戦後史27-2

昭和27〜29年(駒場時代)


東大三鷹寮

東京大学理科T類に合格し、駒場の教養学部で学ぶことになった。

住まいは、東大三鷹寮に入った。
駒場寮に入寮申し込みをしたがはねられ、やむなく三鷹寮に入った。三鷹寮は旧制東京高校のあったところとのことで、雑木林と畑に囲まれた広い敷地のなかは草ぼうぼう、入口のはるか先に木造の建物が何棟か建つ、実に殺風景な風景のなかにあった。
ここにトランクひとつを下げて、とぼとぼと入っていったが、全く人の気配がない。寝具はあらかじめチッキ(鉄道手荷物)で送ってある。

割り当てられている東寮2番を探していると、一人の人物が突然のように廊下に現れた。陽王である。陽王は、私が入学後初めて会った東大同期生であり、4年間を通じて変わらず親しい友となった。

簡単な自己紹介ののち、私が理Tと知って、「君はどこへ進学するのか。僕は建築学科の積りだ」という。あわててしまった。進学振り分けは1年半後であり、ゆっくり考えようとしていた私は、全くの間抜けのように感じてしまった。
工学部なら建築もいいな、くらいにしか考えていない私は、それに適性があるかどうかも分からずにいたが、つい「僕も建築の積りだ」と答えてしまった。

陽王は大層喜び、手を握り締めて「互いに頑張ろう」といった。それ以後、彼は私をパートナーのように考えたのか、「僕はデサインがやりたい、君は構造をやれ」と決めて、しばしば将来のことを語り合った。ル・コルビジュエの名前は幾度となく彼の口から出、私もその名前を覚えてしまった。
確かに、彼はスケッチさせてもうまいし、ベレー帽的なもの被って、服装も何となく芸術家っぽいものだった。私はといえば、角帽に詰襟金ボタンの学生服である。この不釣り合いな恰好のコンビで渋谷や新宿、池袋とよく飲み歩いた。

寮の部屋は、1部屋6人が2段ベッドに寝る寝室と、廊下を隔てて向かいに2部屋共用の自習室が割り当てられていた。たとえば、東寮2番のわれわれは1番の連中と自習室を共用する。したがって、合計12名が自ずと知り合いになり、共同行動をとることが多くなる。
ちなみに、陽王は隣室1番だった。
これはなかなかいいシステムだと思う。いつでも寝たい連中は寝室で布団を被ればいいし、みんなが寝ていても、一人だけ自習室で何かをすることもできる。

後年、留学したアメリカの大学――Rensselaer Polytechnic Institute――の寮がこれと同じシステムだった。2人用のベッドルームが廊下の片側に並ぶが、2部屋の中間にシャワーとトイレのスペースがあって、隣同士どちらの部屋からも使える。廊下の向いは自習室で、隣り合った2部屋の合計4人がそれぞれ専用の机をもつ。
ただし、東大三鷹寮ではトイレ・浴室は別棟、食堂も別にあった。

入寮後間もなく、5月1日、あの「血のメーデー事件」が起こった。
私自身は参加しなかったが、三鷹寮生のなかにはこれに参加し、負傷して逃げ帰った者もあった。私服が寮の内外をうろついているという情報もあった。
事実、報道によれば、デモ隊から1232名が逮捕され、そのうち261名が騒擾罪で起訴された。

高校時代の反動か、私はそういう活動に関心を失っていた。
それでも、時には全学連(全日本学生自治会総連合)主催の集会やデモ行進には、興味本位で参加したりした。ある時、こんなことがあった。
学生のデモ隊と機動隊が対峙し、おそらく無許可のデモだったのだろう、機動隊の解散命令に学生側が応じないため、ついに機動隊の実力行使が始まった。警棒をふるって襲いかかる警官に恐れをなして、学生たちは散り散りに逃げまどった。
私は見知らぬ学生4〜5人と、渋谷のどこか今も思い出さないが、公衆トイレのなかに逃げ込んで、追いかける警官をやり過ごした。しばらく潜んでいたが、もういいだろうとそろりそろりとトイレから出てきて、お互いの顔を見合わせて苦笑い。これぞまさしく「雪隠詰めだ」。

驚いたことに、このなかに当時の全学連委員長がいたのだ。
さあ、大変だ。我々はともかく、全学連の委員長ともなると、パクられるかもしれない。彼だけはどこかに逃がさなければならない、と相談の結果、東大の駒場寮まで送ることになった。私たちは彼の護衛よろしく、裏道をたどって駒場寮にたどり着いた時は、ホッとした。ここなら警官もそう易々とは入ってこられない。
一つ感心したのは、彼は常に『小六法』をポケットに携行していることだった。

