福山阿部藩
藩主
誠之館
先賢
福山藩
関係者
誠之館
歴代校長
誠之館
教師
誠之館
出身者
誠之館と
交流した人々
誠之館所蔵品
関係者
誠之館同窓会
歴代役員
挟間茂
旧名
三谷茂
はざま・しげる みたに・しげる
茨城県知事、内務省次官、日本住宅公団総裁
挟間茂


経 歴
生:明治26年(1893年)3月24日
没:昭和62年(1987年)12月3日、享年95歳、多磨霊園に葬る
明治44年(1911年) 19歳 広島県立福山中学校(誠之館)卒業
第六高等学校卒業
大正8年(1919年) 27歳 東京帝国大学法科英法科卒業
大正8年(1919年) 27歳 内務省採用、地方局勤務
大正8年(1919年) 27歳 文官高等試験に合格
和歌山県・神奈川県理事官
内務省参事官
内務大臣秘書官 大臣官房文書課長
社会局社会部長兼中央職業紹介事務局長
昭和11年(1936年) 44歳 内務省衛生局長
昭和13年(1938年)1月11日〜
 昭和14年(1939年)1月11日
46〜
47歳
茨城県知事(第38代)
昭和14年(1939年) 47歳 内務省次官
昭和15年(1940年) 48歳 内務省退職
昭和15年(1940年)7月22日 48歳 第二次近衛内閣の内務次官
日本宣伝協会会長
大政翼賛会組織局長
昭和19年(1944年) 52歳 日本出版会会長
終戦後 公職追放
昭和34年(1959年)6月6日〜
 昭和40年(1965年)7月31日
67〜
73歳
日本住宅公団総裁(第2代)
昭和40年(1965年)11月3日 73歳 勲一等瑞宝章
昭和40年(1965年) 73歳 従三位
福山誠之館東京同窓会顧問
昭和54年(1979年)11月〜
 昭和62年(1987年)
87〜
95歳
誠之舎理事長
日本図書教材協会会長
図書教材研究センター理事長


挟間茂 茨城県知事 『日本の歴代知事(第1巻)』
昭和55年7月15日
挟間茂が茨城県知事に就任した年は、6月、9月に大雨が降り洪水、農作物の減収ばかりか耕地の損潰など甚大な被害を受け、中小企業も統制、時局の影響で経営上、幾多の困難に直面、わずか一部地方で軍需産業の飛躍で活況という情勢だった。
このため“血の通った県政”を志向した茂は、相変わらずの財政硬直(義務費は県税総額の実に6割3分を占めていた)の中で、時局の社会情勢に即応させるため“増税”を避けながら規定経費の一大節減、税外収入によってまかなう方針を決めた。

この時茂が唱えた基本方針は、
@銃後における生産力の拡充ならびに物的資源の開発、人的資源の培養
A農山漁村振興に関する施設
B時局による平和産業への対策、ならびに労務調査、など6項目。
なおこの年の大洪水に対する災害復旧に茂が傾けた熱意はなみなみならぬものがあり、今日でも高く評価されている。
   (出典1)


水害復旧に県会からも感謝された挟間茂(茨城県知事・第39代)
『茨城県政と歴代知事---戦前45名の人物像---』
森田美比、暁印書館刊、平成3年1月20日
林(第38代知事)の後任は内務省衛生局長挟間茂であった。
内務省の局長から知事の就任は、明治36年、寺原長輝警保局長以来、35年ぶりのことであった。

挟間は、明治26年岡山県生まれ
(ママ)
大正8年東京帝国大学法科大学を卒業し、文官高等試験に合格した。
高等学校(六高)、東大ともに特待生で、大学では商学研究のため研究室に残るよう勧められたりした。
希望どおり内務省地方局に入り、和歌山・神奈川の理事官を経て、大臣官房人事課長、社会局社会部長兼職業紹介事務局長等を歴任して、昭和11年広田内閣の潮恵之助内相のとき衛生局長に抜擢された。
知事の経験なくして局長就任は、挟間が初めてであり、厚生省の新設には寝食を忘れて奔走した。
資性温厚、頭脳明晰は省内随一といわれた。
次官コースにある新知事を迎えて「その卓越せる頭脳と豊富なる識見」に『いはらき』(昭和13年1月10日)が期待したのも無理はない。

挟間が発令になって5日後に政府は、「爾後国民政府を対手とせず」と声明した。
シナ事変は新しい段階に入ったのである。
それゆえ、彼は、水戸へ赴任の車中で、銃後施設の充実は、これから本格的になると語った。
間もなく戦時体制の根幹である国家総動員法が公布された。
政府は、この法律によって物資動員計画を立て、軍需品の確保を重点としたため、国民生活に必要な消費物資は次第に減少した。
綿製品に代ってスフ(ステープルファイバーの略)、人絹、金属製品に代って竹製、木製、陶製品が作られ、これらは代用品と呼ばれた。
一方、政党、会派は勢力が弱まり、「難治県」は影をひそめて「挙国一致」に彩られて行った。

それに輪をかけたのが未曽有の水害である。
後年挟間が、
「私は知事時代にも、いわゆる中央政党からの注文なんて一つもありませんでした。
勿論県会には分野があって、憲政クラブ、政友クラブ、社会党(いずれも表現は正確ではない---引用者)というように分れておりましたが、幸か不幸か大水害復興計画が県政上の最大課題であったので、いわゆる挙県一致で県政を進めることが出来ました」
と語っているごとくである(内政史研究会『挟間茂氏談話速記録』昭和40年〜41年)。

6月末から7月初めにかけて、連続4日間の水戸の降水量は491.6ミリ、霞ヶ浦の水位は土浦町(土浦市)で2.5メートルに達し、町は水没した。
被害は全県下に及んだ。
そして、9月、10月にも台風の被害が引続いだ。
   (出典2)


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氏 名 名  称 タイトル 日 付
挟間茂 著 『地方制度改正大意』
挟間茂 著 月刊誌『都市問題(第1巻第4号)』 「大都市の二重制度に関する考察(1)」 大正14年8月
挟間茂 著 月刊誌『都市問題(第1巻第6号)』 「大都市の二重制度に関する考察(2)」 大正14年10月
挟間茂 著 月刊誌『都市問題(第24巻第1号)』 「都市衛生問題の特質とその対策」 昭和12年1月
挟間茂 著 月刊誌『都市問題(第29巻第5号)』 「地方税制改正案の概要」 昭和14年11月
挟間茂 著 月刊誌『都市問題(第30巻第1号)』 「市制及府県制改正要綱大意」 昭和15年1月
挟間茂 著 月刊誌『都市問題(第45巻第11号)』 「広域地方行政のあり方について」 昭和29年11月
内政研究会 編 『挟間茂氏談話速記録』 昭和40年
〜41年


出典1:『日本の歴代知事(第1巻)』、昭和55年7月15日
出典2:『茨城県政と歴代知事---戦前45名の人物像---』、森田美比、暁印書館刊、平成3年1月20日
関連資料1:『福山学生会雑誌(第49号)』、9頁、「自己意識」、挟間茂、福山学生会事務所編刊、大正5年11月5日
2005年5月9日更新:本文・出典●2006年5月8日更新:タイトル●2006年5月26日更新:連絡先(削除)●2007年4月5日更新:経歴●2007年10月3日更新:経歴●2007年11月21日更新:氏名・本文●2007年11月22日更新:経歴●2008年7月22日更新:関連資料●2009年7月2日更新:経歴・本文●2011年7月19日更新:経歴・本文・探しています●2011年8月19日更新:経歴●