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河内源一郎
かわち・げんいちろう
焼酎用河内菌の発見者
河内源一郎(河内源一郎商店所蔵)


著 書
「焼酎酒精及酒精含有飲料」
(大正11年7月発行)表紙
河内源一郎商店所蔵
「黒麹(B)」
(昭和2年発行)表紙
河内源一郎商店所蔵


経 歴
生:明治16年(1883年)4月30日、広島県深安郡福山町吉津町生まれ
没:昭和23年(1948年)3月31日、鹿児島市清水町の自宅、享年66歳
明治37年(1904年) 20歳 広島県立福山中学校(誠之館)卒業
明治42年(1909年) 25歳 大阪高等工業学校醸造科(現大阪大学発酵工学科)卒業
明治42年(1909年) 25歳 大蔵省熊本税務監督局(鹿児島工業試験場)技官
大正13年(1923年) 41歳 河内白麹菌を発見
昭和6年(1931年) 48歳 大蔵省退官
昭和7年(1932年) 49歳 「河内源一郎商店」を設立


焼酎王国不滅の業績            
白麹菌発見の福山人『河内源一郎』伝
土肥勲(福山市文化財保護指導員)

河内源一郎は明治16年(1883)4月30日、当時の深安郡福山町の吉津町に河内弥兵衛・フミの長男として生まれた。
家業は山田屋という醤油製造業で、弥兵衛は当時営業税25円以上納付の者を会員とする福山商工会(明治32年11月26日創設)の常議員に名を運ねているが、大正の初め廃業し源一郎に引き取られている。

源一郎は幼少から麹
(こうじ)(もろみ)の中で育った関係で、家業を継ぐ意志からか明治37年広島県立福山中学校(現誠之館高)《第18回生》を出て大阪高等工業醸造科(現大阪大学発酵工学科)に学び(明治42年卒)さらに母から大学進学を奨められるが、このころ家業が不振のため断念して大蔵省の役人となり、熊本税務監督局管下の鹿児島・宮崎両県の技術指導と監督を担当する鹿児島工業試験場の技師として赴任した。

赴任間もない年の秋、県内のある焼酎工場を視察したとき「今年は残暑が厳しく、せっかく作った焼酎が腐り歩留まりが悪いうえ、味も良くないし、良い方法はないか」と相談を受けた。
当時の焼酎製造は醪とり焼酎づくりといわれ、清酒と同じ黄麹を米に加え発酵させてモトをつくり、これを甘藷に仕込んで本発酵させて醪をつくり、これを蒸留器にかけて出た原酒に水を加え、焼酎として市中に出していたのである。

源一郎はそれまで主として醤油製造に力を入れていたが、このときから焼酎製造に目を向けるようになり、考えついたのは暖かいところで年中作られている沖縄の泡盛であった。
早速種麹を取りよせ、本格的な研究を始めた。
26歳のときであった。

泡盛の種麹は黒麹で、それまで使っていた黄麹とはだいぶ性質が異なるので源一郎は毎日顕微鏡を覗いたり、試験管やピンセットを手に研究を続けたが、相手はカビであり、絶えず増殖し続けるため一瞬の油断も許されないうえ、温度・湿度が大きく作用するため、この頃から源一郎は麹菌の入った培養基を肌身はなさず持ち歩くようになった。

このことは源一郎の死まで続き、大正5年(1914)1月岡山県笠岡から嫁いできた貞代(昭和46年2月、86歳で没)は、いつも麹菌の入った培養基を持っている夫にびっくりしたという。

明治43年、泡盛菌から醪とり焼酎に適した種麹菌の分離に成功、これには泡盛黒麹菌=学名アスペルギルス・アワモリ・ヴァル・カワチ=と名づけられた。
この麹菌は黄麹の欠点とされた腐敗が極端に少なく、これによる焼酎の収得率は大いに改良向上した。
研究はさらに続き、大正7年にはジアスターゼ製法に関する特許2件、同10年には種麹製法についての特許を取得している。

大正13年のある日、いつものように顕微鏡で泡盛黒麹菌を覗いていると糸状に伸びたカビ群の中に何か異色のものを見つけた。
この菌は褐色で他のカビと違ってあり、これを分離し育てていくうち泡盛黒麹菌より性能が安定していて黒麹のように菌が飛びはねて衣服などを汚すこともなく、麹づくりが容易で原料の甘藷の分解力が強く、焼酎の品質も一段と向上することが判った。
そして純粋分離に成功、河内白麹菌と名づけ「泡盛黒麹菌の突然変異によって生じたもの」として学界に発表したが、当時の学者は無視し、認知されたのは昭和23年(1948)京都大学教授北原覚雄博士(のち東大微生物研究所長)によって初めて立証されたのである。

