戦後史29-4

昭和29〜31年(本郷時代)


挫折

文京平和友好祭の準備に民青団員たちは忙しかった――こういうように地域の人たちや労働者と学生が共同で催す祭りがみんな好きだった――。大学構内で、Nzと出会った。そして、何とか時間の都合をつけて友好祭準備に行ってくれ、といわれたが、その日の午後、班の財政会議が予定されていたので、行けなかった。
私は財政会議に出るべく、都電に乗って追分寮に着いた。

着いてみると、例によって来るべき者の半分も集まらない。みんな適当にさぼっている。一生懸命にやっている人もいるが、大部分の奴らは何をしているのだ。
その瞬間は、そう思う。でも、人のことをいう前に、私自身がこうして集まることに疑問をもつようになっていた。こうして集まらねばならぬのは、なぜか。果たして集まるだけの理由があるのか。

団員から集めた団費やカンパをキャップに渡すだけなら、道端ででもできるじゃないかと思ったが、財政会議のなかで渡すようにといわれる。先に述べたように、皆が集まり、経験を交流し合い、それによって自分を高め、将来への方針を打ち出すことが大事、ということで、会議、会議となるわけである。
――「情報共有と、相互意志の確認・結束のための対面の必要性」という組織論の観点からすればもっともなことであるが、しかしそれは運動の発展段階でいえば立ち上り期、発展期にいえることであって、終末期に差し掛かれば、それがマンネリ化し形骸化してくるのは否めないのではないか、と今にして思う。――

どんな経験が持ち出されるか、どんな方針が打ち出されるか、私には話される前から分かっている。いつも同じ経験が話され、いつも同じ方針が打ち出される。毎日のように、会議、会合、話し合いである。
授業の講義や実験と比べても、こちらの話し合いの方が重要なのか、といつも授業をさぼってばかりいる私でさえ疑問を感じる。

ところが、上の方から何日何時から、どこそこで、何とか会議があるから出るように、とくる。一旦、そう決まると、それに出ないことは出ている人たちに甚大な時間のロスを被らせ、計画を狂わせてしまう。決定された会合に出席することは、講義や実験に出るよりもはるかに大切なことである、といわれる。

もちろん、「今日はどうしても抜けられない実験があるから出られない」といえば、それを非難する団員はいない。みんな納得してくれる。けれど、そういう言い訳をする当人の私には、なんとなくやましい気持ちが残り続ける。
では、たとえば講義や実験をそれほど重要と私は考えていたのだろうか。答えは、ノウである。だって、授業をさぼって映画を見に行くなどということは日常のことである。 そうやって講義や実験を持ち出すのは、口実に過ぎないのだ。本当は、そういう班会議に出るのが嫌なのだ。

こんなことがあった。
陽王も私に少し遅れて民青に入団したが、ある日、二人とも今日は班会議があるということを承知していた。実験が早く終わり、班会議までに時間があった。陽王は会議に出たくないらしかった。私も出たくなかった。彼は映画を観に行こうと、しきりに誘惑する。
でも、やっぱり出ようと、出てみたら、案の定、つまらなかった。そして、帰りに二人で飲みに行く。こんなことを繰り返していていいのだろうか。

自分の成長を人民の成長に重ね合わせ、自己の持てる能力・資源を人民のために捧げ、革命の一日も早からんことを祈って、日々努力していく、そういう活動家も確かにいる。二人で飲んでいても、なかなか気が晴れない。

ちょうどその頃、クロード・モルガンの『羅針盤のない旅行者』を読み終えた。同じ作者の『人間のしるし』もそれ以前に、夢中になって読んでいた。モルガンは、発覚すれば銃殺確実という、緊迫した占領下のパリにあって、地下新聞をパリ解放まで発行し続けた、という。
「悲惨とはあれやこれやが欠けていることではない。 それは希望が存在しないことだ」という一節も、私を奮い立たせてはくれなかった。私は「あれや、これやが欠けていること」にかかづらって、希望がみえてこない。

アラゴンの大河小説『レ・コミュニスト』を読み始めていた。結局、何巻までだったか途中までしか進まなかった。面白くなかったからではない、全巻を揃えるだけの金がなかった。
読んだところは、1939年のスペイン人民戦線派の敗北から独ソ不可侵条約締結の頃にかけて、4人の女性共産主義者たちがどのように生きたかの物語である。 独ソ不可侵条約締結は彼女らにとって、理解できない不可解な事態であった。信奉するソ連が、スターリンが、ヒトラーと手を組むなんてことは、末端の共産主義者の理解を超えている。彼女らは、ひどく動揺する。

