戦後史29-5

昭和29〜31年(本郷時代)


卒業

私は、6月(昭和30年)から練馬区桜台の下宿を引き払って、上板橋の家庭教師先に住み込んでいた。
前年の12月から週2回の約束で出かけていた家庭教師先は、伸銅所を経営する中小企業主の家庭で、高校3年の男子を教えていた。その子が無事希望の大学に合格し、それ以降はその妹の高1を教えていた。
私はその家族の人たちから、こちらにきて住み込まないかと誘われたのである。社員住宅用の空いた部屋――それは2間続きの広い部屋だった――と三度の食事を提供された。

これが、家庭教師としての報酬である。現金収入はないが、住居費と食費の支出が不要となった。実家からの送金と奨学金は自由に使えるので、これで私の生活はやっと安定することになった。以後は借金することもなく、比較的ゆとりができ、勉学と活動に専念できる環境が整った。

高島炭鉱での実習を終えて東京に帰り、「六全協」とその波紋のただなか、9月、そろそろ卒業論文に取り掛かれねばということになった。
さて、どうするか。石炭採鉱の分野にしようと決めていたから、指導教官は石炭採鉱学の伊木正二教授にお願いしなければならない。
伊木先生には、ちょっと近づき難い個人的な理由があった。3年の実習の時、北海道の現場見学を辞退して山登りをしたいなどという不埒なことを申し出て――陽王はじめ5人で――、あの温厚な教授を怒らせてしまったのである。研究室の先輩の話によると、この数年の間、伊木先生があれほど怒ったのは見たことがないというほどの怒りようだったらしい。

でも、勇を鼓して、恐る恐る先生の研究室に赴いた。
もう一人、この分野で卒論を書きたいという級友がいた。そして話し合いの結果、炭質・岩質によって炭塵・粉塵の発生がどのように異なるか、それは通気の方法によってどう変わるか、といったことをこの級友と2人の共同研究としようということに決まった。先生は前のことを全く根に持ってないようで、安心した。
テーマは決まったが、すぐにはとりかからなかった。12月に入ってあわてて始めたような次第である。いつの世も、学生はのんきである。

それよりも、就職のことが心配だった。
夏から秋にかけて、私は就職のことで悩んでいた。教授の推薦を得て民間会社に鉱山技師として入るか、通産省に公務員として入るか、迷っていた。
それ以前に、鉱山学科進学の時点では建築家になる夢を捨て、優れた鉱山技師になろうと決意し、技術者になるなら現場へ、と思っていたのに、ものは試しと国家公務員試験(上級職)――今でいう国家公務員試験第T種――資源開発職を受験し、合格していた。親に相談すれば、一も二もなく、公務員を選べという。技官とはいえ一応キャリア官僚である。
通産省から問い合わせが来たとき、技術者として現場へ、という私の決心がぐらついてしまった。勤務地とか待遇、将来の見込みなど考えていくと、心は揺れた。

しかし、最終的には民間会社――北炭(北海道炭鉱汽船)――を選んだ。やはり現場の技術者として生きたいということが強かった。公務員では技術の先端に触れることはできないのではないか、現場を知らないホワイトカラーで終わってしまうのではないか、そう思ったから、公務員を選ばなかった。
俸給の高も選択に関係していただろう。 公務員の場合、初任給月額9,800円であるのに対し、北炭では20,000円ということだった。ただし、これには裏があり、坑内現場に働いたときにのみ支給される坑内手当6,000円を含んでの話であった。このことは、入社後に知った。入社試験の時、当然説明はあったはずだが、迂闊なことであった。

さて、民間会社を希望する場合の就職あっせんのシステムは、東大工学部の場合、どの学科も同じようなものだと思うが、教官たちが学科としても個人としても有力な会社と結びついており、今年は東大から何人、という枠を会社から提示される。
これを大学側からみれば、たとえば、伊木教授は、三井鉱山に何人、三菱鉱業に何人、北炭に何人、・・・・・という枠を持っていることになる。この年は、昭和29年ごろからの不況が依然として続いており、高度成長期はまだ後のことだから、就職難の時代で枠の人数は少なかった。

