戦後史29-1

昭和29〜31年(本郷時代)


復帰

昭和29年進学、31年卒業の鉱山学科同級生23名は多士済々だった。
三高、七高、浦和高校など旧制高校から東大に進学した人たちが、まだいた。農学部を出た後、学士入学してきた者もいるし、教育学部から転科してきたのもいる。
駒場からストレートに進学してきたなかに、私のように遊び呆けていて成績不良で廻ってきた者もいたが、運動会の活動に熱中していた者もいた。たとえば、野球部のレギュラーで六大学ベストナインに選ばれたことのある者、ラグビーで全関東選抜に選ばれ、イングランドと対戦して最初のトライを挙げたという猛者もいた。また、サッカーに熱中していた男もいた。彼は、ラグビー男をして「侍」と言わしめたほどの人物であった。
また、学生運動に専念していた者もいた。もちろん、この学科を第1志望として、進学後も勉学に励む秀才もいた。大学院博士課程に進み、のちに環境資源開発研究所長を務めたものもいた。

このクラスは、駒場時代とは全く違った空気をもっていた。また、寮とも違った。私は自分の居場所を初めて見つけたような気分になっていた。
クラスの人数も少なかったし、何よりも将来は鉱山に関係する職業に就くはずという点で一致していたから、クラスのまとまりはとてもよかった。何でもみんなで相談しながらやった。たとえば、7月には全員で企業現場の見学実習に行くことはわかっていたから、その費用を稼ぐべく、学内で映画会を催したこともあった。

私はしっかり勉強し、優れた鉱山技師になろうと決心した。駒場時代とは様変わりで、まじめに授業に出席するようになっていた。サトという恋人もいた(6月までは)。
私は、沈潜した暗闇の中から、ほのかに明かりの見える世界へと復帰した、自分を取り戻した、と思った。

授業科目の幅広いことに驚いた。地質・鉱物学分野、機械工学分野、もちろん採鉱学分野の科目も多い。選鉱工学はむしろ化学分野に近い。測量学、物理探鉱などという科目もあるが、全般的に数学を多用する科目が少ないのはちょっと拍子抜けだったが、数学を不得意とする私には好都合であった。
さらに、鉱山法律、鉱山衛生学などという科目もあり、この学科名に工学の名称がつかない理由が分かった気がした。工学部に所属する学科は、多くが○○工学科という名称で呼ばれるが、鉱山学科にも建築学科にも「工学」がつかない。

私たちが卒業した後、学科の名称変更や統廃合が行われて、様相は大きく変わった。鉱山学科は資源開発工学科となり、更に地球システム工学科となり、現在はいくつかの学科と統合され、システム創成学科地球システム工学コースとなっているようである。

現場見学や実習が多いのも楽しかった。
3年の夏休みは、日立鉱山、常磐炭鉱、空知炭田などの現場見学があった。冬休みには地質実習として、鳳来寺山、佐久間ダム工事現場、久根鉱山などを訪れた。
これらはすべて教官引率の下、クラスメート全員で団体行動する。訪れる先々に先輩がおられ、夜は盛んに歓待してくれる。その費用は、おそらく会社持ちだったのだろうと思う。先輩方の話は興味尽きなかった。自分の将来をみるようで、みんな熱心に聞き入っていた。
4年の夏休みは、後で述べるように、1ヶ月にわたる一人ひとり個別の現場実習があった。

11月になって、私は千葉市稲毛の丘寮を出ることを考え始めた。陽王はすでに出て行ってしまった。寮で親しくしていた林も高橋も出てしまった。いかに言っても、ここは不便である。
12月に入って、幸いなことに家庭教師の口が見つかった。東上線の上板橋である。とても稲毛から通えるものではない。私は練馬区桜台に引っ越した。賄い付きの下宿で、最寄駅は西武池袋線桜台である。

生活費に四苦八苦する者が、よくも賄い付き下宿に移れたものだと思うが、家庭教師のアルバイト料を当てにしてのことに違いない。賄い付きとはいえ、夕食はアルバイトや活動で遅くなって、食べられないことも多かったが、それでもきちんと机の上に夕食膳が置いてあった。

そのころの桜台は、大根畑の広がる大地の上に民家がポツンポツンと離れて建つ全くの田園風景の中にあった。私の住む2階の部屋から、数十メートル離れた家で、ある日行われた葬式の一部始終が見渡せた。そこにも東大生がいて、彼は冬季富士登山訓練中、雪崩に巻き込まれ遭難、亡くなったのである。

12月5日の日記。

下宿に移って、ひとりで勉強できて、さぞ快適だろうと思っていたが、休日などさすがに話相手もなく、さみしい。映画「カサブランカ」を観る。

暮までに6,000円の金を作り出さねばならぬ。
本を売らんとする。本を売ることの何と愚かなことか。この1冊の文庫本にも僕の歴史がある。倉田百三に、内村鑑三に、感激したこともあるのだ。引越しの度に、僕についてきてくれた本だが、仕方ない。
一昨日は、『解析概論』と“Optical Crystalgraphy” を売って、1,100円になった。

(注:さらに日記は続く。突然、石川啄木が出てくる。困窮のなかにある自分を啄木になぞらえたくなったのだろう。啄木の詩を引用している)

場所は、鉄道に遠からぬ、
心おきなき故郷の村のはづれに選びてむ。
西洋風の木造のさつぱりとしたひと構へ、
・・・・・・(中略)・・・・・
さて、その庭は広くして、草の繁るにまかせてむ。
夏ともなれば、夏の雨、おのがじしなる草の葉に
音立てて降るこころよさ。
またその隅にひともとの大樹を植ゑて、
白塗の木の腰掛を根に置かむ−−
雨降らぬ日は其処に出て、
かの煙濃く、かをりよき埃及(エジプト)煙草ふかしつつ、
四五日おきに送り来る丸善よりの新刊の
本の頁を切りかけて、
食事の知らせあるまでをうつらうつらと過ごすべく、
・・・・・・(後略)・・・・(石川啄木『呼子と口笛』「家」)

私は、どんな生活を望んでいたのだろう。あちらに振れ、こちらに戻り、またあちらに振れ、心は大きく揺れに揺れていたのだろうが、もう落ち込むことはなかった。

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