三鷹寮からの通学は大変だった。
寮は三鷹市新川にあり、最寄駅が三鷹台で、ここから駒場の教養学部まで井の頭線を利用して通学する。寮から三鷹台駅まではオンボロのスクールバスが運行されるようになったが、入寮したばかりのころは、20分ほどの道のりを歩かねばならなかった。
舗装もしてない、雨の日など、あの関東ロームのぬかる道を歩いて通うのは難行苦行であったから、そういう日は学校へ出ないで、寮に閉じ籠ることも多かった。

通学は大変だったが、寮周辺の風景は好きだった。武蔵野の面影を残す雑木林、広くゆるやかにうねる畑。その畑から夜陰に乗じてスイカを失敬するという悪行をした者もいた。

一高(旧制第一高等学校)時代からの伝統かどうか知らないが、ストームと称する何とも野蛮な行為が、時として寮内を吹き荒れた。夜中に突如として、金たらいなどを打つ鳴り物入りで、廊下を騒ぎまわるのである。安眠と静穏を妨げるいやがらせ行為である。
私たちの東寮が、新しくできた2年生中心の西寮から襲われたり、東寮から西寮に進撃することもあった。東寮のなかで自爆的に行われることもある。廊下に備え付けてある消火器を使うなどというひどいことをやる者もいた。若さの発散と言えばそれまでであるが、新入りの寮生にとって、初めて時は心から驚いてしまった。

コンパと称する親睦会もしばしば行われた。酒が入る場合もあるし、ない場合もある。
ヤミ鍋と称して、各自持参の食材を大きな鍋にぶち込み――その時は電灯を消すから、ヤミ鍋――、それを煮立ててみんなで食するのである。何がぶち込まれているか、皆おっかなびっくりである。食えるものならまだいいが、ひどいものは靴の皮製中敷きなどというものが出てきたりする。

コンパも回数を重ねるうちに、こうして男だけではつまらないということになってくるのは必然である。といって、身近に女性はいない。
吉祥寺駅の向こうに東女(東京女子大学)があるではないか、と言い出した者がいた。といって、女子大にわれわれ男子が乗り込むわけにはいかない。誘い出す手はないか、といっても、東女はどういう仕組みになっているのか、女子寮はあるのかなど、まず情報収集しなければならないということになって、私と後に仏文科に進学する友達と2人が、その役割を担わされた。

早速、2人で何はさておき東女のある善福寺へ向けて足を伸ばした。どうやって情報収集したのか定かに覚えていないが、おそらく下校する学生をつかまえて聞き出したのかと思うが、とにかく学生の寄宿舎はあること、それに東寮と西寮とがあって、相当数の学生が寮生活を送っていること、この二つのことが分かったので、帰って同室のみんなに報告した。

手紙を出そう、ということになった。もちろん、名前もわからない。われわれは東寮2番だから東女でも同じ「東寮2号室様」で出そう、ということになって、理系のくせに文章に長け、字もうまい隣室の男(彼は後に数学科に進学)に手紙を書かせ、投函した。
投函はしたものの、はたして宛名のところへ届くか――舎監に没収されてしまわないか――、届いたとして果たして読んでくれるか、読んだとして果たして返事をくれるだろうか、その返事は誘いに乗る色よい返事か。このいくつもの段階を経るたびに成功の確率は低くなり、最終段階では限りなく0%ではなかろうか。

しかし、奇跡は起こった! 数日して返事が来た。しかも、誘いに乗るという色よい返事。寮友たちは欣喜雀躍、足の踏み場もないほど。
約束の日時に、約束の井の頭公園に、6人全員で出向いた。先方は4人、いずれ劣らぬ美人揃いの女子大生がやってきた。私たちはたちまち打ち解け、和やかで幸せなひとときをともに過ごした。
それから何回か一緒にピクニックに行ったり、彼女たちを三鷹寮に案内したりした。今でいう“合コン”もよくやった。

しかし、それを機に、特定の人と個人的に親しく付き合うということはなかった(と、思う)。私もそのなかの一人にそこはかとない好意をもったが、私たちはあくまで集団として行動するという暗黙のルールを守った。
もちろん、そこに一組のカップルが生まれたとしても、それはそれでみんなから祝福されたに違いないが、まずは集団として行動するという意識の方が強かった。

