福山阿部藩
藩主
誠之館
先賢
福山藩
関係者
誠之館
歴代校長
誠之館
教師
誠之館
出身者
誠之館と
交流した人々
誠之館所蔵品
関係者
誠之館同窓会
歴代役員
阿部正福
あべ・まさよし
備後福山藩主(第2代)
阿部正福 (出典1)


経 歴
生:元禄13年(1700年)6月6日、江戸生まれ
没:明和6年(1769年)10月10日、享年70歳
正徳4年(1714年) 14歳 伊勢守
正徳5年(1715年)3月12日 16歳 藩主就任
正徳6年(1716年) 17歳 日光参拝御名代
寛保2年(1742年) 43歳 関東諸川浚治を掌る
延享2年(1745年) 45歳 従四位下
延享2年(1745年)~
 延享4年(1747年)
45~
47歳
大坂城代
延享4年(1747年) 47歳 寺社奉行
寛延元年(1748年)11月19日 48歳 藩主退任(在任33年8ヶ月)


生い立ちと学業、業績
称は、 正徳4年 (1714年) より 富之助、 正岑(まさみね) 正縁(まさより)
寛延元年 (1748年) より 正誉(まさよし) 正龑(まさあきら) 正意(まさよし)
正福は、元禄13年(1700年)、前藩主阿部正邦の第4男として江戸藩邸で生れる。
正徳3年(1713年)嗣子となって7代将軍家継に謁したが、正徳5年(1715年)に遺領10万石を16歳で襲封し、寛延元年(1748年)致仕するまで34年間在任する。
阿部氏としては4代
阿部正倫に次ぐ長期の在任期間となった。
正福は父正邦が入封早々から領内の実態を把握し、貢租・職制などの藩制整備に努めたので、そのあとを継いで政策を遂行してゆけばよかった。
ところが、襲封早々の享保2年(1717年)秋には全藩にわたる百姓一揆が勃発し、続いて享保4年(1719年)には正徳につづく朝鮮通信使の応接、さらに享保6年(1721年)には芦田川の氾濫など前途に暗雲が立込めた状態であった。
正福の農政に対する基本的な態度から諸々の政策が実施されるが、そこには農民層の分化を認めながらも、元禄検地に基因する領主の収奪の強化にあるとしないで、村役人たちの所為に転化して農村の再建を計ろうとしている態度が農政対策に見られる。
その第一は村役人の綱紀粛正、第二は役目石高割りと除き高の設定、そして、第三には分地・結婚年齢制限令などが続々と発令され、ある程度の成果をあげたが、享保17年(1732年)の大飢饉によって財政的な打撃を受けた。
又、利根川の氾濫による修復への普請手伝いを命じられ、これも大きな負担となった。

正福は延享2年(1745年)11月、47歳で大坂城代に就任し、その後の阿部氏が譜代の名門として幕閣へ登場する足掛かりをつくった。
3代
阿部正右、4代阿部正倫、5代阿部正精と続いて老中まで登り詰めたことに表れている。
しかし、延享4年(1747年)12月、正福は病気のため2年程で大坂城代を辞任し、さらに翌寛延元年(1748年)11月19日には致仕し、家督を嗣子
阿部正右に譲って隠居してしまった。

しかし、その後は長命で、明和6年(1769年)10月10日70歳で没している。
德輪院殿硯誉祐全寿山と諡し、江戸浅草西福寺に葬られた。
現在は東京都台東区谷中に墓所がある。

室は松山藩主久松隠岐守定直女。
継室は薩摩藩主島津薩摩守吉貴女。
   (鐘尾光世、歴史資料室学芸員)


誠之館所蔵品展示品
管理№ 作  者 名  称 制作/発行 日 付
00001 阿部正福 画 日本画「鶴之図」
t0170 阿部正福 画 日本画「桜花図」
00336 阿部正福 画 日本画「巌頭白鷹図」
t1140 阿部正福 画 日本画「梅に鷹図」 明和6年(1769年)ごろか
07271 福山城博物館 編 『福山阿部家展-受け継がれた武家資料-』 福山城博物館 平成27年


出典1:『阿部氏十代展-福山の藩政と教育-』、76頁、福山城博物館編刊、平成7年4月8日
出典2:『福山阿部家展-受け継がれた武家資料-』、福山城博物館編刊、平成27年9月19日
出典3:『福山の今昔』、106頁、浜本鶴賓著、立石岩三郎刊、大正6年4月26日
2005年2月14日更新:本文●2005年3月3日更新:肩書●2006年2月2日更新:所蔵品●2006年2月17日更新:経歴●2006年3月22日更新:所蔵品●2006年6月1日更新:タイトル●2007年10月9日更新:経歴・関連情報●2008年1月23日更新:本文・関連情報削除●2010年3月9日更新:経歴・本文・出典●2010年3月12日更新:本文●2014年8月18日更新:本文●2014年10月2日更新:誠之館所蔵品展示品●2015年12月7日更新:誠之館所蔵品展示品・出典●