私は1ヶ月の現場実習先であった三菱鉱業を希望したが、あいにくその年は東大鉱山学科からは採用枠は1名であった。そこに4名の希望者が出たのである。 伊木先生も困ってしまい、お前たちで相談して調整して来い、という話になって、4人で正門前の喫茶店で話し合った。
私は一番先に降りてしまい、まだ希望者のいなかった北炭――北海道炭鉱汽船(株)、東証一部上場会社のなかで売上高上位20位以内に入る規模を誇ったこともあったが、平成7年会社更生法適用、現在は会社消滅――に志望変更した。あと3人はいずれも譲らず、3人とも三菱鉱業に受験し、結局、1名だけが採用された。

北炭の入社試験は、10月に筆記試験と面接があった。
その面接の時、「君は尊敬する人物があるか」と、重役らしい一人の面接官から聞かれた。オヤ、オヤと、中学受験のことを思い出した。
「尊敬する人物と言うより、好きな作家はあります」
「それは、誰だね」
まさか、共産主義者のルイ・アラゴンというわけにいかない。
「石川啄木です」
と答えると、すかさずその面接官から次のような反応が返ってきた。
「啄木には、『じっと手を見る』という歌があるね」
と言われてしまった。私は、あっ、しまった、と思った。まずいことを言ってしまった。これでは、この試験に落ちるかもしれない。

ご存じのように、この歌は「働けど働けど わが暮らし楽にならざり じっと手を見る」というものである。 炭鉱の現場で荒くれ男どもを統率していかなければならない係員になるべき人間としては、いささか気弱に過ぎるのではないか、そのようにとられたに違いない、とちょっとばかり落ち込んでしまった。
しかし、幸いにして、試験には合格した。

就職内定してから、遅ればせながら卒論に取り掛からねばならないと思いながら、私はまた変わったことに力を注ぎ始めた。ロシア語の学習を始めたのである。
その頃、学科の図書館に鉱山に関係する学術誌で『グリュックアウフ』と『ウーゴリ』という定期刊行物があった。『グリュックアウフ』はドイツの鉱山関係誌を翻訳したものであり、『ウーゴリ』はソ連の鉱山誌を翻訳したものである。石炭鉱山の分野では、当時、西ドイツとソ連が先進国だった。

『ウーゴリ』は、ロシア語のできる鉱山関係者が非常に少なく、その翻訳に大変苦労していると聞いて、それじゃ私がロシア語を勉強して、いずれはその翻訳陣に加えてもらおうと、とんでもない野望を持ったのが、ロシア語学習の動機である。同時に、社会主義国ソ連に関心があったことも否定できない。

そして、日ソ学院に通い始めた。まじめにきちんと出席したとしても、卒業まで4カ月しかない。どれほどものになるか、ほとんど期待できないのに、我ながらどういうつもりだったのだろう。でも、今でもロシア文字は、意味は分からずとも文字を発音するだけはできる。
日ソ学院に通い始めて、驚いたことにそこでクラスメートの一人に出会ったのである。彼は私よりも早くから、ロシア語を学習していた。ロシア語学習の彼の動機は、大好きなチェーホフを原文で読みたいからだ、と聞いて心底感心してしまった。そういう純な心を持った男だとは、今の今まで知らなかった。わが東大鉱山学科には、いろんな人間がいるものだ、とその時思った。

卒業論文は、「浮遊炭塵の濃度測定に関する研究」というタイトルでまとめた。
鉱山の採掘現場は坑内という密閉空間であるために、そこで発生する作業上の粉塵・炭塵が容易に除去できず、空間に浮遊し続ける。もちろん、通気によってそれらを排除したり、散水によって沈降させたりするのだが、十分に通気あるいは散水できないことも多い。
この粉塵・炭塵を長期間吸い続けると硅肺あるいは炭肺という不治の病に侵される。また浮遊炭塵が一定の濃度に達したとき火気に触れると、炭塵爆発という大災害を引き起こす。