寮という共同生活は、やはり特異な意識・感情を生み出すものだった。共同生活に必要な事柄が、それと意識されないまま自ずと制度化されるものである。三鷹寮という新しく作られた寮である――創立は私たちが入寮した2年前の昭和25年――にもかかわらず、寮生たちは旧制高校寮の伝統を継ごうとしていた。
私たちには、集団としての一体感を養うことが必要であり、集団への献身ということを、共同生活を通じて学ぶべきである、という意識が支配していた。現に、私自身もそのことは意識していた。しかし、ストームなどという行為にはとても我慢がならなかったし、ヤミ鍋も私の趣味ではなかった。

同室の友達は6人中4人が文系だった。隣室の半数も文系だった。私は理系の授業を投げ出して、文系の連中と付き合うことに楽しみを見出していた。
寮の部屋で『ジャン・クリストフ』を談じ、レーニンや毛沢東を論じた。音楽好きの友がいて、レコード室でクラシックを聞き、また彼のうたうシューベルトの「冬の旅」に聞きほれた。

レーニンや毛沢東を論じても、自分たちで何らかの行動を起こすということはなかった。むしろ、酒を飲んでは、旧制高校の寮歌を皆でうたうことを好んだ。
「栄華の巷低くみて」とうたったとき、自分たちはどんな感情をもっていたのだろう。東京の街は、まだまだ戦後の無秩序をあちこちに残していたけれど、田舎出の私にとっては栄華の街そのものと感じられた。
また、栄華の巷を低く見る、といういい方のなかに、うたっている自分たちは「選良」であり、一段の高みから巷を見下ろすという匂いがしないでもない。一高の伝統を継ぐ東大生にそれがなかったとはいえまい。しかし、私に関していえば、栄華の巷を低く見ることは決してできなかった。私にとって東京は憧れの栄華そのものだった。
早稲田、慶応はじめ六大学の校歌・応援歌を替え歌にしてよくうたった。いずれもそれらの大学を貶めるような替え歌である。東大の応援歌「ただひとつ」――これは替え歌にはしない――は愛唱歌の筆頭だった。

もちろん、寮友のなかには学校の授業によく出席して、夜遅くまで勉学に励む学生も多かった。また私のように、授業にはあまり出ず、昼間は自分の好きな本に読みふけたりする学生も少なくなかった。彼らは、夜になれはマージャンにうつつを抜かしていたが、私は根っから勝負事が嫌いで、参加することはあまりなかった。

私の同室に、後に応用物理学科に進学した男がいたが、彼はある日からばったり自分のベッドから出てこなくなった。食事とトイレのときは起き上がるが、それ以外の時間、昼も夜もベッドから出てこない。
1週間ほどたったある日、突然に「分かった」と言って起き上がってきた。この間、数学の一つの問題を考え続けていたらしい。それが解けたというのだ。すごいヤツがいるものだとつくづく感じ入ったことである。

冬のとても寒いある日、矢内原忠雄総長が三鷹寮に来られたことがあった。
風雨の強い日で、停電になってロウソクの明かりで出迎えたことであった。視察が目的だったらしいが、寮生たちに短い講話をされた。話の内容は忘れてしまったが、何という高貴なる人かと、深い感銘を受けたことだけは覚えている。

ここに、『雑木林』と称する雑誌がある。三鷹寮OBで結成する東大三鷹寮友会誌ということになっているが、その創刊号(昭和35年4月)の巻頭に、矢内原忠雄先生の揮ごうになる「愛」という一字が掲げられてある。決して達筆とはいえないが、見れば見るほど、すべてを包み抱いてくれる包容力を感じる名筆である。

寮生の間には常に駒場寮のことが意識にあったと思う。半ば対抗意識のようでもあり、同時に一軍に対する二軍のようないささか屈折した感情でもある。駒場寮は一高以来の自治寮の伝統を受け継いできたとされ、三鷹寮もそれに倣おうとした。
寮の共同生活は、寮生が自ら定めた規則に従い、互選された寮委員会が秩序の維持にあたり、寮運営の責任をもつ。大学側は寮生の自治に一切干渉しない。こうした形式は、三鷹寮でも駒場寮と大きな違いはなかったようだが、実態はだいぶ違っていたのではないかと思う。三鷹寮の方が、はるかに個人主義的ではなかったか。寮の総代会の出席率はすこぶる悪かったというし、寮委員が総代を呼びに行くと、部屋ごともぬけの殻ということもよくあったという。
寮委員の献身的努力には敬服していたが、私自身は寮委員などの役職に就くことを極力避けていた。

集団への献身ということを学ぼうとせず、逆に集団に対し自己防衛するということに傾いていった私は、そろそろ1年を過ぎようとする頃、退寮することを考え始めていた。

ここは現在、「東大三鷹国際学生宿舎」として、約3割が外国人学生、4分の1が女子学生とのことである。すべて1人個室で、シャワー・トイレユニット、ミニキチン付きである。

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