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| 盈進学園創立者 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 生:安政2年(1855年)4月28日、備後国深津郡深津村(現:広島県福山市東深津町)生まれ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 没:大正12年(1923年)5月24日、享年69歳 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 藤井曹太郎−盈進学園創設者 安政2年(1855年)4月福山近郊深津郡深津村(現広島県福山市東深津町)の農家に出生。 師範学校入学までの私塾における学習経歴はつぎのとおりである。
明治11年(1878年)5月3日、ふたたび深津小学校に奉職した。職名は訓導となり俸給は月8円に昇給した。教員の配置については、各大区(郡)へは県辞令により、郡内各小学校への配属は各郡もしくは2郡合同の会議所での協議で決定し、本人に通告することになっていた。氏はその後も講習会や私塾において研修につとめ、明治18年(1885年)校長に栄進、精華高等小学校長を兼ね、明治32年(1899年)には培遠高等小学校長に転任し、明治37年(1904年)1月までその職務を勤めた。 その後は国力の培養は産業経済の振興にありとの信念に基き、独力商業学校の創立を企図し、深安、沼隈、芦品三郡の高等小学校を行脚して生徒を募集、118名を得て福山市東町製糸工場跡を借りて、明治37年(1904年)4月盈進商業実務学校を開校した。さらに明治44年(1911年)、祖先伝来の良田数反を売って校地を求め新築した校舎は、大正6年(1917年)火災のため烏有(うゆう)に帰したが、万難を克服して再興した。その後、大正11年(1922年)甲種商業学校に改め盈進商業学校と改称、財団とする。当時の職員20名、生徒500余、幾多の苦難に堪えて、基礎が漸く確立した。 翌大正12年(1923年)歿、享年69歳。 文部大臣その他から数々表彰せられている。同窓会が建立した翁の銅像は厳然として学校の入口に後進者を見守っている。 (出典1)〜(出典4) |
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| 出典1:『備後先覚者名鑑(郷土を創った人々)』、備後文化出版社編刊、昭和35年6月 出典2:『誠之館百三十年史(上巻)』、280・287頁、福山誠之館同窓会編刊、昭和63年12月1日 出典3:『盈進学園創立100周年記念誌 青雲に燃ゆ』、学校法人盈進学園編刊、2005年3月 出典4:『すい松館 深津小学校百二十周年記念史』、深津小学校百二十周年記念誌編集委員会編刊、平成7年3月1日 出典5:『郷土基本調査(復刻版)』、28頁、深津小学校創立百四十周年記念事業実行委員会編刊、平成23年11月1日 |
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| 2005年5月11日更新:本文、出典●2006年6月7日更新:タイトル●2006年7月26日更新:経歴・出典●2007年9月19日更新:本文・関連情報●2008年2月21日更新:経歴(興譲舘→興譲館)・本文(興譲舘→興譲館)・関連情報●2009年10月23日更新:経歴●2012年1月19日更新:経歴・出典● |