昭和27〜29年(駒場時代)
- 教養学部
本郷安田講堂で行われた入学式には出なかった。入学式から授業開始まで1週間ほどの期間があって、その間の生活費を節約しようと考えたからである。
クラスは、理科T類9B組である。Bというのは、第2外国語ドイツ語未修クラスである。ドイツ語既修者はA、フランス語既修がC、未修がD組という分け方である。
クラスで撮った集合写真をみると、実に60名がいる。これだけの人数で、語学の勉強をしたというのは驚くべきことである。
ドイツ語はまず文法から学習を始める。このテキストがすべて花文字で書かれているのに、まず参った。校章などによくあるヒゲのたくさんついたあの活字である。読みにくいことおびただしい。
また、こちらは「アー、べー、チェー」から始めて「デル、デス、デンと大騒ぎ」しているのに、もうすっかりドイツ語になじんでいる級友も相当数いた。「未修クラス」のはずだが、都会の高校では早くからドイツ語を教えているらしく、かなりできるのがいる。ならば「既修クラス」に入ればいいのにと思うが、どうして入らない?
後年、大学で教鞭をとるようになって、新入生に英語の能力別クラス編成を試みたことがあった。そのための一斉試験を行ったところ、総じてその成績が著しく悪い。入試結果と比べても非常に悪い。
教員たちの意見は、学生たちが上級クラスに編入させられるのを避けるため、意識的に得点を下げようとしているのだ、ということだった。下級クラスで楽をしようなんて情けないことだと思ったが、もしかして東大生も同じ?
なお、前期3か月でこのドイツ語文法は終わり、後期には驚くべきことにテキストが実存主義哲学者カール・ヤスパースの著書に変わった。題名は何だったかはっきり覚えていないが、『哲学入門』か何かだったのだろう。情けないことに、私はドイツ語学習への意欲が萎えてしまった。
ドイツ語だけでなく、他の科目も次第に出席しないようになった。理科だから実験科目も多い。それなども単位取得できるぎりぎりまで欠席した。教室に出ないのだから、必然的にクラスで親友と呼べるような友達ができない。友達ができないから、またクラスは遠ざかる。この悪循環が続いた。
4月はあっという間に過ぎて行った。これまで両親の下でのんびりして暮らしていたのが、急に東京の喧騒のなかに一人で投げだされたのである。毎日がカルチャー・ショックの連続だった。でも、4月中は東大に入ったという誇らしさもあり、また手続きやら郷里の親や友達への連絡など、やらなければならないことがいっぱいあったから、あれこれ考え込む暇はなかった。
5月に入り、授業が本格化する頃、自分の学力・知識のなさを日に日に思い知らされることになった。高校時代までは、授業の予習・復習等ほとんど必要としない“優等生”として自他ともに認めていたが、大学に入ってみて自分よりはるかに能力に優れる人のいかに多いことか、悟らされる幾多の場面に遭遇した。
自分なりに自覚したことの一つに、私は理数系の能力が級友に比べて劣るという事実であった。高校時代、理科や数学が得意だと思っていたのは、田舎者の自惚れにすぎなかった。
自分は、自分の道の選択を誤った、と思った――事実、「進適」の結果は文系の得点に比べて、理系の得点が低かったにもかかわらず、理Tを志願した――。
でも、転科するなり、再受験するなり、その選択を正す方策を考えようとしなかった。一般的にいって、そのようなやり直しはうまくいったとしても、それだけ進級が遅れる。そうした短い期間であっても、人生をやり直すことを私は極度に恐れた。
何よりも、貧しくつつましい生活をしている両親に、経済的に迷惑をかけたくない、という思いがあった。この思いは、大学生活4年間を通じて私を支配し続けた。親からの仕送りに増額を要求するよりは、自分で授業を長期に欠席してもアルバイトで補おうとした。
2年生のときの進学振り分けで志望する学科に進学できないとき、もう一度2年生をやり直して改めてチャレンジするという友人もいたが、私にはそういうことは考えられなかった。
また、就職難の時代であったが、希望するところに入れないと、卒業を1年延ばし、改めてチャレンジするという友人もいたが、私にそのようなことは許されない、と決めてかかっていた。とにかく、最短距離で社会に出て、親から独立し、親の負担を軽減することが、最優先の課題である、と思い込んでいた。
そのようにして卒業を急いだ私が、後年、社会に出てから人生をやり直す決心をしたときには、すでに9年が経過し、はるかに長い期間の後の転向というハンディキャップを負うことになったとは、皮肉なことである。
また、クラスの約半数は浪人生活経験者だった。彼らには何とはなしに余裕があった。私はあせっていた。何か、つかまえどころのない焦り。あせればあせるほど、私はしだいに落ち込んでいった。当時、“五月病”という言葉があったかどうか知らないが、私はまさしく“五月病”にかかっていた。
私は落ち込んでいたが、しかし自分の内に閉じ籠ってしまったのではなかった。
三鷹寮の寮友たちとの生活に楽しみを見つけようとした。このことは、前に述べた。寮生活はそれなりに楽しんだが、授業にほとんど出なくなってしまった。
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