卒論では、炭塵を取り上げたが、石炭の種類別・産地別に炭塵の空間滞留状態がどのように違うか、通風によってそれがどのように変化するか、などを測定する。
測定法は、ある大きさをもつ密閉筐体内で炭塵を発生させ、その炭塵を含む空気を採塵機で一定量吸引する。それによって捕集された粒子の数を、顕微鏡下でメッシュに区切られたセルをいくつか抽出してカウントし、「m3あたりの粒子個数」を推定する。その数値で炭塵濃度を表わす――春先に飛散するスギ花粉の多寡を知る方法も、これとほぼ同じと聞いたことがある――。
「m3あたりの粒子個数」ではなく、「m3あたりの質量」で表したり、炭塵を含む試料に光を当てその散乱量(つまり明るさ)で濃度を算出する方式もある。

私たちは、粒子の個数をカウントする方式を主とし、光散乱による方式を補助的に使って、カウント方式と比較したりした。 現在は軽便で迅速に測定できる機器がいろいろと開発されているようであるが、当時は粒子をカウントするという、いかにも原始的な方法が最もポピュラーなものであった。

この粒子個数を顕微鏡下でカウントするというのは、根気のいる大変な作業であると同時に、その観測値にかなりのバラツキが出てくる。この処理のために、どうしても統計学の知識が必要である。つまり、サンプリングや有意差検定、実験計画法の技術が必要である。
ということで、私は朝香鉄一教授の「統計数学」講義を履修した。1回も欠席することなく全出席した講義は、大学在籍中、おそらくこの科目だけだったのではないか。習い覚えたことは、卒論のまとめに直ちに応用した。

卒論のための実験とそのまとめ作業と並行して、民青の活動も細々ながら続いていた。バイトはきちんと手抜きなくやってきた。日ソ学院にも休まず通った。陽王や実三、そして級友や三鷹寮の友人とも安酒場を飲み歩いていたし、新宿フランス座に出かけたこともある。
耕平が東京に訪ねてくれば、一緒に上野に出て美術館などをまわったりした。

映画もよく見た。フランス映画大好きの私が、「野菊の如き君なりき」とか「ここに泉あり」などという日本映画を観て、涙を流したりした。 読書は、アラゴンが中心である。『レ・コミュニスト』のことは、前に書いた。同じ作者の『すばらしき大地』も読んだ。 いろんなものが雑居している。ただ、恋愛だけがもうなかった。

何もかも中途半端に終わってしまった。勉学も、学生運動も、趣味も、遊びも、そして恋愛もすべて、行きつくところまで行って、わずかでもその果てが見えたというものは一つもない。すべては、中途半端に終わってしまった。4年間、心の風景は何も変わっていない。
卒業前の日記に、次のようにある。

東京での生活はいくばくもない。あれもやりたかった、こんなこともしたかったと思う。しかし、また逆に早く北海道へ行きたい気もする。そこで、俺はどんな人間として生活するのだろう。ちょっと想像つかないようで、いろいろ夢見る。
働くこと。他にオンブしないで生活する。お前はこういう人間であるべきで、こういう生活をすべきだ、と俺に向かっていう権利は誰にもない。俺自身にもない。

今これをみると、ずいぶん自分勝手な思いのような気がする。何もかも中途半端のまま投げ捨て、北海道へ行きさえすれば、ゼロベースから生活が立て直せる、と期待している。
――果たして期待通りにいくだろうか。何事にも、行きつけるところまで行く、地平の果てまでも行く、ということをしなかった私は、それまで未知の新しい土地にたどり着くことはできなかった。同じように、北海道に渡っても、行きつけるところまで全力で行こうとしない限り、新しい地平が開け、風景が一変するということは私には起こらないだろう。私は、“平均的”であることを超えられないだろう――。

卒論審査も通り、所要単位も取得し、無事卒業することができた。
卒業式には、父も郷里から上京して、出席してくれた。父は、安田講堂で行われた矢内原忠雄総長の訓示を聴くことができたといって、大満足であった。
上板橋の家庭教師先からは、お祝いとして背広1着をプレゼントされた。

北炭に同期入社した大卒は30名であった。事務系も技術系も最初の1年間は北海道で新人研修である。そろって、4月1日に赴任すべきところ、炭労のスト中で、上野駅から北海道へ旅立ったのは、4月も1週間が過ぎた後だった。


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