戦後史24-3

昭和24〜27年(高校時代)


英語

高校の教科目のなかでは、数学、物理は得意な方だった。同じ理科でも化学は最も苦手とした。その年頃で科目の得意不得意は、担当教師の教え方や友達に影響を受けるし、教室や実験室の設備など環境の影響も大きい。
でも、本人の志向も大いに関係すると思う。
たとえば「無限級数は、ある条件の下で収束する」ということなど、私に非常な興味を呼び起こした。「無限」という概念、あるいはグラフの「漸近線」という概念、それらを面白いと思った。微積分を学ぶようになって、「限りなくゼロに近づく」あるいは「極限」という概念についても同じように感じて、面白かった。

整数の分野では「パスカルの三角形」――二項展開における係数を三角形状に並べたもの――から始まって、整数のもついろいろな性質を利用したクイズのようなものを考えたりするのが面白かった。
これが嵩じて、神奈川県とか新潟県の同年配の見知らぬ友達と文通を通して、数学に関する同人誌のようなものを何号か出したりした。何かを思いつくと、それについて原稿を書き、これをガリ版刷りにし、他の人たちに送る。これを順番に交代する。しかし、長くは続かなかった。

物理は特に好きだった。自然現象が明快に法則によって解明できる。一切の例外がない。もちろん、現実世界ではそこに空気があり、摩擦という抵抗もある。でも、「理想状態では・・・」といういい方が好きだった。ニュートン力学が中心の古典的な物理学に過ぎなかったが、明快なところが性に合っていた。

英語は中学時代から好きで、終戦の翌年から始まったラジオ英会話は逃さず聞くようにしていた。講師は平川唯一である。「カムカム・エヴリボディ・・・・・」の音楽が聞こえてくると、ラジオの前に飛んで行った――そのくせ、英会話はさっぱりものにならなかった――。

新聞に「ブロンディ」という漫画が連載されていた。おそらく一般的なアメリカ中流家庭だと思うが、その生活ぶりをみて、心から羨ましく思ったものだ。なんで僕はアメリカに生まれなかったのだろうとまで考えたこともあった。

外国に強い憧れを抱くようになった。東京にペンフレンドを紹介してくれる団体があって、早速、入会し、機関紙に掲載される海外青少年のアドレスのなかから選んで手紙を書く。
どこの国の人であろうと、英語で書く。返事が来ればしめたもので、すぐに返事の返事を書くことによって文通が始まる。アメリカ・カンザスシティの少女、シシリー島の青年、韓国の少年など、いろいろな国の人たちと文通したが、何といっても一番長続きしたのは西ドイツの2歳年上の少年とである。
高校時代から卒業して大学生になってもしばらく、数年間、手紙のやり取りをした。近況を知らせ合うほか、お互いの写真を送ったり、それぞれの国の名所の絵ハガキを送ったり、クリスマスには小さなものばかりだったが、プレゼントを交換したりした。

彼からの手紙の一節。
「ドイツにもやっと春がやってきました。雪と氷、冷たい風の冬は過ぎ去って、美しい陽気な日々が訪れようとしています。間もなくチェリーやリンゴ、梨の花々が咲き乱れるでしょう。この美しいシーズンに君をここに連れてきて、僕の国を見せてあげることができたら、どんなにすばらしいことか。もしも僕が飛行機をもっていたら、極東の国、日本に飛んで行き、わが親愛なるツネオをこの国に連れてくることができるのに。しかし、僕は飛行機をもっていないし、自動車も持っていない。持っているのは自転車だけ。
だから僕は遠く離れた友に言葉と思いを送ることしかできない。しかし、これは非常に大切なことだと思う。僕たち二人が互いに送ることのできる言葉は、心から出たものであり、心に届くものであるからだ。」
彼は高校卒業ののち、9ヶ月間の工場実習を経て、ミュンヘン大学に進学した。

高校時代を通じて、私は研究社の『英語研究』を購読していた。この雑誌には英文法などの学習記事も載っていたが、中心は英米の文学あるいは英米の風物などについての読み物といった感じで、それがとても興味深かった。英会話など実用的なことに役立ったとは思えないが、好きな雑誌だった。英語学の祖といわれる市河三喜の名前は今でも覚えている。今は休刊になってしまった。

休刊といえば、同じ出版社の『英語青年』も2009年に入って休刊になった。『英語研究』の上級誌ともいうべきもので、上質の真白い紙に印刷され、そのくせ簡易なホチキス留めの装丁で、とても高尚な感じがした。半ば憧れで手に取ったこともあるが、とても私の手に負えるような代物ではなかった。

こういったことで、「読み書き英語」は相当進歩したと思う。大学受験も読み書き中心だから、これで十分だった。「聞き話す英語」は全く駄目だった。
後年、アメリカの大学院留学のためTOEFL――英語を母国語としない人のための英語検定試験――を受験したが、このときの「ヒアリング」が聞きとれず、低得点に終わってしまって、留学先選定に苦労した。英米に憧れをもち、英語の「読み書き」は多少できるものの、「聞き話す」がまことにプアな、典型的日本人英語学習者といえる――もちろん、今は事情が異なり、「聞き話す英語」の得意な日本人は多いことだろう――。

英語が私以上に好きな友達がいた。いま仮に、この友を耕平と呼ぶことにしよう。
耕平は英語が好きというだけでなく、私などよりはるかに深いレベルまで到達していたのではないか。英語というより英文学に長けていたというべきかもしれない。私は彼から多くのものを学んだ。それは、英語の技術的なことというよりも、英文学を手掛かりにして、文学の精神といったものだったように思う。

決して大きな声を上げない、静かな男だった。私が挫折し、泣きべそをかいているような時、知らぬ間にそばに来て座ってくれている、そういう雰囲気をもった男だった。そんなとき、彼と文学を語り合ったりすると、不思議に私の心は穏やかになっていくのだった。

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