福山阿部藩
藩主
誠之館
先賢
福山藩
関係者
誠之館
歴代校長
誠之館
教師
誠之館
出身者
誠之館と
交流した人々
誠之館所蔵品
関係者
誠之館同窓会
歴代役員
井手訶六
いで・かろく
作 家
井手訶六
生:明治31年(1898年)6月20日、岡山県倉敷市玉島西浦生まれ
没:昭和3年(1928年)3月29日午前1時、享年30歳
明治35年(1902年)11月 4歳 姉琴野死亡
明治35年(1902年)〜
 明治36年(1903年)ごろ
4〜
5歳
父杏平、愛人をつれてウラジオストックに渡る
この後10数年間満州、朝鮮を放浪
明治38年(1905年)4月 6歳 第六玉島尋常小学校へ入学
明治42年(1909年)3月 10歳 第六玉島尋常小学校卒業
明治42年(1909年)4月 10歳 この年より6年制となった八幡小学校に入学
生活が困窮のため叔父を頼って香川県三豊郡に移る
明治44年(1911年) 12歳 叔父が職を失い、母と叔父は備前田の口へ
訶六は遠縁に引取られ故郷に帰り高等小学校へ入学
明治45年(1912年) 14歳 小学校卒業後、福山市胡町の紙問屋・青景要七氏(市議)の養子となる
大正2年(1913年)4月 14歳 誠之館中学へ首席で入学する
大正2年(1913年) 15歳 クラス代表で弁論大会に出場
大正2年(1913年) 15歳 誠之会誌に『信用』を掲載
大正3年(1914年) 16歳 誠之会誌に『余が将来の希望』を掲載
大正5年(1916年)1月29日 17歳 父杏平、愛人のもとで病没
大正5年(1916年)2月 17歳 誠之会誌に『蘆田河畔に逍遥ひて』掲載
大正5年(1916年)7月 18歳 福山中学退学、玉島の母の元へ帰る
大正5年(1916年)9月14日 18歳 金光中学へ入学
大正6年(1916年)2月8日 18歳 結核発病
大正6年(1917年)5月18日〜
 大正6年(1917年)12月2日
18〜
19歳
入院、この頃尼ケ崎市金楽寺に住む
大正6年(1917年)9月13日 19歳 肺結核で金光中学を中退
大正7年(1918年)11月 20歳 兄正一死亡
大正7年(1918年)ごろ 20歳ごろ 玉島に帰り、宝亀山観音庵に住む
大正8年(1919年)12月23日 21歳 「落日讃」が朝日新聞懸賞小説で選外佳作となる
この頃、生家の離れに帰り住む
大正10年(1921年) 23歳 山陽新報に翻訳小説掲載
大正10年(1921年)12月16日 23歳 「霹靂(へきれき)」が朝日新聞懸賞小説で一等入選となる
大正11年(1922年)1月1日〜
 大正11年(1922年)6月30日
23〜
24歳
「霹靂」が「新しき生へ」に改題されて朝日新聞に連載
大正12年(1923年)7月1日 25歳 朝日新聞社より「新しき生へ」出版
大正12年(1923年)7月25日 25歳 盛文館より「新しき生へ」出版
大正12年(1923年)8月31日 25歳 「新しき生へ」、松竹で映画化(全6巻)、監督牛原虚彦
大正13年(1924年)6月17日〜
