昭和29〜31年(本郷時代)
- 山行
時計の針を3ヶ月ほど戻す。
昭和29年9月、サトから来る当てもない手紙を待って、諦めるほかないと覚悟を決めたころ、陽王から山行の誘いが来た。「東丹沢・勘七ノ沢」をやろうという。一も二もなく賛成した。
陽王は私の登山の師匠である。山梨県生まれで、幼いころから山に登っている。2年生になったばかりの頃、私は初めて尾瀬に連れて行ってもらった。この沢登りのまえにも北海道大雪縦走、後立山縦走など、何回か同行していた。
9月のある快晴の日、二人は小田急線渋沢駅まで行って、駅前で草鞋を買った。勘七ノ沢入口の二股から沢の遡行を始めた。確か、その沢にはF1からF6まで6つの滝がある(数え方によっては、8つ)。滝の左側、あるいは右側を直登するが、迂回できる場合もある。
リードはもちろん陽王だが、途中から私がトップを務めるといって譲ってもらった。ロクな技術のない私にとって、とても無謀な試みだが、構わず遮二無二に登って行った。陽王にあきれられた。失恋したという意識がそういう行動をとらせたのかもしれない。
帰りは、大倉尾根を走り下った。
初めての登山は、更にさかのぼる大学2年生になったばかりの昭和28年5月初旬である。私は、20歳の誕生日を目前にしていた。陽王が山へ行こうと誘ってくれたとき、タイミングよく奨学金を受け取ったばかりで、数千円のお金があった。私は誘いにすぐに応じた。同室の田中も誘った。
ルートは、沼田駅から大清水へバスで、そこから歩き始め、三平峠を経て長蔵小屋に至る。翌日、尾瀬沼を経て、燧ガ岳(標高2356m)に登り、帰りは檜枝岐、富士見峠を越えて戸倉に帰る。
パーティは3名。リーダーは陽王、後に従うのは田中と私で、いずれも全くの初心者だ。写真に写っている服装をみれば歴然。田中と私は、レインコートに学生帽。靴はさすがに新調した登山靴らしい。陽王は、ちゃんとしたヤッケに正チャン帽らしきものを被り、ピッケルを持っている。田中と私は、陽王に借りたもう1本のピッケルを二人で共用する。今見ると、まことに不思議な登山姿である。
息をはずませて登った三平峠から眺めた風景は忘れることができない。凍りついた尾瀬沼と斜面の白樺の疎林、そこだけが妙に青黒い沼の前の小さな長蔵小屋。長蔵小屋の前以外は、沼は一面に凍りついている。
山の歌もこのとき陽王から教わった。「夏の想い出」も「アルプス一万尺」、「四季」、そして「雪山賛歌」も。
翌日、凍った尾瀬沼の湖面を歩いて渡り、燧ガ岳にアタック。天候にも恵まれ、最高の頂上だった。しばらく展望を楽しんだのち、私たちは下山を始めた。
下山を始めて間もなく、その事故は起こった。ちょっと危ないかなと思いながらも、私は雪斜面をグリセードで下って行った。不覚にも私の身体は意志に反してスリップしてしまった。何回となく宙を飛んだ。一度はピッケルで抑えたが、またはじかれて、二度三度、幸いにもブッシュがあって、私の身体はその中に突っ込んでいた。瀬戸際だったという感慨もなく、苦笑いして立ち上がり、雪を払ったとき、私は帽子をなくしていることに気づいた。
角帽。新入生の時、新しい角帽は誇らしくもあったが恥ずかしくもあり、靴墨やらインクやらを塗り込んで古臭く見せた角帽。通学するときはもちろん、遊びに行く時もいつも被っていた角帽。
私はご苦労さんにもいまスリップしたばかりの斜面を30mばかり登り返した。帽子はなかった。100mも登ればあったかもしれない。
がっかりして、フト見上げた目に、いま下ったばかりの燧ガ岳の稜線がくっきりと青空を区切っていた。空は、私が今まで見たこともないほど深い青色だった。
