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伊藤仁斎
いとう・じんさい
儒家、京都堀川学派
伊藤仁斎
生:寛永4年(1627年)7月20日、京都近衛堀河生まれ
没:宝永2年(1705年)3月12日未刻、享年79歳、嵯峨の二尊院に葬る
寛永14年(1637年) 11歳 四書を学び始める
正保2年(1645年) 19歳 朱熹編の『李延平答問』を読んで朱子学に傾倒
承応3年(1654年) 28、9歳 隠棲して、仏教や老子の書物を読みふける
寛文2年(1662年)5月 36歳 地震機に隠棲より自宅に帰り、塾を開いて生徒を教える
「同志会」を結成
寛文6年(1666年)すぎ 40歳すぎ 結婚
延宝元年(1673年)5月 47歳 大火で類焼
延宝4年(1676年) 50歳 塾を再開
 江戸時代前期の儒学者。古学堀川学派の祖。名は維(これえだ/いてい)・惟貞(いてい)といい、字は源佐(げんすけ)、または源助(げんすけ)。はじめの名は維貞、字は源吉、幼名を源七、通称を鶴屋七右衛門という。はじめ敬斎と号し、のち仁斎と改めた。別号を棠隠・櫻隠ともいう。
 先祖は堺の商人で、祖父伊藤了慶(七郎右衛門)のとき京都に移住、父了室(七右衛門)も商業にたずさわった。母那倍
(なべ)は、連歌師里村紹巴の孫で、その母つまり仁斎の外祖母は角倉了以の姪。了室以下、伊藤家の墓が、角倉氏と関係の深い嵯峨二尊院にあるのはそのためであろう。
 寛永4年(1627年)7月20日、京都近衛堀河(東堀川通下立売上ル)に了室の長男として生まれた。幼時からおちついた性格で、11歳から四書を学び、19歳のとき、朱熹編の『李延平答問』を読んで朱子学に傾倒し、『性理大全』70巻、『朱子語類』140巻など、大部の朱子学に関係する書物を熟読した。28、9歳のときに、病気にかかって家業を弟に譲り、近くの松下町(一条堀川東入ル付近)に隠棲して、仏教や老子の書物を読みふけった。そして、宋学には、孔子・孟子本来の教えでない仏教・道家の思想の混入していることをさとり、ついに宋学を批判して、儒学本来の思想と考えられるものを自身独学で体系づけた。
 寛文2年(1662年)5月、京都に地震があったのを機会に、隠棲より自宅に帰り、塾を開いて生徒を教えることにし、『論語』、『孟子』および『中庸』の独自の解釈の草稿を作った。同時に、友人たちと「同志会」を作って、対等の立場で討論しあう漢籍の研究会をまわり持ちで行なった。
 このころ、おそらく40歳を過ぎてから、はじめて結婚している。
 延宝元年(1673年)5月、京都の大火に類焼し、京極大恩寺に避難中に母を失い、翌延宝2年には父も没して4年まで服喪した。喪があけて再び開講、『論語』、『孟子』、『中庸』を中心に、『易』、『大学』、『近思録』なども講じた。門人も次第に増加し、門人帳には3000余人が記載されたという。かくて堀川の塾で教育にたずさわること40余年、宝永2年(1705年)3月12日未刻に没した。年七十九。嵯峨の二尊院に葬る。古学先生と私諡された。
 妻は最初、尾形光琳・乾山兄弟の従姉にあたる尾形(緒方)嘉那
(かな)をめとったが、長男東涯・長女具寿(くす)・次女清(せい)を生んで、早死したので、継妻に瀬崎総(ふさ)・富佐(ふさ)をめとり、次男伊藤重蔵(梅宇)、三男伊藤介亭、三女伊藤留(とめ)、四男伊藤竹里、五男伊藤才蔵(蘭隅)を生んだ。五人の男子はすべて字に蔵の一字を持ち、堀川の五蔵と称されて、その俊秀をたたえられた。かれの親戚・交友には角倉氏・里村氏.・尾形氏など富商が多く、その環境は京都の高級町人にとりまかれていた。また公卿にも交友多く、明経道・紀伝道の博士家の流れをくむ伏原・舟橋・柳原の諸家とも交わり、西園寺実輔に年号改元の相談に招かれてその「改元之定辞」を代作し、いわば宮廷の漢学顧問のようであった。幕府の官学たる朱子学を批判しても、なおその学派が隆盛であり得たのは、京都の宮廷と富商とが後援していたからであろう。