 大正13年(1924年)12月21日
25〜
26歳
朝日新聞に『炬を翳す人々』連載
大正14年(1925年)10月5日 27歳 福永書店より『炬(ひ)を翳(かざ)す人々』出版
大正15年(1926年)1月1日〜
 大正15年(1926年)12月
27〜
28歳
主婦の友へ『十字路の乙女』連載
昭和2年(1927年) 28歳 関西文芸へ短編小説『西瓜』発表
昭和2年(1927年) 28歳 乙女の園誌へ『富士ちゃんの記念』を発表
昭和2年(1927年)3月 28歳 文芸公論に『長篇と短篇』発表
昭和3年(1928年)1月1日 29歳 山陽新報へ『犠牲』発表
昭和3年(1928年)1月 29歳 文芸公論に『反普及的芸術の自滅』を発表
昭和3年(1928年)3月29日午前1時 29歳 流行性感冒のため急逝
昭和3年(1928年)10月 盛文館より『十字路の乙女』発刊
昭和12年(1937年)9月 「汎岡山」9号に『新しき生へ』紹介される
昭和18年(1943年)8月 「吉備歌壇史考」(湯本喜作著)に『炬を翳す人々』連載中の訶六の消息が紹介される
昭和25年(1950年)12月1日 山陽新聞に永瀬清子氏が「回想の一節」として訶六を紹介
昭和26年(1951年)1月15日 玉島小学校PTA新聞に「玉島人物誌」として訶六の生涯が紹介されている
昭和33年(1958年)1月29日 NHK岡山にて郷土史を飾る人々のシリーズ中で「井手訶六」が紹介される
昭和33年(1958年) 「高梁川」7号、8号に高梁川人物伝として、「井手訶六」が取り上げられる
昭和35年(1960年)2月2日 山陽新聞文化サロン欄に、西尾政次氏の「井手訶六の追憶」掲載
昭和43年(1968年)9月 湯本喜作氏「留年の記」の中で訶六と『炬(ひ)を翳(かざ)す人々』を紹介
 岡山県浅口郡玉島(現倉敷市玉島)の生まれ、井手鐵處の弟である。
 父は県会議員をつとめたリ、地方銀行の頭取にもなった名土だったが、放埒な生活のすえ没落。一家は離散し、父は再起をはかって朝鮮半島へ渡った。訶六は福山市会議員の某家へ養子となって、誠之館中学へ進み、各学年とも首席で通すほどの秀才ぶりであったが、のちには井手家へ戻り、金光中学へ転校する。文章を書くのが好きで、誠之館4年生の時、数百ぺージの日本歴史を書いて教師をおどろかしたという。大正6年(1917年)、肺結核で金光中学を中退。
 大正8年(1919年)には「落日讃」と題する作品を朝日新聞懸賞小説に応募して選外佳作まで行く。翌々大正10年(1921年)、再び同懸賞に「霹靂
(へきれき)」を送ってついに一等入選となった(新聞連載の時は「新しき生へ」と改題)。おりからの大正デモクラシーの潮流にのって新しい杜会をめざす青年像をえがいて好評、続いて「炬(ひ)を翳す(かざす)人々」「十宇路の乙女」と長篇2本を発表したが、流行性感冒で病没。長篇作家誕生を期待されたが、今やどんな文学事典にもその名を見出せないのは淋しい。   (出典1)
 高梁川人物伝7 作家 井手 訶六
       