私は突然、ばかばかしくなり、また急にさばさばした気持ちになって、友達の後を追って再び滑り降りて行った。
私の角帽は、私の18歳から19歳の青春とともに凍りつき、燧ガ岳の中腹に埋もれているだろう。私は、それ以来、卒業するまで、角帽をかぶらなかった。2年生になってまで新しい角帽をかぶるのは恥ずかしかったのかもしれない、角帽と学生服を憎んでいたのかもしれない。しかし、本当のことを言えば、買う金がなかったのだ。
この尾瀬行きの翌年(昭和29年)、私の山行は7月から9月までに集中している。この期間は、もちろん夏山のシーズンである。
7月には、鉱山学科3年生全員で、教官引率の現場見学である。北海道の空知炭田もコースに入っている。この機会に大雪山に登ろうと陽王が言い出し、仲間を募った。私を入れて5名が集まった。
学科の授業としての現場見学に、大きなキスリングを背負っていくのだから、教官はじめ皆から大層、ひんしゅくを買った。
このザックにはアメリカ進駐軍払い下げのシュラフとキャンバス製A型テント(三角テント)が入っている。新材料で合理的に作られている現在の格好いい品物に比べて、かさばるし、重い。これに飯盒などの炊事道具と食料だ。お米は配給制だから、現地調達というわけにはいかない。
実習が終わり、5人全員うきうきした気分で列車に乗り込み、富良野に向かう。
山には上富良野から入る。十勝岳、オプタテシケ山を経て、トムラウシに至る。トムラウシ(標高2141m)は広大な大地の上に大岩石を積み上げたような頂を持ち、周囲には大小の池沼をめぐらし、十勝連峰、表大雪中、唯一アルペン的な風貌をもつ山である。そこから化雲岳、忠別岳、白雲岳と進むほどになだらかな優しい山容となる。アップダウンもきついものではなく、快適に歩を進めて行く。
大雪の盟主、旭岳(2290m)はどっしりとした頂上をもつ。その手前の北海岳、旭岳、そして北鎮岳に囲まれたお鉢平は、今も噴煙をあげており、有毒ガスが発生しているという。最終日は、黒岳から急傾斜を層雲峡まで下山する。ロープウエイはまだなかった。
テント泊自炊で5泊6日の縦走。若さにまかせた山行だったが、素晴らしい経験だった。後年、北海道に勤務するようになって、トムラウシにはあと2回、ルートを変えて登頂した。私の好きな山である。
同じ年の8月下旬には、陽王と山野、それに私と3人で後立山に向かった。
猿倉から大雪渓を登り白馬岳(標高2933m)、頂上小屋泊、翌日、鑓ケ岳から不帰キレットを越えて唐松岳へ、さらに五竜岳(2814m)へと向かうが、この2泊目はどの小屋に泊まったのか記憶がない、おそらく唐松頂上小屋か。次の泊まりは八峰キレット小屋である。
五竜がどっしりとした山塊をもつ山なら、対する鹿島槍ヶ岳(2890m)は、秀麗な双耳峰である。西に、剱岳・立山連峰を望むことができる。剱の威容は神々しくさえある。いつの日か必ず登りたいと念じながら果たさず、とうとうこの歳になってしまった。残念である。
鹿島槍から爺ガ岳を経て、扇沢に下り、3泊4日の後立山縦走が終わった。
その後も、陽王とはしばしば山行をともにした。日帰り登山もいくつかこなした。
でも、私は大学の山岳部に入らなかったし、ワンゲル部にさえ入らなかった。民間の山岳会に顔を出したことがあるが、結局は入会しなかった。
統制ある行動、常に技術の向上を目指し努力しようとする意欲に欠けていた。というより、群れ集うことを嫌っていたのだろう。おかげで、私は登山技術を何も身につけない、単なる「山好き」で終わってしまった。
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