昭和27〜29年(駒場時代)
- 赤堤町
三鷹でのほぼ1年の寮生活ののち、私は世田谷区赤堤町の下宿に移った。
三鷹寮が通学に不便で、食堂の食事も好ましいものでなかったということもあるが、何より私は集団生活に辟易し、ひとりになりたい気持ちが強かったからである。
ある日、中学時代の同級生2人にばったり出会った。彼らは、それぞれ別の私立大学に通っていたが、同じところに下宿していた。私は、一部屋スペースがあるから、来ないかと誘われ、そこへ移った。今までの寮生活も初めての経験なら、下宿生活も初体験である。
ちょっとした期待をもって下宿生活を始めた。ところが、しばらくしてこれは失敗だったと気づいた。集団生活には、それなりにルールというものがある。それを好むと好まないとにかかわらず、それがある程度生活を規制し、生活にそれなりの規律をもたらす。
下宿生活では、そんなルールは何もない。自己規制だけである。私の生活にはますます秩序がなくなり、自堕落になっていった。
以前にもまして授業に出なくなり、昼間は下宿で本を読んでいるか、喫茶店にしけこんでいるか、渋谷・新宿で映画を観ているか、そんなことしかしなくなった。「田園」とか「らんぶる」というクラシック専門の音楽喫茶には何時間居座っていても文句は言われなかった。多くの学生で終日混んでいた。
映画はよく観に行った。渋谷や新宿の名画座にはよく通った。時には、池袋、浅草まで足を延ばすことがあった。「パリ祭」、「外人部隊」、「にんじん」、「望郷」などなど。これは封切館でみたのだったか、「恐怖の報酬」の一場面などは今でも鮮烈に思い出す。
映画のなかの架空の世界に身を置いて現実を逃避していたに違いない。映画が終わって、明るくまぶしい戸外に出てきたときの情けない気持ちといったら、なかった。
私は目標も希望も見失っていた。それを映画のなかに見出そうとしていたのかもしれない。しかし見つかるはずがない。
映画という仮想世界で、登場人物たちはその生きざまはさまざまであっても、それなりに価値ある人生を生きている。それが物語というものであろう。映画は物語であり、物語の世界に自分が一体化するなどと思い込むのは映画館に座っている一時の幻想であり、白日の下にわが身をさらせば、そのようなものは一瞬にして消え去る。
自分の現実の状況――わが能力と環境――を顧みて、その能力が劣り、環境が整っていないなら、その能力を磨くべく、また環境を改善すべく、「さあ、頑張ろう」と努力すべきなのに、そうした意欲が全く湧かない。その意欲が湧かないということに、また自己嫌悪する。
そのたまらない気持を酒に紛らわすことを覚えたのもその頃である。毎晩のように飲むことが続いた時代があった。
新宿駅西口のガード下に、小さな一杯飲み屋が何十軒となく並んでいた。そこへ出かけて、飲むのは主に焼酎である。受け皿の上のコップに焼酎を、あふれる出るほどなみなみと注いでくれる。それをまず一口すすり、受け皿にあふれた焼酎をコップに移す。確か1杯が50円、つまみは煮込みが30円くらいだった。焼酎を3杯ほど飲むと、酔っ払っていい気分で駅までの道を歩いて帰る。
こんな生活が長続きするはずがない。気持ちの問題というより先に、経済的に立ち行かなくなってしまった。
当時、私は実家からの仕送りが月6,000円、育英会の奨学金が2,000円 合計8,000円が生活費に充てられる。授業料などの学納金は、親が別途仕送りしてくれた――それを飲み代に使ってしまったこともあった――。下宿代は当時、6畳一間で4,000円、賄い付きだと7,000円程度だったと記憶する。また資料にあたってみると、昭和29年(1954)の下宿代(東京・本郷)が5,500円とある(『昭和平成家庭史年表』)。
従って、つつましい生活をしていればなんとか生きていくことはできたのだろうが、上に書いたような荒んだ生活をしていた私に、8,000円程度の収入で間に合うはずがない。アルバイトを始めざるを得ない羽目になった。
