戦後史24-5

昭和24〜27年(高校時代)


黙とう拒否事件

昭和26年6月のある日、事件は次のようにして起こった。
きっかけは、その年の5月17日の皇太后崩御である。6月に入り、貞明皇后と追号、大葬の儀が執り行われた。

学校では貞明皇后の死を悼み、全校一斉に3分間の黙とうをささげることになった。これが全国的なものだったのか、それとも広島県教育委員会の指示によるものか、本校だけの独自の考えによるものか、それは知らない。
全校生徒は校庭に集まり、神妙な顔をして3分間の黙とうを捧げた。もちろん、私もその一人である。ところが、生徒のうち3人だけがこれに参加せず、生物教室で顕微鏡をのぞいていたのである。
問題はここから始まる。

結果だけをまずいえば、生徒の一人がいったこと「ケッタクソ悪い」、この一言に集約されるような事件だった。

以前にも書いたように、この高校は生徒も教員も自由と創建の気風にあふれていた。
若き校長先生は、俳句をよくし、論語と芭蕉を愛読する自由主義者として知られていた。 助ける教頭先生は教員中最年配で、漢文の担当だが、授業では白楽天の詩しかやらなかった。だから、あだ名が「白楽天」。酒を愛し、飲めば西も東も分からなくなるほどだったが、若い人には理解があった。
有名な作家を伯父にもつ若い国語の先生は、暗い教室を嫌って、生徒をよく裏山に連れ出し、そこで芥川龍之介を論じ、太宰治を談じた。
英語の先生も若かった。目下の希望は、官費でアメリカに留学することだった。そのために必死で勉強していた。それが生徒たちにも直に伝わる。先生の勧めもあって、生徒たちは1年生の時から英英辞典を引くことを覚えた。

誰もが自分たちの新しい学校を作り上げるのだという、燃えるような情熱をもって生きていた。私たちには夢があった。
先に引用した校歌は、校長の作詞になるその第1節だが、第3節は次のように続く。 「友よ 友よ/ 眉あげて進め/ 自由と責務の/ きびしい地平を/ 」

黙とうに参加しなかった3名は、生徒会執行副委員長と2名の生物クラブ員である。 当時、前述したように、私は生徒会執行委員長だった。あとで、この3人のことを聞いた私は「なかなか勇ましい奴らだな」と思っただけで、そのまま家に帰った。

夕食を摂っている最中に、その副委員長が私の家に訪ねてきた。「まあ、上がれ」というわけで、私の2畳の勉強部屋で聞いて驚いてしまった。 「今日、校長室へ呼ばれた」というから、それはあり得ることだし、相当の説教も受けただろうと聞くと、説教どころではないと彼はいう。

「黙とうしなかったのは悪かったと謝ればよし、さもなければ退学だ」と校長に言われたという。生物クラブの2人は平謝りに謝ったそうだが、副委員長は頑として応じない。
「スターリンが死んだというならともかく――スターリンはソ連共産党書記長で、当時はまだ一部の人にとって熱烈な崇拝の対象だった、1953年没――、一人のおばあさんが死んで、それが天皇の母だというだけの理由で、黙とうを強制するなどというバカなことはあり得ない」と大タンカを切ったものだから、校長は烈火のごとく憤り――今思うと、この副委員長の言い草は反抗的で、かつそのなかに党派的なものを感じるから、校長が憤るのは無理もないという気もする――、「もう帰れ、帰って明日、父親と一緒に来い」と言われたそうだ。
平然と彼はそれだけを語り、私は浮かぬ気分でそれだけを聞き、二人で数学の問題を1題解いて、そのまま別れた。

翌朝、登校したら情勢は一変していた。先生方は職員会議のため、朝から授業はなく全校自習である。もう昼飯の弁当を食っている奴もいるし、バカ話に夢中になっている連中もいる。外でソフトボールをやっている生徒もいる。
その間、職員会議は意外な方向に進展していた。

「副委員長はアカであり、アカは学校の秩序を乱すバイ菌である。よって、この機会に須らく退学させるべし。 ただし、次の約束を守るならば、卒業まで退学延期することあるべし。
1. 今後、学校を特別な事由のない限り、欠席しないこと
2. 教師に対し、みだりに反抗的態度をとらないこと
3. 外部の者から手紙をもらったり、ヘンな資料をうけとったりしないこと
4. 唯物弁証法を研究しないこと
5. 生徒会副委員長を自発的に辞めること」

副委員長は校長室へ呼ばれ、これだけのことを申し渡された。今、ここまで細かく記すことができるのは、彼が校長室でメモを取り、執行委員会の部屋で騒いでいた私たちのところへもって来たからである。――ただし、申渡しの文言がかなり過激で異常と思われるが、果たしてこの通りであったかどうかは、今は確証がない。彼の受け止め方がこうであっただけかもしれない――

私は一瞬、限りない憤りを感じた、と言いたいところだが、今考えるとどうやらそんなものではなかったようだ。お前がヘンな意地を張るから面倒なことになったぞ、と最初はそう感じただけのようだ。そして、たまらなくさびしい気がした、あの自由主義者が、白楽天が、こんなことをするのか。