何かが変わりつつあった。社会も、民青を取り巻く環境も、そして私自身も、変わりつつあることを肌で感じていた。
大学生活最後の夏休みは、前に書いたように、国家公務員試験受験と長崎県・高島炭鉱での1ヶ月の現場実習があって、民青や自治会の活動から遠ざかっていた。

9月、東京に帰り、授業、自治会活動、民青会議などをこなし、実三に久し振りに会った。そして、彼の変貌ぶりに心底、驚いてしまった。
「六全協」以来、彼自身語るところによると「徹底的に自己批判している。これまでの党活動は、官僚制と服従の歴史だった」という。私はひどく混乱してしまった。

「六全協」とは、日本共産党第6回全国協議会の略で、この年の7月、共産党はこれまでの山村工作隊などの武装闘争を放棄し、議会闘争を通じて幅広い国民の支持を得られる「愛される共産党」に変わるのだ、と声明した。山村工作隊などの活動に参加していた学生党員は、突然の路線転換に衝撃を受け、失意のうちに自殺した党員もいる、という。
私自身はそのような武装闘争に参加したことはなく、また参加しようという気は全くなく、むしろそのような闘争には反対であったから、その転換の方向に驚いたのではない。

あたかも唯一絶対の革命への道として、若者を武装闘争に駆り立てておきながら、平然として、それは誤りであった、と突然言われても、その道を信じて突き進んでいた若者たちはどうすればいいのか。それは、今までの彼らの行動・人格の全否定ではないか。
そればかりではない。実三のいう「これまでの党活動は官僚制と服従の歴史だった」とは、どういうことか。私は、共産党指導部に対する激しい怒りと不信をとどめることができなかった。

10月、実三が下宿に訪ねてきた。唯物弁証法について彼の理解を話してくれた。それから池袋に出て、喫茶「琥珀」でまた話した。彼の、そして私の、現在の政治状況のなかでの具体的な実践のあり方にまで、話は及んだ。

私は、混乱したままだった。生活もおかしくなってきた。モーツアルトとストリッパー、『アカハタ』と『内外タイムス』、が私のなかに同居していた。
民青の活動は続けていたが、傷口の血は流れ続けた。

11月、民青T班は、大学の保養所である宇佐美寮で泊まり込みの学習会をもった。学習会といいながら、団員一人ひとりが現在の心境、決心を話し合う淡白会のようになった。

・北陸のある中都市の資産家の息子Ka
・父はなく、母も継母だが、その母に限りない愛情をもつSa
・教員の子で、自称プチブルの家庭に育ち、その残渣を払いきれないというOiや私
・極貧農の息子Sb(この班のキャップ)
・引揚の苦しみを今も背負い続けている二、三の同志たち
・キリスト教から、苦しみのなかを突き抜けてここまで到達したというSk
・同じように生長の家の信仰を振り捨てて、ここにきたKa
・女と酒におぼれる退廃した生活から抜け出してきたUiやKb
・母一人が織物工場で働いて一家の生計を支えているというOs

皆それぞれ異なった環境に育ち、しかし同じように苦しみ続け、時には迷い込み、後退したりしながらも、人間への愛情と信頼を失うことはなかった、という点では全員が一致した。 弱い、特に弱い人間ばかりが民青という”闘う運動組織”に集い、今日こうして赤裸々に自らをさらけ出し、話し合っているのは不思議な気がする。17人の同志、てらいもなくそう呼ぶことができる雰囲気だった。

しかし、しかしである。このような雰囲気の会合を持つこと自体、すでに活動が終末期に差し掛かっていたことを示しているのではないか。理想を掲げ、戦略と行動をはげしく論じあうという、緊迫した・しびれるような高揚感は、もはやそこにはない。 民青東大T班は、運動組織であることから、しだいに変質しようとしていた。

翌31年、いよいよ卒業の年が来た。
卒業後の就職に関連して、私の心から離れないことが一つあった。それは、この1年半ほどの間の民青を中心とする運動との関連である。
社会人として、大会社に入って技術者として勤務するということは、端的にいえば、人民を搾取する側に立つということにならないか。学生として、これまで依拠してきたマルクス=レーニン主義は捨てるのか。ずいぶんナイーブな悩みだが、答えはすでにあるはずだった。