        花田 一重(玉島市文化財委員)

 作家井手訶六の墓碑は、その誕生地−玉島市勇崎西浜(中藤山)の井手氏墓地にある。全長五尺七寸の花崗岩製、台石にはさがり藤の紋章が彫ってある。文字は肉細なきれいな楷行書である。その銘文は、
 井手訶六之墓(正面西向き)
 樹徳院文雄義敬居士(向って左)

 水島灘に面したる郷土の自然美を愛し、普く是を天下に紹介したる文人井手訶六氏の霊魂安かに爰(ここ)眠れり。春秋僅に三十。(呼び年三十一)志業央にして早世甚だ憾(うら)むべきも、江湖の賞讃措く能はざりし「新しき生へ」「炬を翳す人々(ひを・かざす・ひとびと)」「十字路の乙女」等の三名作により、其名は永遠に不滅なるべし。
 昭和九年三月廿九日井手氏の七回忌に当りて、友人内海景普誌(右)

 
また「大人名事典」第1巻(昭和28年、平凡社刊)に、
 
イデカロク 井手謌六(訶六の誤)(1899−1928)
 大正時代の小説家。明治三十二年四月(明治三十一年六月の誤)岡山県玉島町に生る。幼時父に生別し一家離散す。金光中学中途退学病褥に在りながら専ら文学に親しみ、大正十年(1921年)二十六歳の時(大正八年(1919年)二十二歳の時の誤)朝日新聞懸賞長編小説「新らしき生へ」一等当選す。他に「炬火(炬の誤)を翳す人々」などの作がある。昭和三年(1928年)三月廿九日歿、年三十。(鎌田敬)

 「大人名事典」には誤が多いが、これで井手訶六が全国的な作家であったことはわかる。その井手訶六につき私が調査したところを頁数の許すところまで書いて見よう。

 中塚正斉著「海嘯懲要録
(かいしゅく・ちょうひ・ようろく)」(明治21年刊)(ちょうひは、懲りて慎む意)に、
「明治十七年(1884年)八月廿五日不慮の海嘯・・・・・・(浅口郡勇崎村)此夜潮水より高さ一丈余なり。・・・・・・各戸家財を提げ高処に運搬するあり、或は老幼を携へ、東西に奔走するあり。愁苦泣号の声四方に達す。・・・・・・流失棟数八十九、破壊棟数百九十五。死亡者二十一人、内男七人、女十四人。負傷者八人、内男三人、女五人。流失船舶二十四艘。荒地、田畑反別百八町三反四歩、塩田二十町二反五畝二十一歩」
と。
 勇崎字西浦の油屋が井手訶六の生家である。その分家の角油屋---井手満喜代刀自に聞くと
「津浪の時には本家の井手杏平(訶六の父)が夜中に飛んで来て戸をたたき
『おい、起きんか。潮はそこまで来とるぞ。』
と言う。それからみんな起きて中藤山へ逃げた。あとは家がすっかりつかって、丁度虫干しをして部屋一ぱいにひろげていた書画もだめになってしまいました。本家にも中藤山にのがれ、塩田を流してしまいました。」

との話。
 井手杏平は三蔵の長男で、田地約10町、塩田約2町の地主で、津浪の被害も漸次取りもどし旦那暮らしをしていた。浅口郡柏島村(現玉島市の内)と勇崎村は明治22年(1889年)第2回の合併をして柏崎村と称し、村会議員井手杏平は柏崎村長に挙げられた。そして明治24年(1891年)4月には補選で県会議員となり、翌年2月には第7回半数改選で続け、明治29年(1896年)2月に満期となった。杏平は農塩の外、甕江銀行頭取、玉島取引所理事長となり飛ぶ鳥も落す勢で、玉島へ行くには必ず當づけの人力車に乗り黒土は踏まぬぞというところ。
 その妻多賀は勇崎中藤又三郎の長女で、中藤敬三の妹で、昼過ぎには玉島松濤園、後には旭軒の名菓を取寄せて煎茶を喫した。中藤は大谷(金光町)の河手与十郎、早島の大溝手などと親族であった。


 井手訶六とは、玉島高女松岡佐平校長の時、「玉島人物誌」を編集のため、』資料として中藤子元
(なかとう・しげん)の事を知りたくて、私は1度逢い、2度お手紙を頂いたことがある。
 その第一信に
「B、小生の母は敬吉の妹ですから、つまり子元の玄孫にあたります。」
第二信(昭和2年(1927年)6月25日)に、
「二『浅口郡誌』に見ゆる子元伝中
『・・・・・・幼にして父を喪ひ、父祖の業(天領勇崎村庄屋)を継ぎしに、同僚会合の席長老某に侮蔑せられて憤然京師に遊学し那波魯堂の門に入り云々』
と見えていますが、あの一条は全然誤りでありますから、御編纂の際には可然御訂正を願わねばなりません。その理由は別封でお目にかけた系図上の位置の処をご参照下さればわかりますが、子元は清房より三年早く世を去っております。子元は病気で常に薬餌にしたしんでいましたため、老父を遺して自分の方が先に世を去って居ります。年代記をお繰り下さればすぐわかります。
三、猶、前第四(小学)校長木口源三郎氏は、子元については大分くわしくしらべて居られます。真蹟も持って居られます。念のために申し添えておきます。」

