昭和27〜29年(駒場時代)
- 稲毛
進学振り分けで鉱山学科進学が決まってからの半年間、前にも増して授業に出なくなった。授業に出なくなったのは経済的理由も大きく、一時期、アルバイトに専念した。
世田谷区桜新町にある謄写用の原紙を製作する家内工業的零細企業に11月から長期雇用された。毎日ではないが、規則的に勤務して、小さな作業場――といえるほどのものではなく、古い倉庫といった方がいいかもしれない――で、パラフィン、樹脂、ワセリンなどを熱して溶かし、混合する。その溶液を薄葉紙に塗り、乾かすと、謄写用原紙が出来上がる。
作業場での仕事が主なものであったが、時にはお得意様のところに商品である原紙を届ける仕事も行った。ある時は目黒区碑文谷まで自転車に乗って届けたこともある。当時、このあたりはいかにも東京郊外という感じで、この田園風景の中をスイスイと自転車で走るのは、とても気持ちのいいものだった。
雇い主である社長のほかは、従業員は私とあと2人の女性だけである。この2人の女性もアルバイトだから、正規社員は一人も居ず、全員アルバイトということである。私は、授業にはほとんど出ず、通勤定期を買ってこの会社に勤務した。
前にやっていた製本作業より肉体的にずっと楽で、勤務時間も比較的ルーズだった。溶液を作る時など、炉の火口の前にかなりの時間ただ座って適当に石炭をくべていればよかったし、溶液を薄葉紙に塗ったり、乾かした用紙をそろえたりするときは、3人一緒におしゃべりしながら、のんびり作業していた。
そして私は、その女性の一人に恋してしまったのである。
彼女たち2人は近くの女子短大の同級生で、出会ったときはもう卒業していた。一人はスエといい、私より1歳年上、もう一人はサトといって、私と同年だが早生まれだから私より学年は一級上だった。
初めて会ったとき、私は作業場のなかで仕上がった謄写用原紙をそろえていた。そこに二人がサンダル履きで入ってきた。彼女たちはとびきり美人であるというのではなく、私もさして気にとめることはなかった。失礼ながら、平凡な娘たちだと思った。
以来、私たちはこの作業場で3人一緒に仕事することが多かった。適当に昼休みをとり、みんなパンを買ってきて昼食にした。私は、ピーナツバターを塗ったコッペパンが大好きで、そればかり食っていた。
そして全く偶然だが、二人とも下宿が私と同じ下高井戸駅(赤堤町の最寄駅)の近くだったから、バイトからの帰りは大概一緒だった。
サトは朗らかで、いたずら好きの少年のようなところがあった。それを私は好ましく思うようになっていた。
バイト先の畳の部屋で、それは晩秋にしては暖かい日差しの差し込む日だったが、三人一緒に昼食を摂っている時、サトは足を投げ出し、横になって、詩の雑誌を読んでいた。どちらかというと丸顔で、色白で、すらりと伸びた四肢とピアニストのような長い指をもっていた。恋心が私を突き上げるのを感じた。
アルバイトを始めて1ヶ月ほどたって、その年ももう12月半ばを過ぎたころ、サトはこのバイトを辞めて、上野松坂屋へ店員として出ると言い出した。
それじゃ、送別会をしようということになって、彼女のバイト最後の夜、スエ、サト、それに私の3人でお好み焼きを食べに行くことにした。狭い路地に私が誘って入っていく時、二人とも嫌な顔をしたが、構わず路地裏の店に入り込み、お好み焼きを焼いては食べ、ビールを飲んだ。
スエと私はなんとなくぎこちなかったが、サトは快活に振る舞っていた。結構な量のビールを飲み、私は酔っ払ってしまった。たまたまその店に、3人が行きつけの本屋のおかみさんが来ていて、ご機嫌ですね、と冷やかされてしまった。
お好み焼屋を出て、サトとスエは、これからサトの下宿で、茶菓の二次会をやろうという。
私もノコノコついて行った。狭い部屋に女物の派手な着物が鴨居から下がっていた。いかにも若い女の子らしい部屋で、ちょっとばかりどぎまぎした。奥にもう一部屋あって、そこにサトの弟がいた。弟は高校生だったと思うが、挨拶もそこそこに友達のところへ行く、といって出かけてしまった。
スエは茶菓子を買うといって、これまた出て行った。
部屋にはサトと私の二人だけが取り残された。彼女の手の下に新聞があり、彼女はそれをパラパラとめくっていた。私にチャンスが与えられたと思った。何度も逡巡したのち、思い切って「君が好きだ」と言おうとしたとき、スエが帰ってきた。私は機会を失った。
彼女の勤務先が変わり、年が改まって昭和29年になってからも、サトと私は時々会っていた。ある時は、喫茶店で、あるいは小さな飲み屋でビールを飲みながら、きりもなく話し合っていた。
日本文学や詩の話を彼女はよくした。私がトンチンカンなことを言うと、彼女は面白くてたまらないように、笑った。よく笑う女だった。その頃、私は再び、政治的なことに関心をもつようになっていたので、それを話すと、彼女はなかなか納得せず、よく反論してきたものだった。自立心の強い女だった。