「これはヒドイ。特に、第5項がケシカラン。生徒会の人事に学校が介入するのは、不当干渉だ」「すぐ抗議に行こう、そして退校処分を取り消させよう」と誰かが言う。
「それに、第3項もヒドイ。これは人権侵害、憲法違反である」という言葉に背中を押されて、執行委員長である私は執行委員全員を引き具して、校長室へ向かった。

詳しいやり取りは覚えていないが、校長の論理は、「日本国の象徴である天皇の母だから、国民たる我々が特別にその死を悼むべきである、そして、一旦決まったことを拒否するのは、学校の統一を乱すものである」というのではなく、 「一人の人間の死すら敬虔な気持ちで、素直な気持ちで、受け取れないような人間には教育される気持ちがないとみなさなければならぬ」というのである。

この論理は、なぜ副委員長が黙とうを拒否したのか、その動機とずれたところで展開されている。本人が納得するわけはない。
しかし、一部の生徒にはそれなりに訴えるところがあった。一人の人間の死を、それが天皇の母だからという理由で悲しむいわれはないと反抗的になるのは、こちらが少しヒネクレテいるからではないか。誰であれ人の死は悲しむべきことであるのに、それに反抗するのは、校長のいう「素直な気持ち」がないからではないか。そういう感情は、多少の差はあれ、生徒一般の頭のなかにある。

しかし、全校一斉に黙とうを捧げるというのは、社会的・組織的なイベントである。とするならば、そこにそのイベントを催す社会的意味と組織が期待する結果というものが存在する。一人の人間の死とそれを悼むという単なる個人的問題ではない。今にしてそう思うが、その当時の私がそこまで考えたわけではなかっただろう。

執行委員会を開き、討議する。それを校長室に持ち込んで抗議する。これを何回となく繰り返す。

問題は何も進展せず、処分も執行されず、夏休みに入った。
私は元来、問題を自分だけで解決しようとする傾向があった。皆と相談しながら解決に落とし込むという技術がなかった。夏休みになって私は一人で校長室へ行き、あるいは校長官舎に出かけて話し込んだりした。校長は、浴衣掛けで団扇を使いながら、冷たいカルピスを私に勧め、「君だからこういうことも言うのだが・・・・」と話しかけられる。
私の側にあるものといえば、ある種の感傷とちょっぴりの情熱だけだったから、副委員長をあれほどまで頑強に闘わせる理由が分からなかった。 彼は、自分自身に対してもその鉄のような意志と論理をもって身を処していた。その強靭さは私にないもので、半ば羨望さえ覚えた。

校長は、私に語りかける。
「18歳やそこらで弁証法など分かるとは思えない。第一、君たちは認識という言葉の本当の意味を理解しているのか。哲学には観念論、唯物論の二つの大きな流れがあるが、観念論を知らずして何の唯物論か。社会的経験も豊富にあり、一応の思慮分別のある人ならともかく、子供が流行の波に乗って唯物論にかじりつくのは、人間を一面的な、偏ったものに作り上げる。
また、君はいま、こんなことに首を突っ込んでいてよいのか。大学を受験するのだろうが、こんなことに時間をとられて勉強できないのは、さぞかし苦しいだろう。君の気持はよく分かる。」

こんなもんじゃない、こんなもんであってたまるか、問題がどんどんずれてきているんじゃないかと思うが、どうしてもうまく整理できない。私の好きな数学や物理とは全く違う。

夏休みも半ばを過ぎる頃、俄然、問題は拡大し沸騰して来た。
帰省した先輩たちが学校に来て、私たちを応援してくれた。地区の共産党も動き始めた。毎日、いろんな人が学校に現れた。ビラが流れた。
校長も説明文書を配布し、校内放送で生徒たちに話しかけた。副委員長と同じクラスの私たちのところへ、校長はわざわざ出向いて説得を試みた。――校長という立場にありながら、このようにさまざななことを自ら行うということは、この人の誠意のなせる業か、はたまた時代がそうさせたのか――

もはや、それは嵐だった。生徒の心の底まで吹きまくった。生徒たちの心は、真樹からひらひらと舞い落ちる木の葉のように、学校側から離れて行った。

あれからこの校長室へ何回来たことだろう。残暑の太陽がこの部屋にも差し込み、風が全くない。大きな机の向こうに座る校長とその横の教頭を前にして、いきり立つ3年生の仲間の顔、ウンザリ顔の2年生の執行委員、ただ義務としてここまでついて来ただけの1年生の書記の顔。

私はぼんやりと、あの大きな花は何というのかしらんと、凝った花瓶の花を見つめていた。校長は、時に説き聞かせるように、時に強い声で、話している。何を話しているのか、もはや、私は話を何も聞いていなかった。
突然、たとえようのないさびしさが私を突き上げるように襲ってきた。私は机にうつ伏して泣きだしてしまった。私の内部で、夢はガラガラと音を立てて崩れ、絶対的なものは霧のように消え去っていく、そのいいようのないさびしさに私は耐えられなかった。
闘いが必要なのだろう、と思う。しかし、そこにはあたたかいものが何もない。さびしいだけだ。私は、涙を抑えることができなかった。

副委員長は提示された条件をはっきりした形で受諾するでもなく、学校側も申渡しを厳密に執行するわけでもなく、2週間の停学処分というかたちで、事件は終息した。

10月になって生徒会役員の改選が行われた。私も執行委員長の任を後輩に譲り、あとは大学受験勉強に専念することになった。

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