 井手訶六は玉島市役所所蔵「自昭和四年至同八年、除籍簿」にある通り、父杏平、母多加の三男で、明治31年(1898年)6月20日生である。「父井手杏平、母妹尾豊、庶子男、晋太郎」という様に庶子は庶子と明記してある。
 不幸父杏平は倒産し朝鮮に渡って再挙を計り、家屋敷は人手に渡り、僅かに離れの一棟を残して、残る一家の者の住いとした。金光町占見の唐川フジ夫人の談によれば、土塀をこわし瓦を車で運び出したのを6才になった訶あちゃんが見ると、母のもとに走り
「お母さん、よその者が瓦を持っていんでいる」
と告げたので、母は眼に涙を一ぱいためて
「もうあの家も瓦もうちの物ではないのよ。」
と言ってなっとくさせた。

 訶六が何小学校出身かということを確かめようと玉島市立八幡小学校を訪い、急いで除籍簿を見て不明。翌朝同校山本邦夫教諭から
「明治44年(1911年)第六玉島尋常小学校(現八幡小学校)卒業。小学時代は一見おとなしく、才気の仄
(ほの)めいた人柄で、成績は群を抜いたとの事、当時の学友山本留一氏より」
との御返事を頂いた。
木口氏談に、中塚一碧楼生家の中塚美つ子夫人も
「おとなしく、よく出来ていた」
と言っておられたと。
 玉島尋常高等小学校出身者で、井手は玉島の高等科で学んだという人があったので市立玉島小学校で除籍簿を調べたが見当らず、当時の出身者中藤広次氏は
「井手はいなかった」
と言って居られた。初め広島県立福山誠之館中学校へ大正2年(1913年)4月、16才の時入学したことになるから、其間ちょっと空白であったことになります。訶六がなぜ福山の中学校に入学したかという事は、当時の国語の先生で福山市桜馬場町
田中廉三氏から
「井手訶六君は福山市胡町青景要七氏(元市議)の養子。秀才で各学年殆ど一番で通していました。私は青景氏と懇意でしたから、訶六君は夏休みには神島の海水浴へつれて行ったり、随分可愛がりました。二三年の頃私の子供と一緒に外浦の海水浴にまいりました。」
という御返事を頂いてよくわかった。
 当時福中は
田村喜作校長でした。「誠之館沿革史」によれば、福山十一万石の城主阿部正弘侯は、25才にして抜擢されて幕府の老中となり、次いで老中筆頭に進み、当時諸侯の大半が鎖国攘夷を主張せる時、国家百年の大計を樹てて、和親条約を締結された名君である。その正弘侯は当時文武両道を教えた藩校を誠之館と改称したのであった。そして其校名を継承したのが此中学校であった。日々仰ぐ福山城は葦陽城として、校歌にも歌われていた。曲は「ああ玉盃」のメロディを借りて、
 あはれ天地の正大気  秀麗ここに鐘まれる
 葦陽城下の我が校は  良徳公の創設に
 烈公なづけし誠之館   語りて光栄の歴史あり

 大正5年(1916年)の秋、訶六4学年の時、金光中学校に転学前、数百頁の「日本歴史」稿を成し、歴史の先生を驚かした。(つづく)
   (出典2)
 高梁川人物伝7 作家 井手 訶六(二)
       
        花田 一重(玉島市文化財委員)

