福山阿部藩
藩主
誠之館
先賢
福山藩
関係者
誠之館
歴代校長
誠之館
教師
誠之館
出身者
誠之館と
交流した人々
誠之館所蔵品
関係者
誠之館同窓会
歴代役員
藤井曹太郎
ふじい・そうたろう
盈進学園創立者
藤井曹太郎 (出典1)
生:安政2年(1855年)4月28日、備後国深津郡深津村(現:広島県福山市東深津町)生まれ
没:大正12年(1923年)5月24日、享年69歳
文久2年(1862年) 6歳 教育のため備中国小田郡西荏原村(現岡山県井原市西江原町)の関戸彦太郎に預けられる
慶応3年(1867年)2月1日〜
 明治元年(1868年)10月15日
11歳〜
13歳
興譲館(備中国後月郡西江原村)の坂田丈平(坂田警軒)について、漢学『大学』『中庸』『論語』を学ぶ
明治2年(1869年)3月1日〜
 明治5年(1872年)3月10日
13歳〜
16歳
深津村 すい松館において藤井森太郎、富士間(藤間)月石、藤井塵外、楯岡文蔵らに漢学『孟子』『詩経』『自雅』『蒙求』を学ぶ
明治7年(1874年)7月20日〜
 明治8年(19875年)12月29日
19歳〜
20歳
福山藩士族 若井遜について、史学『日本外史』『十八史略』を学ぶ
明治9年(1876年)7月2日〜
 明治10年(1877年)5月23日
21歳〜
22歳
福山藩学士 士族 佐藤広治について、史学−『皇朝史略』『元明史略』『春秋左氏伝』を学ぶ
明治9年(1876年)12月 21歳 福山において開催された、岡寛斎(元福山藩士族)の指導する「下等小学校授業法伝習会」に参加
明治10年(1877年)2月9日 21歳 深津小学校助教
明治10年(1877年)4月25日 21歳 広島県師範学校分校に入学、室長に任ぜられる
明治11年(1878年)4月11日 22歳 広島県師範学校福山分校を卒業
明治11年(1878年)5月3日 23歳 深津小学校訓導
明治12年(1879年) 24歳 広島師範学校卒業
藤井葦川、門田新六に師事
明治18年(1885年) 29歳 深津小学校校長
明治24年(1891年) 35歳 深津村外六ヶ村学校組合立精華高等小学校長を兼任
明治32年(1899年)〜
 明治37年(1904年)1月
43歳〜
48歳
培遠高等小学校校長
明治37年(1904年)4月 49歳 盈進商業実務学校を開校する
明治44年(1911年) 56歳 寺町校舎を新築
大正5年(1916年)6月14日 61歳 火災により寺町校舎を全焼
大正8年(1919年)5月24日 64歳 広島県教育会会長表彰
大正9年(1920年) 65歳 福山市長表彰
大正11年(1922年) 67歳 盈進商業学校(甲種商業学校)と改称、財団とする
大正11年(1922年)10月30日 67歳 文部省表彰
大正11年(1922年) 67歳 深安郡教育会表彰
大正12年(1923年) 68歳 広島県知事表彰
 藤井曹太郎−盈進学園創設者
 安政2年(1855年)4月福山近郊深津郡深津村(現広島県福山市東深津町)の農家に出生。
師範学校入学までの私塾における学習経歴はつぎのとおりである。
期   間 年齢 私   塾 学 科 内 容
慶応3年(1867年)2月1日〜
 
明治元年(1868年)10月15日
13歳
14歳
備中国後月郡西江原村
興譲館<
坂田丈平(坂田警軒)
漢学『大学』『中庸』『論語』
明治2年(1869年)3月1日〜
 明治5年(1872年)3月10日
15歳
18歳
深津村 すい松館<藤井森太郎・富士間(藤間)月石・藤井塵外・楯岡文蔵 漢学−『孟子』『詩経』『自雅』『蒙求』
明治7年(1874年)7月20日〜
 明治8年(1875年)12月29日
20歳
21歳
福山藩士族 若井遜 史学−『日本外史』『十八史略』
明治9年(1876年)7月2日〜
 明治10年(1877年)5月23日
22歳
23歳
福山藩学士
士族 佐藤広治
史学−『皇朝史略』『元明史略』『春秋左氏伝』
 明治9年(1876年)12月福山において、公立師範学校分校より派遣された訓導・岡寛斎(元福山藩士族)の指導する「下等小学校授業法伝習会」が開催されることになり、氏は進んでこれに参加した。教職専門教育はここからはじまる。期間は30日間であった。伝習会の終了とともに、明治10年(1879年)1月深津小学校訓導・助教に雇用された。教壇に立った最初であり、俸給は月2円30銭であった。さらに、助教就任後2ヶ月目の明治10年(1879年)4月7日に「広島県師範学校分校」の生徒50名の募集が布告された。氏はこれに応募合格して、明治10年4月25日に入学した(23才)。修業科目・教科書等は次表の通りである。
学科目 書名(内)
国史 『国史覧要』『日本史略』『万国史略』
読物 小学読本類
修身 『勧善訓蒙』『修身論』
地理 『日本地誌略』『兵要地理小誌』『万国地誌略』
物理 『物理階梯』『物理全誌』(?)