私は彼女と話すひとときが楽しかった。その頃から、私は大学入学後はじめて日記をつけるようになった。その頃の日記の一節。
お茶の水の聖橋の上から眺める東京の街、薄汚い街、看板ばかり大きな街、それすらもほほえましい。上下二段に行き交う電車、平行に走る電車、この轟々たる響きに僕は都会の鼓動を感じる。
海岸の町らしい稲毛、イギリスの田園を思わせる(注:イギリスに行ったこともないくせに)起伏が緩やかに続くこの小仲台町、身の丈までも伸びたアレチノグサ、何もかもがほほえましく、嬉しい。
そして何より嬉しいのが、このようなものまで嬉しいと感じる僕の心が嬉しい。
気がついてみたら、私は駒場時代の1年以上にわたる、あの沈潜した暗い気持ちから解放されていた。
4月から鉱山学科に進学して本郷キャンパスに通っており、6月からは赤堤町の下宿を引き払って、千葉市稲毛(小仲台町)の大学寮に移っていた。だから、お茶の水は本郷に通う際の下車駅だった。
稲毛の大学寮というのは、丘寮といって旧軍の兵舎をそのまま転用した宿舎で、総武線稲毛駅から雑木林と田圃の谷をひとつ隔てた小高い丘の上にあった。
経済的にピンチに陥っていた私は、同じく危機的状態にあった陽王と語らいあい、ここに移ることにしたのである。通学時間は長いし、電車賃もかかるが、何よりも寮費と食費が驚くほど安かったから、二人とも背に腹は代えられなかった。
6月のある日、サトが稲毛の寮にあなたを訪ねたい、と言ってきた。いつも私の方が彼女の勤務の都合も聞かず、勝手にデートの日時を決めていたが、こんなことは初めてで、私は嬉しかった。
しかし、それは別れの挨拶のつもりだった、と後になって気づいた。
彼女を稲毛駅まで自転車で迎えに行ったとき――この寮は駅まで、歩けば15分ほどの距離にあったので、寮の自転車をよく借りた――もう大分前に彼女は駅に着いていて、私を待っていた。
「寝過ごしちゃ大変だと思ってね、緊張していたの」
彼女はいつもそうだ。私と会う約束した前の晩はよく眠れないという。どうして?と尋ねることもせず、私は自転車を押して、彼女と並んで田舎道を歩いて、寮に向かった。田圃の稲は青々と伸び盛りだが、空は、間もなく梅雨の季節を迎えるかのように、曇っていた。
途中、自転車に乗せてやろうかと、振り返って彼女の横顔を見た。私はハッと胸をつかれた。彼女の、野獣のように鋭くキラキラ光る瞳、恐怖をいだかせるほどひきしめた唇。ああ、君を好きだ、いとしい、と思った。
彼女は私の部屋に入ってきて
「ずいぶん勉強しているのね、本をたくさん持っている」
本なんかどうでもいい。
「ここは、稲毛は、本当にいいところなのね、素敵ね」
「卒業したら、どうするの。やっぱりヤマに入るの?」
彼女は、栃木県足尾の産である。あの足尾銅山のあるところだ。鉱山の生活がどのようなものであるか、知り抜いているはず。私は、どちらとも答えなかった。
あまり会話もはずまなかった。私はなぜか意気消沈してしまっていた。
夕方近くなった。彼女は「もう帰る」と言い出した。私は引き留めることもしなかった。駅まで送るといって、来た田舎道を二人で歩いて行った。
駅まで送っていく道すがら、不意に、なぜかあの「黒い瞳の若者が・・・・」という歌の最初の1節が、私の口をついて出てきた。それを聞いた彼女はまっすぐ前を向いたまま、そのメロディをいつまでも口ずさんでいた。
この歌詞の続きを彼女は知っていたのだろうか。当時、歌ごえ喫茶などで盛んにうたわれた歌だから、きっと知っていただろう。
黒い瞳の若者が
私の心を虜にした
もろ手を差し伸べ 若者を
私は優しく胸に抱く
愛のささやきを告げながら
優しい言葉を私は待つ
緑の牧場で踊ろうよ
私の優しい黒い瞳
私の秘め事 父さまに
告げ口するひと誰もいない(矢沢保作詞 ロシア民謡)
雨が、ポツリポツリと降ってきた。
「この辺でもういいわ。あなたが濡れて熱でも出したら大変だから」
「ほんとにもういいの。雨が降ってくるわよ」
「一つ電車を遅らせるわ。あなた、本当に雨が降ってくるから、もうお帰りなさい」
これじゃまるで弟に対する姉の言い草ではないか。それでも駅までついて行って、それなのに電車を見送ることもせず、私は引き返してきてしまった。
寮の部屋に帰って、私は、すべては終わった、とベッドに倒れ込んでしまった。
それから電話も通じないし、手紙に返事は来ない。
7月が過ぎ、夏休みが過ぎ、9月になった。私は失恋したと悟った。終わってしまった、と限りなくさびしかった。
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