 井手訶六の父は県会議員で、岡山へしばしば行っている間に二号ができ、岡山と郷里と両方に世帯をを持ったが、借財がかさみ、再挙を計って多分二号を連れて朝鮮へ渡り、やがて内地に帰り、岡山女子師範在学中の4女近野さんを訪ねたが、そのわびしい後姿はまた事業の失敗を思わせた。近野さんも文才があった。父は大正5年(1916年)1月29日に、兵庫県川辺郡尼崎町の内大洲で61才で病歿し、葬儀は玉島町勇崎の郷里で行われた。お寺は玉島の円通禪寺であった。なんでも同家はもと天台宗某寺の檀家であったが、父が近親死亡の時の法名が俗っぽくて気に入らぬと言って、円通寺の檀家に変ったのであったと。
 円通寺のことは、訶六が大正13年(1924年)大阪朝日新聞に連載の「炬(ひ)を翳す(かざす)人々」に「禪宗曹洞派に属するかなり名を知られた古刹で境内も広く、緋楓の植込が殊に多かった。」「祥月命日の御追福だけはこの戒全が及ばずながら欠かさず勤めて居ります。」などと出ている。そして円通寺に良寛碑を建てたのもこの住職石井戒全の時代のことであった。
 亡父の葬儀に尼が崎生れのお嬢さんが会葬しようと来たので訶六は「同じお父さんの子じゃないか。」と言ったが、母はその娘を葬儀に列席させなかったそうである。悪い事ばかり言ったようだが、木口源三郎氏の談によれば、父は県会議員当時勇崎−小原間の堤防が低くて激浪に安全で無かったので、その骨折りで石2本通り高くなったと。訶六の創作「炬を翳す人々」のヒーロー史郎には訶六自身をもモデルとした一線が浮き出ている。
 「彼の父の心には、まだ村人と同列に並べられたくないという希望があった。彼は生まれつき過去の殻を背負った男であった。外に対面を考へる結果、内では益々人並のくらしが保てないようになった。史郎が13の年一家の生活はハタと行き詰った。けれども父は別に革新を計ろうともしなかった。彼の意思はやはり過去の制御を受けていた。現在の地位を去らずに苦境を切抜けようとした。その矛盾が思いがけなく影響を史郎の身に及ぼした。
 史郎は間もなく十里ばかり離れたF市へ子に遣られた。養家の主人というのが、他人には歯医者のように馴れ馴れしいのに、彼に対しては無暗と厳格に振舞った。それは、儒学の素養から出た固陋な倫理観の為めであったが、反対に史郎は人一倍自由な、奔放な情熱を恵まれて居た。その性格上の相違が遂に悲劇を生んで、彼は4年の後飄然養家を去った。然しその間の不快な生活の印象と事件とが、悉く後年彼の特異な性格を築き上げる動機となったのであった。そうして、彼が再び故郷に舞い戻った年、父は糖尿病でさびしく死んだ。父の死後母は墓参を唯一の仕事にして日を送っていたが、1年の後やはり良人の後を追った。」
 訶六の母多加(戸籍は多加、墓は多賀)は昭和12年(1937年)10月4日享年78で没したのだから、訶六の歿後亡くなったのだ。これは小説だから全く事実と一致するというわけでも無い。
 井手訶六作「十字路の乙女」は大正15年(1926年)「主婦の友」で人気を沸きたたせた連載小説であった。訶六当時の福山誠之館中学校の国語の先生
田中廉三氏から「”十字路の乙女”では面白き余談があります。」とのお手紙が来たので、福山市桜馬場町の桜荘に同氏を訪ねた。その四畳半には沈丁花が香っていた。これは同氏がアルバムを見せながらの話で、終のところは今入院中の私の娘から聞いた話だと言われる。
 当時福山に評判の美しい栄さんという女学生がいて恋文を送る者もあった。その娘は名著を残した学者の弟の孫娘で、その家と田中氏とは懇意であったが、或る日栄さんが田中氏へ「先生、誠之館の生徒がこれをくれましたが、どうしましょう。」と言ったので、とって見るとそれが井手訶六のつけた恋文であった。その頃誠之館中学校は某校長の厳罰主義で、これが表沙汰になったら一番の優等生も忽ち退学になるので「これはわしがもらう。何も言うな。」と言って帰したのであった。それから何年かの後に、栄さんは大阪の父母のもとで、さる薬剤師を婿養子に迎えたが、不幸夫が亡くなり、福山へ休みに来た時、田中氏の多美子夫人(故人)が気をきかし「訶六さんが郷里に帰り、長い間病気だそうです。あなたは御主人が亡くなられ、お子さんもあるのだから差支えないでしょう。一度訶六さんをお見舞いに行かれたら喜ばれるでしょう。」と多美子夫人同伴で玉島町勇崎のおうちへお見舞いに行ったことがあったと。このイメージが「十字路の乙女」を画かせたのだ。
