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| 札幌逓信局長、逓信省郵便局長、電源開発株式会社総裁 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 生:明治27年(1894年)7月1日、広島県深安郡山野村矢川川向177番地の1(現福山市山野町矢川)生まれ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 没:昭和50年(1975年)3月18日、享年82歳、京都東山西大谷の墓地に葬る | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 哀悼のことば 電源開発株式会社総裁 大堀 弘 (略) 思い起こしますと藤井さんは、大正10年京都帝国大学法学部をご卒業後、ただちに逓信省に入省され、郵務局規画課長、札幌逓信局長等、枢要な職務を経て、昭和13年逓信省郵務局長に就任されました。 その間、日華事変下における郵便業務の確保に大きな功績をあげられる一方、とくに郵便配達方法の改善に着目し、郵便戸番制の採用など独創的な方策を樹立されました。これらが後に、新住居制度や郵便番号制度の普及役立ったと伺っております。 ついで昭和13年、折からの電力国家管理の機運に即して電力管理準備局が設置されるや、同局次長に就任、日本発送電株式会社の設立に参画されました。翌昭和14年4月、電気庁の創設とともに同庁第一部長、ついで昭和16年同庁長官に就任され、電力行政の最高責任者として電力設備の出力増強の計画指導し、生産拡充に大きく寄与されました。 第二次世界大戦終戦後の昭和20年9月には、日本発送電株式会社の副総裁に就任され、戦後の荒廃した電力設備の早期復旧計画の立案ならびに工事実施を推進し、わが国電気事業の復興に多大の貢献を果たされました。 そして、昭和29年には電源開発株式会社副総裁、さらに昭和33年同社総裁に就任され、前後8年間にわたり同社の事業発展に心血を注がれました。 時あたかも、わが国経済はようやく戦後の混乱期を脱し、成長発展の時期に入りつつありました。藤井さんは年ごとに急増する電力の需要に対処するため、電源開発株式会社の開発組織力のすべてをあげて、まず、わが国電源開発史上の金字塔ともいうべき佐久間発電所を昭和31年に、ひきつづいて奥只見、田子倉、御母衣などの大規模水力発電所をはじめ数多くの水力発電所を相ついで完成させ、電力供給力の確保につとめられました。さらに、国内の未利用資源活用の一助として、北九州市若松に低品位炭火力発電所を建設し、また海外技術協力の面でも、自らペルー国に赴いてタクナ総合開発に着手するなど、同社の国家的使命の発揚に大いに力をつくされました。 一方では、電力の広域運営の積極的な推進を通して、九電力会社と電源開発株式会社との協調体制の確立に多大の貢献をされました。 昭和39年に同社を退かれた後も、地熱調査会理事長に就任され、わが国の地熱エネルギーの活用に大いに努力されました。また郵政審議会委員として、さらにまた郵便番号普及協会会長として、郵便事業の近代化、効率化に献身的な努力をされました。 このようにわが国の郵便事業の歴史に、また電気事業の歴史に、数かずの輝かしい業績をあげてこられた藤井さんに対し、かしこくも昭和27年藍綬褒章、昭和40年に勲二等旭日重光章、さらに昭和48年には銀杯を賜わり、そしてこのたび従三位に叙せられましたことは、私どもにとりましてもまた大いなる喜びであります。 今、ありし日の藤井さんを偲び、日々私どもに訓されたお教えの数かずを想うとき、それらは常に国家的見地に立ち、日本の行く末を案ずる、真の日本人としての心情の発露でありました。終戦後、国土とともに荒廃した日本人の道徳の復興、そしてまた、青少年の教育の重要性を熱心に説かれた藤井さんの姿に、私どもは日本という国を愛してやまない国士のおもかげを見ました。 そして藤井さんは、自ら道徳再武装運動、いわゆるMRA運動を推進し、また電源開発株式会社においても電発工業高等学園を創設して自ら青少年の精神教育に力を入れるなど、その所信を意欲的に実践されました。これらは10数年の歳月を経た今日、着々とその実を結びつつあります。(略) (出典1) |
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| 本名は崇治、号は鯨山(げいざん)。 永く神奈川県鎌倉市に住んだ。 (出典1)、(出典2) |
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| 資料提供 藤井美砂子氏(藤井崇治氏孫) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 出典1:『藤井崇治』、藤井伸編刊、昭和51年3月18日 出典2:『山野村語伝記』、632頁、「藤井崇治」、世良戸城編、山野村語伝記刊行会刊、昭和49年6月10日 出典3:『産経日本紳士年鑑(第9版)下』、は行174頁、産経新聞年鑑局編刊、昭和45年11月30日 出典4:『ニコピン先生葛原しげる追悼録』、59頁、「葛原先生と私」、藤井崇治、角川書店編刊、昭和39年3月29日 |
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| 2004年10月21日更新:寄稿●2005年5月19日更新:経歴、出典●2006年5月8日更新:タイトル、寄稿●2006年6月1日更新:写真、経歴●2007年11月21日更新:経歴、誠之館所蔵品●2008年7月2日更新:経歴、本文、出典●2012年1月5日更新:本文● | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||