大学構内で学徒援護会によるアルバイトの斡旋が行われていた。ここで申し込んで、指定の場所に出向くわけである。家庭教師などという比較的楽で有利なアルバイトはなかなか見つからない――それが可能になって、生活が安定したのは、これから後の、3年生の終わりになってからである――。
私が最初に手掛けたアルバイトは、印刷所で製本工程のいくつかの作業をこなすことで、肉体労働である。報酬はいくらだったか定かではないが、日給250円から300円の間ではなかったか。授業を全欠席して10日間働いても、最高3,000円にしかならない。けれども、金欠病――ゲルピンといった――には勝てない。
荒れた生活―→ゲルピン―→アルバイト―→授業欠席―→落ち込む―→荒れた生活、の全くの悪循環。
この間、社会は恐ろしい勢いで動いていた。
・昭和27年(1952)5月1日の「血のメーデー」については、前に述べた。
・それに先立つ4月に破防法(破壊活動防止法)反対の第T波ゼネストが行われたが、7月には国会で成立、公布された。
・同じ7月に住民登録が実施されたが、三鷹寮ではこれを拒否したにもかかわらず、職権で登録されてしまっていた。
・10月には、最高裁が警察予備隊(自衛隊の前身)は違憲ではないと判決した。
・朝鮮戦争では、前年から断続的に休戦会談が行われていたが、昭和28年(1953)7月には休戦協定が成立した。
・同じ28年の3月、スターリンが死去し、東証株価は大暴落した。
・8月、電力産業と石炭産業の労働者のストライキを規制する「スト規制法」が成立。
・松川事件に対し広津和郎らが無罪論を展開した。
このようなすさまじい勢いで諸勢力がせめぎ合いつつも、日本全体としては「逆コース」をたどっていたこの年月の間、私は自己の内に沈潜し、ひたすら自分の生活にのみかかずらっていた。
入学して1年半、ついに進学振り分けの時が来た。
東大では新入生はすべて駒場の教養学部に所属し教養課程を履修するが、大学後半の3、4年は専門課程として、各学部に振り分けられる。理科T類の場合、基本的には理学部非生物系学科と工学部に進学する。自分の希望学科を申請し、当該学科の定員を超える場合は、教養課程1年半の成績順に上位から定員まで進学許可される。不合格の場合は第2志望を出す。
前に述べたように、私の希望は、それほど思いつめたものではなかったが、工学部建築学科だった。欠席ばかりの私の成績では到底難しいと思ったが、一応希望は建築に出した。案の定、不合格。やむなく工学部鉱山学科を志望した。
建築一本で進んでいた陽王も希望の建築学科に入れず、私同様、鉱山学科に進学した。
「どうするのだ、俺はもう鉱山技師でよいと思っている」と、私が聞く。
陽王が答える。「やむを得ないから、2年間鉱山の勉強をする。そして何とか卒業したうえで、建築学科に学士入学する」――学士入学は定員外である――
そこまで考えている陽王に私は感服した。彼には、決して捨てようとしない目標があり、それをどこまでも追求しようという情熱がある。ロマン・ローランの『ジャン・クリストフ』に、次のような言葉がある。
「自分の最も多くは、現在あるがままの自分ではなくて、明日あるだろうところの自分であると。・・・・きっとなってみせる!・・・・彼はそういう信念に燃えたち、そういう光明に酔っている。ああ、今日によって中途に引きとめられさえしなければ!」(豊島与志雄訳 岩波文庫)
あくまでも「明日あるだろうところの自分」を追求しようとする陽王と、「今日によって中途に引きとめられ」てしまった私と、この違いはとても大きい。
後のことになるが、陽王は希望通り建築学科に学士入学し、大学院に進み、建築設計事務所を立ち上げて主宰し、傍らある芸術系大学で教授として長年教鞭をとってきた。
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