 話は誠之館4年の時にかえり、訶六は問題を起し、学友達はいたく同情して某先生のうちを訪ねて歎願したが、当時の厳罰主義はあたら一番の訶六を退学処分にしてしまったのであった。訶六の養父某は市会議員で市政の三羽烏の一人であり、某家は紙の卸小売をして奥さんはお上手な人であり、夫共共訶六を可愛がったが、生みの子を持たない親には愛情の底に何かひやっとするものがあった。千里を飛ぶ秀才訶六も無惨や羽根をむしられて養家からは離縁され、涙をふきふき、福山城を後にして雨の中を上り列車に乗り、金光駅で下車して再びわが生家に帰ったのであった。
 田中先生は退学になった者も転校に骨を折り、其中には大学を出て相当の人物になった者などもあり、皆かなり成功していたに、ここは養父母の力の入れ方が足らなかった。訶六が出たあと、養子となった某氏は京大経済科だが、共産党のシンパとなったので、或る人が養父に頼まれて「家を継ぐなら共産党をやめよ。共産党をやるんなら此家を出なさい。」と諫めたこともあった。この養子は若くて亡くなった。
 大阪朝日新聞懸賞小説当選−−井手訶六作「新しき生へ」が連載されたのは、大正11年(1922年)1月1日から同大正11年6月22日までであった(朝日新聞大阪本社回答)。すでに作家となってからの訶六のうちへ、11、2才ぐらいの女の子が数人よく遊びに来ていたが「おじさん、昨夜(黒崎の)旭座でおじさんの小説の映画があったよ。」と言うと「なぜ昨日教えてくれなかった。」と言った。それは松竹映画「新しき生へ」で安原信一氏は「私は岡山クラブで見たのだが、それは鎌倉あたりでロケーションをしたものらしかった。女の方は三村千代子だったがもしも栗原すみ子、五月信子、川田芳子などだったらよかったにと思うた。」と。また「屋守あたりの様なところを牧夫(モデルは訶六)と大きな風呂敷包を持ったお母さんとが帰って来るところだけ今に覚えている。」と言う人もあった。また数人の女の子の一人唐川フジさんは「福山から雨の降る中を帰って風をひきこんだのが病気のもとだったと話したことがあった。」と語った。
   (出典3)
信用          一甲 井手訶六
 人をして社会に生存する上に於て最も必要なるものの一は信用なり。人にして約束を違へ虚言を吐き或は表裏の行をなすこと唯一度のみにてもあらんか社会より擯斥
(ひんせき)せられ事業を経営するを得ずして終には産を破り住み馴れし祖先の地を後にし大海に漂ふ木葉の如く處定めず流浪せざるを得ざる悲運に陥り今更に事業を企図せんと欲して得ず困窮身に迫りて遂に身をおく所なきに至らん。
彼の犯罪人の如きも最初より悪人として生れたる非ずして多くは不信用に起因するもの多しとか聞くかかる肝要なる信用を己が身に得んとするには正直を守らざる可からず。殊は信用は商業社会に最も必要なるものにして実に生命ともいふべきものなり。一人之を守らざるものあらんか時間を浪費し手数を要し敏活なるべきも迂遠になり簡易なるべきも複雑となりてその迷惑云ふべからず。延いて国家の体面を汚し国運の隆盛を妨ぐるに至る慎まざるべけんや。
   (出典4)
余が将来の希望          二甲 井手訶六
 陣頭に立ちて三軍を指揮し、廟堂に入りて国政に参与す、日本男兒の本領たるに背かず。花鳥風月に嘯(うそぶ)き吟懐を遣る、亦風流才子の邪懐たるを失はず、然れども賦性各異る所あり、徒に虎を描かんとせば所謂猫に類するの嗤(わらい)を受けん、予や不才にして相將の任に値せず、粗野にして風流の味を解せず、相將の任風流の美は挙げて之を他の諸君に委し唯父祖伝来の業を継ぎ鋤犁(じょれい・じょり、すきのこと)を執って南畝に耕さんのみ。唯期せよ、他日一旦緩急あり、諸君の三軍を指揮し、国政に参与し、或は国風を謳歌するの際にあたり、西海の邊陬より起って、其費を捧ぐる大地主の出づる事を。   (出典5)
 井手訶六文学碑

