福山阿部藩
藩主
誠之館
先賢
福山藩
関係者
誠之館
歴代校長
誠之館
教師
誠之館
出身者
誠之館と
交流した人々
誠之館所蔵品
関係者
誠之館同窓会
歴代役員
井出猪之助
いで・いのすけ
福山藩士、誠之館教諭
井出猪之助 (出典1)


経 歴
生:弘化3年(1846年)5月17日、江戸本郷丸山の藩邸内生まれ
没:大正4年(1915年)8月10日 福山東町、享年70歳
弘化3年(1846年)5月17日 江戸本郷の丸山藩邸内に生まれる
嘉永7年(1854年)正月15日〜
 慶応3年(1867年)11月15日
7〜
21歳
藩校福山誠之館において、皇漢学及び習字、柔術、槍術を修業
安政4年(1857年) 11歳 藩儒より漢学を学び始める
元治元年(1864年) 18歳 藩校誠之館助教
慶応2年(1866年) 20歳 井出氏を名乗る
明治元年(1868年)正月15日〜
 明治2年(1869年)6月3日
21〜
23歳
藩校福山誠之館において、英語、数学の修業
明治元年(1868年)2月 21歳 脱藩し上野・寛永寺で徳川慶喜を護衛する
明治元年(1868年)6月 22歳 福山に帰され閉門謹慎となる
明治元年(1868年)10月 22歳 箱館戦に加わる
明治2年(1869年)6月 23歳 東京へ凱旋する
明治2年(1868年)7月10日 23歳 大学南校に入学し英学、数学を修業する
明治4年(1871年)6月6日 25歳 大学南校を卒業、帰福して誠之館英語中助教となる
明治5年(1871年)1月 25歳 再び英学修業のため上京し、慶應義塾に入学する
明治5年(1871年)3月 25歳 燈台寮雇
明治5年(1871年)9月1日 26歳 官立東京師範学校の上等生となり、アメリカ人スコット氏について修業
明治6年(1872年)5月23日 27歳 官立東京師範学校舎中監事
明治6年(1872年)7月8日 27歳 官立東京師範学校を卒業
明治6年(1872年)8月4日 27歳 文部省より官立大阪師範学校本科教師
明治6年(1872年)11月24日 27歳 文部省より官立大阪師範学校本科教師兼舎中監事
明治7年(1873年)3月23日 27歳 文部省より官立大阪師範学校二等訓導
明治8年(1874年)2月19日 28歳 境県二等訓導、堺県河泉学校
明治10年(1876年)6月23日 31歳 堺県一等訓導
明治11年(1877年)3月16日 31歳 堺県七等教授
明治14年(1881年)8月29日 35歳 府立奈良師範学校校長兼教員
明治19年(1886年)2月20日 39歳 府立大阪師範学校校長
明治20年(1887年)4月10日 40歳 府立吉野尋常中学校校長
明治26年(1893年)9月30日 47歳 府立吉野尋常中学校が廃校となり辞職
明治28年(1895年)4月29日 48歳 岐阜県尋常中学校教授
明治28年(1895年)7月8日 49歳 岐阜県尋常中学校教授兼舎監
明治29年(1896年)5月28日〜
 明治37年(1904年)3月30日
49〜
57歳
広島県福山尋常中学校(誠之館)教諭
明治37年(1904年)4月1日 57歳 私立福山高等女学校校長
明治37年(1904年)4月22日〜
 大正元年(1912年)年8月24日
57〜
66歳
広島県立福山中学校(誠之館)嘱託
大正4年(1915年)8月10日 69歳 没:福山東町、享年70歳


生い立ちと学業、業績
 井出猪之助教諭−維新脱藩の青年藩士

井出猪之助氏は、弘化3年(1846年)5月17日、江戸本郷丸山の藩邸内で、父秋月鉄蔵(忠善)の二男として生まれた。

安政4年(1857年)、12才の時から、藩儒について漢学を学び、江戸誠之館の文学試験につぎつぎと及第し、元治元年(1864年)、誠之館助教を拝命した。
一方武術は無極無辺流槍術を学んで、その印可を伝授されるまでになった。

