福山阿部藩
藩主
誠之館
先賢
福山藩
関係者
誠之館
歴代校長
誠之館
教師
誠之館
出身者
誠之館と
交流した人々
誠之館所蔵品
関係者
誠之館同窓会
歴代役員
阿部正邦
あべ・まさくに
備後福山藩藩主(初代)


経 歴
生:万治元年(1658年)4月19日、武蔵国生まれ
没:正徳5年(1715年)1月27日、江戸において没、享年58歳、江戸浅草西福寺に葬る、のち谷中墓所に改葬
寛文11年(1671年)12月19日 13歳 武蔵国岩槻を襲封
寛文11年(1671年) 13歳 対馬守
寛文11年(1671年) 13歳 従五位下
天和元年(1681年) 23歳 丹後国宮津へ
元禄10年(1697年) 39歳 宇都宮へ
元禄13年(1700年) 42歳 従四位下
宝永7年(1710年)閏8月15日 53歳 福山藩主に就任
正徳元年(1711年)3月28日 53歳 福山に入国
正徳元年(1711年) 53歳 備中守
正徳5年(1715年)1月27日 57歳 死去、藩主退任(在任5年5ヶ月)


生い立ちと学業、業績
称は正盛(まさもり)・作十郎、号は三省子。

福山藩は水野氏、松平氏と続き、そのあと下野国宇都宮から阿部氏が入封する。

阿部正邦は、万治元年(1658年)に武蔵国に生れ、寛文11年(1671年)12月19日、父定高の遺領を叔父正春より返譲され武蔵国岩槻に襲封したが、天和元年(1681年)丹後国宮津へ、元禄10年(1697年)には宇都宮へ移され、さらに宝永7年(1710年)に備後福山へと転封を重ね、入封時には正邦はすでに53歳になっていた。
転封の下命を受けた正邦は、「至極ニ能所」であったが、「只今ハ困窮いたし」江戸からはるかに遠国であるとその心境を切々と述べ、余程の困惑ぶりを見せた。
正邦が実際に福山に入国したのは入封の翌年正徳元年(1711年)3月28日で、その初策は宝永の「指出帳」を全村から提出させて、領国の実情を把握することであった。
各村の石高、寺社、商品作物、鉄砲など村の概要と年貢納入の方法や五人組などの諸制度が載せられている。
正徳元年(1711年)9月には郡奉行から村々へもっぱら治安に関する条項が中心の「条々」35ヵ条がくだされ、領主交替時に起こる動揺への対策が施された。
正徳2年(1712年)には、年貢の納め方についての請け書を出させている。続いて、正徳3年(1713年)にも村入用に関する規定が定められその節約と村政の公正を命令した。商業統制では宝永7年(1710年)に升改めを実施するなど入封後、正徳3年(1713年)ごろまでには領内を掌握し、山陽筋の譜代大名としての存在意義も定着化してきた。

こうして阿部氏独自の政策が打ち出されようとしていたが、正邦は正徳5年(1715年)、江戸において死去した。

長生院殿尋誉耀海踞岸と諡し、江戸浅草西福寺に葬られた。
現在は東京都台東区谷中に墓所がある。
室は土佐藩主山内土佐守豊昌女。継室は家臣堀江内蔵助次重女。

第2代は、
阿部正福がついだ。   (鐘尾光世、歴史資料室学芸員)


誠之館所蔵品
管理 氏名 名称 制作 日付
07271 福山城博物館 編 『福山阿部家展−受け継がれた武家資料−』 福山城博物館 平成27年


出典1:『阿部氏十代展−福山の藩政と教育−』、76頁、福山市立福山城博物館編刊、平成7年4月8日
出典2:『福山阿部家展−受け継がれた武家資料−』、福山城博物館編刊、平成27年9月19日
出典3:『福山の今昔』、105頁、濱本鶴賓著、立石岩三郎刊、大正6年4月26日
2005年3月3日更新:肩書●2006年2月17日更新:経歴・本文●2006年6月14日更新:タイトル●2007年10月5日更新:経歴●2008年1月23日更新:本文●2010年3月9日更新:経歴・本文・関連資料●2015年12月7日更新:レイアウト・誠之館所蔵品・出典●