 井手家の菩提寺・円通寺近辺の円通寺公園に、井手訶六の文学碑があるそうだ。碑には、以下のように書かれている。

「美も善も真も
 その源をたずぬれば
 同じく愛である
     井手訶六
    小説 新しき生へ より」

 その案内板には以下の解説がある。


「 井手訶六文学碑案内
人類が根源的な愛によって統一される究極の
理想を思いえがきつつ病苦と家庭的不幸の
ただ中から小説「新しき生へ」を創作
天下に発表したのは井手訶六が二十四才
大阪朝日新聞紙上であった。懸賞小説当選者
としての彼の文名は言うに及ばず郷土水島灘
の美しい風光があまねく知られることになっ
たのである。苦闘は苦闘からのがれるためで
あり、今日の不合理に甘んじているのは、明
日の真理へ達せんがための準備であるとした
彼の作家精神は、その後発表した小説「炬を
翳す人々」「十字路の乙女」にも貫かれている。
彗星の如くその若く美しい光芒を放って
消えた郷土作家井手訶六は永く私達の胸に
記憶されることであろう。彼は明治三十一年
に生れ昭和三年、玉島勇崎西浦の生家で、
三十才の短い生涯を孤独のうちに病歿した。
                   玉島文化教会」
  情報提供:岡山県・長谷川たかゆき氏
主要作品 発 行 日 発 行 所 注   記
『落日讃』 大正8年(1919年)12月23日 朝日新聞懸賞小説で選外佳作
『新しき生へ』 大正12年(1923年)7月1日 朝日新聞社
『新しき生へ』 大正12年(1923年)7月25日 盛文館
『新しき生へ』 大正12年(1923年)8月31日 松竹で映画化(全6巻)、監督牛原虚彦
『炬を翳す人々』 大正14年(1925年)10月5日 福永書店
『十宇路の乙女』 昭和3年(1928年)10月 盛文館
出典1:『(福山誠之館高等学校図書館所蔵本)』、玉島文化協会刊、昭和51年11月10日
出典2:『高梁川(#6)』、22頁、「作家井手訶六」、花田一重、昭和33年4月1日
出典3:『高梁川(#7)』、25頁、「作家井手訶六」、花田一重、昭和33年11月1日
出典4:『誠之(第19号)』、44頁、「信用」、井手訶六、福山中学校校友会刊、大正3年3月
出典5:『誠之(第20号)』、12頁、「余が将来の希望」、福山中学校校友会刊、大正4年4月15日
2005年5月20日更新:本文、出典●2006年6月9日更新:タイトル●2008年1月9日更新:経歴、本文●2008年2月18日更新:本文●