ただ、せっかくの河内菌白麹も地元ではあまり歓迎されなかった。
それは黄麹から泡盛黒麹菌に切り替えたことで腐造が無くなり、収得率が高まって安定操業していたからで、こうしたことが後に源一郎を退官させ、自ら河内菌白麹の製造に向わせるきっかけにもなった。

昭和6年、48歳のとき職を辞し、翌7年、鹿児島市清水町で焼酎用種麹の製造販売を始めた。
菌種は泡盛黒麹菌、河内菌白麹、黄麹を改良した強力黄麹であるが、製造販売とはいえ、規模は自宅を改造した家内工業の域を出なかった。
しかし、堅苦しい役所勤めから解放され自由の身で研究が続けられることで、源一郎にとっては一生のうち一番幸せの時代であったといえよう。

麹菌の評判は北九州の利用者から徐々に高まって地元に及び、普及と販売は軌道に乗った。
そして昭和14、5年頃には朝鮮、満州にまで広がって醪とり焼酎づくりの指導によく出張していたという。

鹿児島市も福山と同じく昭和20年6月に米軍の空襲を受け、工場も全焼したが、このとき源一郎は家財は一つも持ち出すことなく、種麹の原種だけを防空頭巾に包んで防空壕へ待避した。
戦災後、源一郎夫妻は一時福山への帰住を決心したものの当時乗車券の入手が困難なためあきらめたようである。
そのため、21年に工場を再開するまで、よき理解者であった伊集院の窪田酒造に疎開、ここで製造を続けた。

この頃から胃を悪くしていたようで衰弱し、昭和23年3月31日手術のための入院予定日に自宅の床で目を閉じた。
しばらくして妻の貞代が源一郎の着衣の乱れを直そうと胸もとを合わせたとき、ふところに純粋分離中の本格焼酎麹菌と蒸し米の入った試験管培養基、シャーレ培養基が5個あるのに気づいた。
敗戦後の物資不足の折柄、麹菌を純粋分離のための精巧な恒温装置が無いため自らの体温で分離していたのである。

鹿児島の焼酎を日本の代表的蒸留酒とすることを目指して、麹菌の研究に精魂を傾けた福山出身のカビ学者、河内源一郎はこうして不滅の業績を残したが、生涯一度として褒賞を受けることはなかった。
しかし、彼が残した麹菌製造工場は現在「株式会社河内源一郎商店」として後継者3代目山元正明社長(源一郎の二女正子の夫)によって種麹のほか、自動製麹装置や自動蒸留装置を製造販売しており、わが国の本格焼酎は、清酒醪を蒸留したもの、粕取り焼酎以外はすべて河内菌白麹、河内菌黒麹が使用され、乙類焼酎の8割を占めている。

ちなみに4代目を継ぐ予定の山元杜長の長男正博(東大農芸化学科大学院卒)は、鹿児島空港近くで酒匠工房GEN(錦灘酒造グループ)の代表者として焼酎・地ビールの製造直販を行っており、当地の観光コースのひとつとなっている。(文中敬称略)
   (出典1)


麹の神様      HP「ひるね蔵」より 秘剣氏

昭和36年(1961年)、この年に焼酎業にとっては画期的なことが起きた。これまで杜氏の職人技に頼るしかなかった製麹工程の機械化を実現した自動製麹機の発明である。

この発明によって、蔵の仕事は大きく変わったといっていい。
昔ながらの手造りカメ壷仕込みの大切さは言うまでもないが、薩摩の蔵がきちんと経営を成り立たせるには、安定した作品を継続的に生産してゆくことが必要だ。
そして、そのために製造過程のなかでの効率化、安定化を図るのは当然のことである。
その点で、米麹用の米を洗い水分を吸収させる浸漬
(しんせき)の工程、蒸きょう、そして冷却から製麹へという、一連の工程を自動化する発明は薩摩の焼酎業界にとっての福音であったといっていい。
そして、注目すべきは、この自動製麹機を発明した当人が言うこの言葉である。
「大事なのは、麹だ。機械に頼っておろそかになってはいけない。」 
そのとおりだと、秘剣は思う。

本格焼酎は「工業製品」では断じてない。
有用微生物の天然の力の作用によって生まれるものに人が手を掛け魂をつぎ込んではじめて「作品」として生まれるものだと思う。

本格焼酎の造りで大切なことは何かと聞けば、答えとして返ってくるのは、米であったり、原料の芋であったり、また仕込みに不可欠な水であったりするだろう。
それはそのとおり、すべてが造り手の工夫や努力によって磨かれ、見いだされ、育まれてきたものばかりだ。
そして、麹もまた先人のひたむきな努力によって研究され培養されてきた。