慶応2年(1866年)、旧藩主
阿部正寧の生母井出氏の名跡をついで井出氏を名乗り25俵二人扶持を給せられることになった。
明治元年(1868年)2月、鳥羽伏見の戦いに破れて東帰した徳川慶喜は、上野の東叡山寛永寺に恭順謹慎することとなった。
この時井出氏は、福山藩の青年藩士24名とともに脱藩し、氏名を菊池忠英とかえ、同志一同山岡鉄舟をたよって上野に至り、藩主阿部候に代わって慶喜公を守護し徳川家の恩に報ぜんことを申し出た。
鉄舟はその志をほめ、彼らを精英隊に編入して寛永寺大樹院に入れ、寺内を巡邏することを許した。
4月、慶喜は水戸に移ったが、井出氏らはこれに従うことを許されず、藩命によって藩邸に召し帰され、明治元年(1868年)6月福山に帰された。
福山に於て閉門謹慎中のところ、重役から、福山藩の箱館出兵の勢に加わり、功を立て、罪をつぐなうよう命ぜられた。

箱館戦は明治2年(1869年)5月、旧幕軍の降伏をもって終り、福山兵は品川に立ち寄った後福山に凱旋したが、彼はひとり東京に留まり、英学修業のため7月10日大学南校に入学した。
英語・数学を学ぶこと2年、明治4年(1871年)6月6日卒業して帰福し、誠之館の英語中助教を拝命し月俸2貫5百目を給せられた。

半年後の明治5年(1872年)1月、英学修業のため再度上京して慶應義塾に入学するとともに、3月から燈台寮雇となった。
その年の9月1日、官立東京師範学校(のちの高等師範学校)の上等生を命ぜられ、月給10円を支給された。
学ぶこと10ヶ月、明治6年(1873年)7月8日同校を卒業。

その後、官立大阪師範学校・堺県河泉学校・奈良師範学校長(36才)・府立大阪師範学校長(41才)・県立吉野尋常中学校長(42才)・岐阜尋常中学校教諭(50才)を歴任したのち、明治29年(1896年)5月28日、福山尋常中学校(誠之館)教諭として母校に帰った。
時に51才。
漢文・倫理あるいは歴史を教授した。
明治37年(1904年)3月30日、一たん教諭を免ぜられた。
これは、4月1日から私立福山高等女学校(明治32年、高橋秀太氏が創設した各種学校「女徳会」の後身)の校長に迎えられたためである。
その後、嘱託教師としてふたたび広島県立福山中学校(誠之館)の教壇に立った後、大正元年(1912年)年8月24日、教職を辞した。

3年後の大正4年(1915年)8月10日、本貫の地、福山東町の自宅で70年の生涯を終えた。
氏の履歴を見れば、幕末動乱の時期をみずから体験し、維新後、教育者に転進した一士族の足跡をたどることができる。
   (出典2)


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氏 名 名  称 制作/発行 日 付 コメント
井出猪之助 著 『小学地理問答』 文敬堂 明治7年
井出猪之助 著 『萬国地誌略』 竜草堂 明治9年
井出猪之助 校正 『博物教授法』 明治9年 井出の校正は巻之三のみ


「井出氏」の表記は、井出や井手があり混乱している。ここでは井出氏の末裔であられる井出光太郎氏のご教示により、すべて「井出」とした。
出典1:井出光太郎氏
出典2:『誠之館百三十年史(上巻)』、256・495・506・527・557・620・739・806・820頁、福山誠之館同窓会編刊、昭和63年12月1日
2005年7月19日更新:レイアウト●2006年6月15日更新:タイトル●2008年1月9日更新:経歴・本文●2010年5月6日更新:本文●