1年ほど前に、北九州の中小炭鉱を訪ねた時、ある炭鉱労働者に次のように言われたことがある。
「しっかり勉強してください。我々の陣営にあなたのような係員(注*)がいるのだということは大変嬉しいことです」
「私たち時間と金のない者のためにも、その重大な責任を忘れないでください」
(注*)炭鉱には、鉱員と係員の区別が厳然としてあり、鉱員は定年まで現場作業に従事し、係員は(その多くが大卒)技術者あるいは事務職員として能力と業績により会社の組織ピラミッドの階層を上がっていく。軍隊組織でいえば、一般兵卒と将校になぞらえられる。

彼のいう「その重大な責任」とは、何か?何に対する責任か?
まさか彼は私に対して“隠れコミュニスト”、“隠れ組合シンパ”になって欲しいと言っているわけではあるまい。これから技術者として生きていこうとする私には、技術者という職業にまつわる社会への責任がある、ということではないか。
その社会はあるべき、ないし、あるべきと想定した社会であり、目の前にある現実そのものではないだろう。それに対する責任がどのようなものであるか、まだ定かには言えないけれども、技術者には技術者しか果たしえない責任があるはず。それを見出し、果たしていくのが、自分の務めである。

この年の1月、民青の仲間の一人Niが退団すると申し出てきた。その弁明に、私は強い衝撃を受けた。

入団の動機は、きわめて個人的なものでした。つまり、一定の社会的任務を感じて行動に参加するために入ったのではなく、自分の人間的向上の場を求めて入ったのです。しかし、その人間的向上の目的は何かが明確でなければ、行き詰まるでしょう。・・・・・
趣旨はともかく、(民青の)現状は典型的な“政治”団体でした。私はおりしも“政治”に疲れ果てていた。

・・・・・・それでも大学院進学が決まり、研究室が決まった後は落ち着きました。そこで新しい出発の方針を決めようと思いました。それを決めれば全く新しく元気に再出発できると思いました。ところが困ったことに、その方針が出てこないのです。意欲とか方針の根拠がないのです。
・・・・・・理論としては、マルクス=レーニン主義を承認しているつもりだが、それにもかかわらず、なぜ以前のように、それを拠り所にして行動しないのか。そのファイトが全然出てこないのです。惰性がなくなったことにもよるでしょう。それより何より魅力がないのです、そういう行動をとることに。以前には、きっとそれによって自分が高まるという期待があったのでしょう。

自信がないのだともいえる。誠意なく事をはじめて、無責任に終わる悲劇を知ったから。 マルクス=レーニン主義でなければ、どこから出発するか。やはり、これ以上は引けないという最後の線から出発するより他ないように思われます。

・・・・・・働くことは、人間の最低の責任です。更に、その職業に携わる者としての責任が生じます。科学者・技術者としての責任、それはまず仕事の結果(対社会的結果)に責任を持つこと・・・・・
私は今後の方針を自己満足や単なる興味や“衝動”に基づくのではなく、客観的な責任に基づいて立てて行きたいと思います。

以上が、Niの弁明のあらましてある。
私は、Niに実に多くの点で共感した。
そして、依然として班会議に出てはいたが、熱意と意欲は低下する一方だった。まさに、私の民青活動は、Niの言う「誠意なく事を始めて、無責任に終わる」ことを地で行くようなものだった。

仲間も一人去り、二人去り、次第にさびしくなった。残る仲間も多くが私と同じようなうつろな眼を宙に泳がせていた。上部機関とのコミュニケーションもうまく行かなくなった。こちらから連絡しても返事のないことがよくあった。
「六全協」とその政治的背景について知れば知るほど、私たちの意欲は下がっていった。

東大S班は解散決議をしたという。L、A、M、K班も自然解体状態だという。末端組織はばらばらとなり、統率すべき上部機関とは十分なコミュニケーションのとれない民青は、もはや組織といえるようなものではない。
それでも存続しているT班ではあるが、もはや闘う集団ではなく、単に仲良しの集まる同好会の様相を呈している。前年秋の宇佐美合宿で、すでにその兆候は表れていた。

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