「小島成齋翁の遺墨」、池田常太郎、大正6年1月1日 (3)第50号、36頁、「小島成齋先生遺墨展覧会」、大正6年1月1日 |
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| 2005年2月15日更新:経歴を追加●2005年3月25日更新:所蔵品、出典●2006年3月8日更新:●2006年6月23日更新:タイトル、本文、所蔵品●2007年9月7日更新:経歴、著書、関連情報●2008年1月31日更新:本文、関連情報削除●2008年2月26日更新:本文●2008年4月11日更新:本文●2008年4月17日更新:本文、著書削除、誠之館所蔵品●2008年5月16日更新:注記●2008年6月3日更新:本文、誠之館所蔵品●2008年7月24日更新:本文、注記、関連情報●2008年7月28日更新:関連情報●2008年12月3日更新:本文●2009年2月4日更新:誠之館所蔵品●2009年3月19日更新:誠之館所蔵品●2010年3月19日更新:出典●2010年6月2日更新:誠之館所蔵品●2010年7月21日更新:誠之館所蔵品●2010年8月13日更新:本文、誠之館所蔵品●2010年9月9日更新:誠之館所蔵品●2011年7月22日更新:誠之館所蔵品●2011年9月2日更新:経歴、本文、誠之館所蔵品、探しています、出典●2011年10月26日更新:本文、誠之館所蔵品・展示品●2011年11月21日更新:誠之館所蔵品・展示品●2011年12月15日更新:誠之館所蔵品・展示品● | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||