戦後史24-1

昭和24〜27年(高校時代)


新制高校

昭和24年4月、私は高校生となった。
旧制で中学4年生となるところを、教育制度が変わり、新制高校1年生として旧制中学、旧制高女、新制中学卒業生がともに新制高校に入学し、同級生として席を同じくすることになった。

広島県では当時、小学区制をとっており、1学区県立高校1校と定めて、普通科の場合、その学区に居住する者はすべてその一つの高校に集められる。私の家は戸手学区にあり、従って私は通学していた府中高校から戸手高校へ移らなければならない。
新制戸手高校は、旧制では戸手実業学校として農業科と商業科をもっていたが、商業科は府中高校に移り、新制高校としては普通科と家政科を新設、農業科と合わせて3学科となった。

戸手学区に居住する多くの友達が戸手高校へ移っていくなか、同じようにそうすべき私は府中高校に残った。父が戸手高校という旧実業学校へ私が移ることを嫌い、その当時の父の任地が府中学区にあって単身赴任していたのを幸い、私をそこへ居留させたのである。実態は、今まで通り実家から通学することに変わりはなかった。

新制高校になって、府中高校にも多くの女子生徒がクラスに入ってきた。以前は通学電車のなかでチラリチラリと横目で見ているだけだった女子たちが、大挙して教室に入って来、机を並べることになった。男子生徒にとってその衝撃はとても大きかった。

何の科目だったか、座席がある女子生徒の隣になった。照れくさいことおびただしい。でも、反面ひそかに楽しみでもあったことを白状しなければならない。その子は、色白のきれいな子だった。話しかけもならず、その科目では毎週、勉強はうわの空という有様だった。

夢のような一学期が終わろうとする頃、居留という手段によって学区外通学を続けることに、私自身、何か後ろめたい気がして仕方なかった。思い切って父に相談し、二学期から本来通うべき戸手高校に転校することにした。

戸手高校は、創建と自由の気風にあふれていた。普通科の場合、生徒も教員もほとんどすべて他校から移ってきた者ばかりで、実業学校として職業科しかなかった所に普通科としてのハードも、ソフトも、何もかも自分たちで新しく作り上げていかなければならない。
施設の貧弱さもさることながら、普通科教育というシステムに従うべき準拠と伝統が皆無であり、それらを自分たちで作り出していこうという気概に充ち満ちていた。
古い校舎を生徒総がかりで綱引き式に引き倒し、廃材を片付け、そこに新しい校舎と講堂が建てられた。校庭に木を植え、裏山の池に石積みを築いてジャンプ台を作り、池をプールとして、水泳部が練習に励んだ。

授業は週5日制だった。土曜日は自宅学習ということだが、多くの生徒はその日も登校してクラブ活動などを行った。授業科目の取得は単位制で、選択科目などは科目ごとに教室を移動し、クラスの顔触れもその都度変わる。

進級時のクラス分けは、まず組担任が定まる。1組は○○先生、2組は△△先生、3組は・・・・、という具合である。それを受けて生徒たちは自分の好きな先生の組に応募する。つまり、先生が生徒を募る形式のクラス編成である。大学のゼミ選択と同じやり方を、すでに高校でやっていたことになる。

何の科目だったか、座席が指定されており、アイウエオ順に着席した。私のすぐ後ろの席には、目元のパッチリした美人の子がいた。好きだったが、あまり話をしたことがない。配り物を後ろに回す時、正面からまじかに顔を見ることができ、幸せだった。

総じて高校時代、女に関する記憶があまりない。関心がなかったわけではない。2年生の時だったか、学校に無断で友達10人ばかりでテントをもって海水浴キャンプに行ったことがある。
浜辺を見下ろす丘の松林のなかにテントを張り、自炊するわけである。昼間は泳いだり、ボートを漕いだり――私はこの時、艪の漕ぎ方を習得した――、魚や貝をとったり、夜はテントのなかでバカ話、エロ談義。といっても、せいぜいクラスの女の子の品定め。誰それのしぐさがどうだとか、姿態がどうとか、飽きもしないで遅くまでそんな話をする毎日だった。

突然に、といっても半ば予期もしていたのだが、このキャンプ地に体育の教師が現れた。私たちを連れ戻すためである。当然である。学校の許可も得ずテントを勝手に持ち出し、親の保護もなしに集団で外泊しているのだから。
私たちはボートを漕いで海の沖の方に逃げた。なんと、先生もボートを漕いで追いかけて来るではないか。そこまでやられてはかなわない。私たちはおとなしく捕まり、テントを撤収して帰宅した。

正門を入って校舎までの道の右側に、樹高10mを超す堂々たる巨木の並木があった――今はもうない――。この木を真樹といい、校歌にも歌われている。
「友よ 友よ/ しばし来て憩え/ 愛する真樹の/ 明るい木陰に/ ・・・・」。

いま調べてみると、真樹という樹木名が見当たらない。私は植物学には全くの素人で確かなことは言えないが、シンジュという種類はあって、ニガキ科ニワウルシ属で和名ニワウルシとのことである。別名シンジュ(神樹)というとある。れっきとした外来植物である。
この校歌は、当時の校長の作詞になるもので、あちこちにあるありふれた校歌の群を抜き、私たち生徒も好きだった。でも、真樹とは何か。校長先生がとり違いしたのでなければ、「神」を嫌って、意識的に「真」に変えたのか? いまの私にはそれを確認するすべがない。
もしこの真樹が神樹のことだとすれば、神樹は中国北部原産で、明治8年に農学者でありキリスト者であった津田仙によってウィーンから持ち帰られた苗木が最初のものといわれている。神樹の名は英語の“Tree of Heaven”の直訳で、その生育の旺盛さから「天にも届く樹」という意味合いとのこと。まさに学舎にふさわしい樹木といえる。

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