昭和27〜29年(駒場時代)
- 上京
昭和27年(1952)に入り、いよいよ進学先として志望校を決めなければならない。絶対的条件は授業料の安い国立大学であること、もう一つは私自身の希望として東京に所在する大学であること、この二つである。
とすれば、東京大学、と考えた。しかし、東京に所在する国立大学は東京大学のほかにたくさんあり、自分の能力を自覚すればもっと別の選択があり得るはずであった。
その当時、すべての国公立大学受験生に課されていた「進学適性検査」の結果が多少良かったことも私の選択に影響したのだろう。だからと言って、東大を選ぶというのは無謀だ、と先生にも親にも言われたが、私の意志は変わらなかった。
ちなみに、この進学適性検査というのは、「進適」と略して呼ばれ、大学入学後に期待される学習への可能性、能力があるかどうかをみる一種の知能検査で、筆記試験である。昭和24年(1949)から昭和29年までしか実施されなかった。
また、なぜ東京でなければならないのか、その根拠も実に薄弱である。それは、日本の首都だから、せっかく勉強するのだったら、そこがよい、くらいにしか考えていないのである。
3月、入学試験のため上京することになった。
私にとって、初めての東京である。それまでの私は、東は岡山、西は広島、北は伯耆大山までしか行ったことがなく、南は四国に渡ったこともなかった。当時、小学校はもちろん、中学でも修学旅行はなかった。高校の修学旅行は自由参加で、私は参加しなかった。
大阪さえ知らぬ井の中の蛙である。それが、いきなり東京である。 親戚さえ、東京には1軒もない。やむなく2年前に東大に入学した高校の先輩を頼ることにした。
福山駅で、夜行急行「安芸」に乗り込んだ時の心細さ、不安といったらなかった。同じような不安を、後年、もう一度経験する。それは、アメリカに留学するため、羽田でノースウエスト航空に乗り込んだ時である。初めての海外である。いい歳をして、30歳を過ぎていたが、心細くて仕方がなかった。その時、この初めての上京の頃のことを思い出していた。
急行「安芸」は翌朝、品川駅に着いた。ホームまで出迎えてくれた先輩の顔を見て、心底ホッとした。山手線、井の頭線と乗り継ぎ、東大前で降りた。
ここへ来るまでに、早くも驚かされることがあった。電車のドアが、乗り込むや否やいきなり背後で閉まってしまうのである。私の故郷の福塩線など、のんびりしたもので、みんなが乗り込んで、しばらくたってからゆっくりと閉まる。駆け込もうする人がいると、少々遠くにいても、もう一度ドアを開けて待ってくれる。
東京の電車は容赦しないということを、上京初日にして学んだ。
それは、まさにカルチャー・ショックであり、その後、それはさまざまな場面で何ヶ月か続く。
駒場寮に入った。入試期間中、ここでお世話になるわけである。
先輩は、隣のベッドを指して、そこに寝るように、という。帰省した同室の友人の、私にとっては他人の、ベッドである。ベッドの下を見ると、どこも埃がうず高く積もっている。これにまた驚いた。
食事は寮の食堂で摂れ、ということで朝食夕食はそこで世話になったが、料金を支払った覚えがない。先輩が立て替えて払ってくれたのか、それとも無銭飲食だったのか。
明日は試験初日という前日、興奮して夜寝付かれないと困るということで、運動して来い、という。皇居を一周してくるといいだろうというわけで、道順を教わり、皇居を歩いて一周してきた。
試験は5教科8科目である。数学は、解析T、Uを選択した。問題は理科と社会科である。
化学は最も苦手としたので、物理のほかには生物を選択した。理科T類を志願し受験する者が生物を選択するとは、普通ではない。なぜなら、理科T類は、主として非生物系の理学部・工学部へ進学するコースだからである。
社会科は、日本史のほかに時事問題という科目を受験した。記憶ものを不得意とする私は日本史だけで手いっぱいで、世界史や人文地理までとても手が廻らなかった。時事問題では、憲法の問題が出た。憲法には昔から関心があったから、これはラッキーだった。
国語の選択問題では、古文は敬遠して、漢文を選んだ。
このように私の入試科目選択は、堂々と大手門から攻めるのではなく、搦め手から攻める姑息なものであった。でも、そのおかげで合格したのかもしれない。
2期校は――当時は、国立大学は1期校、2期校と、2回だけ受験が可能だった――横浜国立大学を受験した。このときは、ちゃんと受験雑誌を調べて、そこに載っている旅館に予約して宿泊した。
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