秘剣の鹿児島の生家(池の上町)から歩いて5分、錦江湾に注ぐ稲荷川を渡ると、母校「清水小学校」がある清水町に入る。
そこからさらに国道へと向かう。
国道10号線に突き当たる左の角には大きなスーパーがある。
昔はここに「ミソノ温泉」という「銭湯」があった(鹿児島市内の銭湯はほとんどが温泉か鉱泉)。
その角を左に曲がり、国道を北に少し歩いた道沿いに、「河内源一郎商店」はある。
社長は山元正明氏、冒頭に書いた「自動製麹機」の発明者である。

山元氏と河内源一郎との出会いは、大東亜戦争時の燃料用アルコールの調達を担当していた山元氏が、製造に欠かせない「種麹」を求めたことから始まったという。
奥様は源一郎の息女昌子さん。 

あらためて、河内源一郎の足跡を調べてみた。
麹研究一筋に生きた姿が次第に見えてくる。
戦災による不遇の時代、闘病・・・。
ただ、一貫して見えるのは、源一郎の研究は「学問」のためのものではなく、常に事業者、焼酎製造者の立場を考えた親身のものだったということ。

河内は明治44年(1911年)、鹿児島税務監督局の鑑定官として赴任した。
もとは広島県福山市の生まれである。
税吏の常としていわれる「苛斂誅求」などは河内には関係なかった。
生家は「山田屋」という醤油製造業。
麹やモロミになじんで成長した彼にとって、鹿児島の焼酎業は身近なものに感じられたのだろう。
彼の熱心な技術指導は、鹿児島の多くの業者に慕われ信頼されたという。

黄麹で造っていた時代だ。
薩摩の熱い夏の日が続くと当然腐造が起こる。
河内が沖縄で使用されていた黒麹に目を付けたのは当然だった。
さらに強力な黒麹を培養しようと努力する中で、天からの僥倖がもたらされた。
そう、僥倖といっていいだろう、努力の結実と同じ意味で使いたい言葉だが。
これが、すなわち後日「アスペルギウス・カワチ・キタハラ」の学名を付与された「河内白麹菌」の発見だった。
ひたすら優れた麹菌を作るために捧げられた一生の頂点だったといえようか。
当時は、黒麹で造った焼酎は味がきつく(現代なら、特に県外の焼酎ファンなら、味にキレがあるというのだろう。関東と薩摩の風味に対する違いはいまでも大きい)、なかなか普及しなかったともいう。

河内はさきほども述べたが、自分の名誉・栄光・金儲けなどには麹菌一個分ほども興味も関心もなかった。
よりよい麹をつくるためにすべてを捧げたといっていい。
自分の研究によって生み出された成果、特許、専売権などをすべて業界に公表して躊躇うことがなかった。
戦災で麹菌の培養器が失われた後は、常に試験管とシャーレを肌身につけていた。
鹿児島市内が米軍の無差別大爆撃にあったあと、戦災で徹底的に破壊された清水町の自宅商店の跡地から、ひとかけらの麹菌を採取しようと探し続けていた河内の姿を山元氏は鮮明に記憶しているという。

先人達の真摯な研究と懸命な努力を、積み重ね、また積み重ねて、いまの薩摩の「焼酎」があるということを痛切に感じる。
これを伝統といい、文化というのだろう。
一部の欲得だけで「本格焼酎」を扱う風潮が先人達の汗の前には、哀しくも卑小なものにみえてくる。

河内源一郎、広島県福山市の人。
薩摩の地で焼酎の発展に尽力。
その血統はただしく継承され、いまに続く。
彼は昭和23年(1948年)3月31日に鹿児島市清水町の自宅商店の玄関先で亡くなった。
倒れたとき、胸に抱いていたガラスシャーレが、哀しく泣くように音をたてたという。
   (出典3)


生い立ちと学業、業績(補足)

明治15年(1883年)年に広島県福山市生まれ。
大阪高等学校(現大阪大学発酵工学科)を卒業し大蔵省税務監督局技官として鹿児島に赴任。

沖縄から泡盛麹菌(黒麹菌)を持ち帰り、研究を進めた。
その後、黒麹菌の突然変異の菌叢を発見し分離に成功。
それが白麹菌である。
白麹菌の登場により麹造りの作業が向上し焼酎麹菌の主流となった。
なお、彼の業績を継承し発展させ、優良な麹菌(業界では「河内菌」
(かわちきん)と呼ぶ)を焼酎業界に供給し続ける。
現在、麹屋「河内源一郎商店」では、社名を「かわうち」と読むことにしている。

昭和23年(1948年)逝去。
   (出典2)


資料協力:河内源一郎商店
取材協力:土肥勲氏
出典1:『文化財ふくやま(第39号)』43頁、土肥勲、福山市文化財協会、2004年5月20日
出典2:HP「お酒天国」→「お酒の辞典」→「か」→「河内源一郎」
出典3:HP「ひるね蔵」→「酒の蔵」→「本格焼酎党のひとりごと」→「麹の神様」
2005年5月31日更新:本文・出典●2006年4月21日更新:タイトル●