算術 筆算 四則ヨリ開立法及求積迄
珠算 四則ヨリ異乗同除迄
画学 紋画(?)幾何画法・家屋・輪廓・草木禽獣器具等・陰影
作文 書牘・記事・論説等
小学教授法 「学校通論」
(注)上記の教科目・書名は、氏の記憶によったもので、かならずしも全科目を網羅していないので、他の資料により、藤井氏が掲げている学科以外の共通的な学科目と書名とを、次に掲げる(文部年報)。
小学教授法 『百科全書教導説』『日耳曼(げるまん)氏教授論』
化学 『化学訓蒙』『化学入門』
博物 『博物新篇』『博物新篇補遺』
生理学 『生理発蒙』『小学生理訓蒙』『初学人身窮理』
経済 『英氏経済論』『民間経済録』
代数 諸方程式
幾何 平面幾何
農商学 『泰西農学』『農学新書』
体操
 修業すること1ヵ年、明治11年(1878年)4月11日「広島県師範学校福山分校」を卒えた。師範学校の同期生に西川國臣がおり、ともに人物、成績優秀であった。
 明治11年(1878年)5月3日、ふたたび深津小学校に奉職した。職名は訓導となり俸給は月8円に昇給した。教員の配置については、各大区(郡)へは県辞令により、郡内各小学校への配属は各郡もしくは2郡合同の会議所での協議で決定し、本人に通告することになっていた。氏はその後も講習会や私塾において研修につとめ、明治18年(1885年)校長に栄進、精華高等小学校長を兼ね、明治32年(1899年)には培遠高等小学校長に転任し、明治37年(1904年)1月までその職務を勤めた。
 その後は国力の培養は産業経済の振興にありとの信念に基き、独力商業学校の創立を企図し、深安、沼隈、芦品三郡の高等小学校を行脚して生徒を募集、118名を得て福山市東町製糸工場跡を借りて、明治37年(1904年)4月盈進商業実務学校を開校した。さらに明治44年(1911年)、祖先伝来の良田数反を売って校地を求め新築した校舎は、大正6年(1917年)火災のため烏有
(うゆう)に帰したが、万難を克服して再興した。その後、大正11年(1922年)甲種商業学校に改め盈進商業学校と改称、財団とする。当時の職員20名、生徒500余、幾多の苦難に堪えて、基礎が漸く確立した。
 翌大正12年(1923年)歿、享年69歳。
 文部大臣その他から数々表彰せられている。同窓会が建立した翁の銅像は厳然として学校の入口に後進者を見守っている。
   (出典1)〜(出典4)
出典1:『備後先覚者名鑑(郷土を創った人々)』、備後文化出版社編刊、昭和35年6月
出典2:『誠之館百三十年史(上巻)』、280・287頁、福山誠之館同窓会編刊、昭和63年12月1日
出典3:『盈進学園創立100周年記念誌 青雲に燃ゆ』、学校法人盈進学園編刊、2005年3月
出典4:『すい松館 深津小学校百二十周年記念史』、深津小学校百二十周年記念誌編集委員会編刊、平成7年3月1日
出典5:『郷土基本調査(復刻版)』、28頁、深津小学校創立百四十周年記念事業実行委員会編刊、平成23年11月1日
2005年5月11日更新:本文、出典●2006年6月7日更新:タイトル●2006年7月26日更新:経歴・出典●2007年9月19日更新:本文・関連情報●2008年2月21日更新:経歴(興譲舘→興譲館)・本文(興譲舘→興譲館)・関連情報●2009年10月23日更新:経歴●2012年1月19日更新:経歴・出典●