 武家では近江水口の鳥居侯に講義をし、若年寄稲葉正休に『語孟字義』などを写して進呈したほかは、肥後熊本の細川侯の招聰を辞するなど、大名とあまり直接に関係を持とうとしなかったが、門人の中には京都在勤の諸藩の武士などもあり、赤穂義士中の小野寺十内秀和はその一人であり、大石良雄もそうであったといわれる。
 その性質は温厚で飾りけがなく、人目を引くような行為をしなかったが、意志が強く一旦決めるとどこまでもやり通したという。
 仁斎の学問は、朱熹らの宋学の思想を、孔子・孟子本来のものと異なるとし、孔子・孟子そのものについて儒家の思想を考えようとした。そこで孔子・孟子の古に復すという意味で、その学問を古学と呼び、著書に「古義」と名づけ、塾を古義堂と呼んだ。万人共通の倫理を述べたものとして、『論語』を最上至極宇宙第一の書と呼んで尊び、『孟子』を『論語』の義疏として、孔子の思想を最もよく敷衍説明するものとした。それに『中庸』の一部分を加えて、孔子以下儒家の思想を体系づけて「血脈」と呼び、その体系からはずれる不純な要素を含むものは、『大学』のごときものでも、孔氏の遺書でないとして排斥した。かく全体を体系づけて、それにもとづいて文献批判を行い、その批判を通過したものによって、その思想体系内の用語の「意味」を帰納的に解釈して、孔子を中心とする儒家の思想を説明した。仁斎によれば、孔子・孟子は、仁義礼智や忠信という実践倫理を説いたのであって、太極・性・理というようなものに形而上学的意味を付与する宋学は、虚なるものであり、孔子らの説くところではないとする。そして、本来の性質のなかに善があり、人欲によって動かされるところに悪が生ずるから、敬によって人欲を去り、本来の静にかえることが善への方法であるとする宋学に対し、生々変化することこそ世界の本質であり、動にこそ価値がある。性善とは善になる可能性があることをいい、人間にとって最も大切なのは、学問と教育によって善の可能性をのばすこと、それが孟子のいう拡充であると説き、学問と教育の重要性を強調した。仁についても、それを最高道徳の名称として考える宋学に対して、愛という実践行為にほかならないとした。
 かくのごとく、従来一般に行われた朱子学を大胆に批判し、かつ、その精密な文献批判は、独創的見解に富む。中国において朱子学批判と文献批判が行われるようになったよりも、約半世紀ないし一世紀早い。この新説の唱導は、旧来の儒学に対する批判をおこす大きなきっかけとなり、荻生徂徠の護園学派や石田梅岩の心学もその影響のもとにでき上がったといえる。
 かれの思想を概説したものには、『童子聞』3巻と『語孟字義』2巻があり、後者は、南宋の陳淳『北渓字義』をまねて、儒学の術語を解釈して、その思想を体系的に説明したもので、徂徠の『辮名』は、その反発として書かれた。『論語古義』10巻、『孟子古義』7巻は、その学問の根拠を示す注釈で、単に語句の解釈にとどまらず、思想的説明が加えられている。『中庸発揮』1巻は、『中庸』の注釈であるが、その前半と後半とを別の学派のものであるとする文献批判がある。そのほか『大学定本』1巻、『周易乾坤古義』1巻、『仁斎日札』1巻などの著書がある。漢詩文は、徂徠によって批判されたが、おおむね格調正しい堂々とした作で、律詩にすぐれ、『古学先生文集』6巻、『古学先生詩集』2巻がある。また母方の里村氏や堂上家との交際の関係もあって、和歌をもたしなみ、『古学先生和歌集』1巻がある。
   (出典1)
別名 コメント
長男 伊藤東涯 源蔵・元蔵 長胤 東涯・慥々齋
次男 伊藤重蔵 重蔵・十蔵 長英、初めは長敦 梅宇・相違窩・應程 阿部公に仕う
三男 伊藤正蔵 長衡 介亭 高槻侯に仕う
四男 伊藤平蔵 長準 竹里 有馬侯に仕う
五男 伊藤才蔵 長堅 蘭嵎 和歌山侯に仕う
出典1:『国史大辞典1』、700頁、吉川弘文館編刊、昭和54年3月1日
出展2:『福山学生会雑誌(第53号)』、附1、「伊藤梅宇先生履歴」、伊藤顧也寄、福山学生会事務所編刊、大正7年7月3日
2005年3月24日更新:出典●2006年2月24日更新:経歴●2006年6月15日更新:タイトル●2007年5月11日更新:経歴●2008年1月10日更新:本文●2010年3月25日更新:本文・出典●2012年1月19日更新:本文・出典●2012年2月1日更新:経歴・本文●