戦後史21-4

昭和21〜24年(中学時代)


祇園祭

私の生れた家から50mほど西に行ったところに、広い境内をもつスサノオ神社がある。地元では「天王さん」と親しみを込めて呼ばれている。
この境内は子供たちにとっては絶好の遊び場所で、鬼ごっこもチャンバラも三角ベース野球も、そして隣村の悪童たちとの集団喧嘩も、皆この境内で経験した懐かしい場所である。

しかし子供たちにとって天王さんの思い出は、ここで行われる祇園祭に強くつながっている。祇園祭は例年7月中旬、京都の祇園祭と同時期に3日間にわたって行われる。
祭りの日の天王さんの境内は、灯ともし頃から異様な活気を帯びてくる。この田舎のどこにこんなに多くの人が住んでいたのかと思うほど、境内は溢れんばかりの大変な人出となる。たくさんの屋台が色とりどりの飴や焼き串、綿菓子などを売り、金魚すくいなどの店も出ている。商人たちは、今は電灯を明りにしているが、当時はみなアセチレン灯だった。
私はいまでも何かの機会にアセチレン灯の匂いをかぐと、この祇園祭を思い出す。また、祭り太鼓の音を聞くと、矢も盾もたまらず、飛び出してしまうという人も多い。

祭りの間、3基の神輿が氏子4ヶ村の若者たちによって担ぎ出され、お旅所に巡行し、村内を練り歩き、最終日の夜、境内に帰ってくる。帰ってきてからが最大の見ものである。
3基の神輿がお互いに激しくぶつかり合うのだ。ぶつけ、ぶつけ、相手の神輿の上に乗り上げようとする。上に乗り上げた方が勝ち。いわゆるケンカ神輿である。1トン近い神輿がぶつかり合うので、大変に勇壮なものである、と同時に神輿を担いでいる若者たちにとっては極めて危険なものでもある。かつては死者が出たこともある――現在は、警察の厳重な管理下にあり、かつてほどの乱暴なことは起こらない――。神輿はもちろん、ボロボロになるが、毎年、丁寧に修復する。

終戦翌年の昭和21年の神輿村内巡回は荒れに荒れた。
若者たちが日ごろから面白くないと思っている人たち、たとえば戦時中に翼賛的行動をとって脅迫まがいのことを常としていた者、戦後に軍事物資を私し隠匿した者、そういう家の玄関口に、この数百キロもある神輿を勢いつけて投げ込むのである。家は、倒れはしないが、玄関口はめちゃくちゃに壊れてしまう。警官の制止も聞かばこそ、目をつけた家に次から次へと神輿を投げ込む。これはもはや打ち壊しである。 巡回道筋にあり、身に覚えのある家ではこの打ち壊しを恐れ、急遽、酒や食べ物を庭先に用意して神輿を接待する。打ち壊しを逃れようというわけだ。子供たちは、その時も神輿の前を囃しながら練り歩いていた。

何しろ天明の大飢饉の折、大一揆を闘った農民の子孫である。意気盛んなものである。
この天明一揆は、天明6年(1786)、ほぼ備後全域に広がり、その数4〜5万にのぼったという。次から次へと、庄屋、豪商の屋敷を襲い、打ち壊した。そして福山藩軍と対決して、これを破り、藩主を屈服させて要求を勝ち取った。(徳田太郎『備後天明一揆』芦田川文庫 昭63)

さて、昭和21年である。
打ち壊しの只中に、突如、進駐軍のMPが現れた、という知らせが届く。マシンガンをもっているという。間もなく、銃声が聞こえてきた。マシンガンを空へ向けて発射したらしいが、この銃声を聞いた若者たちは神輿をその場に投げ出し、蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。

昭和の“一揆”は、天明の時のように綿密な計画もなければ指導者もいなくて、腹立ちまぎれの乱暴に過ぎなかったのだろう。でも、戦後を象徴するような出来事として記憶に残っている。

昭和22年4月に教育制度が変わり、六三制が実施になった。
国民学校は小学校になり、新制中学校が発足した。旧制中学校は新制高等学校となり、旧制4年生は新制高校1年生、5年生は新制高校2年生となった。私たち旧制中学2年生はそのまま新制2年生となった。正式にいえば、府中高等学校付設中学校2年生というわけである。
しかし、私たちの下に1年生はいない。新制1年生はすべて新設の新制中学校に入るわけで、私たちの学校には来ない。これが新制高校2年生になるまで続くわけだから、私たちは4年間にわたって常に最下級生であった。

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