戦後史21-3

昭和21〜24年(中学時代)


読書と工作

読書は好きだった。
国民学校高学年のころから、離れの間にある本棚から見境なく本を引っ張り出しては読んだ。この離れの6畳間は父母が結婚したとき二人の居室として建てられたもので、その北面全体が造りつけの本棚になっており、父の仕事用の書籍のほか、たとえば春陽堂版『明治大正昭和文学全集』がほとんど全巻そろえられていたし、改造社版『世界文学大全集』もあった。他にも文芸書を中心にさまざまの本があった。
私は、それを手当たり次第、何の脈絡もなく読んでいった。もちろん、理解できないことも多かったが、読むことだけはできた。当時の出版物の常として、多くの漢字にふりがなが振ってあったからである。

多くの漢字も覚えたし、多くのことをこれらの本から知った。でも、同時に知った以上に分からない多くのことが出てきた。私はその分からないことを分かろうとしたのだろうか。分かるためには、父なり叔父なり、誰か大人に聞かなければならない。でも、そうしたという記憶が私にはない。
第一、「本ばかり読んで、軟弱な」といってよく叱られていたし、第二に、自分の聞きたいことはきっとヤバイことなのだと、自分で感じていたからではないか。性的なことがでてくると胸はドキドキするし、怪奇小説のことなどもとても親に聞けるものではない。

中学生になってから何よりも熱中して読んだのは、鶴見祐輔著『母』および『子』(大日本雄弁会講談社刊、昭4)である。そこに描かれた生活に驚嘆し、ひるがえってわが身を顧みるとき、いかに刺激のない人生であることか、と夢想する少年であった――今、この本を取り出してみると、布張りのカバーで、装丁・挿絵は伊東深水の、豪華なものである――。
以来、今日まで文芸書を読むことを好むことは続いている。

科学や工作も好きだった。
いつのころからか『子供の科学』(誠文堂新光社刊)を購読するようになった。近くに本屋がなかったので、直接購読した。くるくるときつく巻かれて棒状になって郵便で送られてきた。毎月、発行時期が近づくと、毎日毎日、表に出て郵便屋さんが来るのを待っていた。
胸をときめかして、送られてきた雑誌の包装を解き、丸まったクセのついている雑誌を平らに引き延ばす。その時の印刷インクの匂いがたまらなく好きだった。

常連の執筆者であったらしい原田三夫という名前は今でも覚えている。原田三夫は博覧強記であった。森羅万象について語っていた。銀河系宇宙の構造、原子模型、アルキメデスの実験、ダーウィンの進化論、私は食い入るようにして彼の解説を読んでいった。
私はこの人によって自然界の見方、解釈の仕方を学んだ、と思う。父の書棚からとはまた別の世界へと誘われていったのであった。

折込図面が綴じ込まれていることもあった。紙飛行機の型紙、カメラ(ピンホールカメラ)や鉱石ラジオの作り方、幻灯機(反射式)の作り方もあった。
近所に2歳年上で、やはり工作好きの先輩がいた。この人と一緒に鉱石ラジオを作り、ものすごい雑音のなかにかすかに放送をとらえることができた時の感激は忘れることができない。

スチーム・エンジン(蒸気機関)を自分で作ろうとしたこともあった。内径12mmくらいのパイプを使ってシリンダーに、鉛を溶かしてピストンに、はずみ車やクランクも何かの部品を使ったがそれが何であったか、ボイラーは何を使ったのか、もはや記憶はないが、これは完全に失敗した。

モーター(電動機)も自作した。トタン板から同じ型を何枚も切り抜き、両面にエナメルを塗って束ね、鉄心とする。被覆銅線でコイルを作る。変圧器も同じようにして作る。これは見事に成功した。でも、そのモーターを何に使おうとしたのか、記憶がない。何かに使うためではなく、モーターが出来上がったことで満足したのだろう。
モーターなど自分で作らなくても、おそらく市販のもの、あるいはほかの玩具とかそういうものから外してきて使えたと思うが、そういうものを集めて何かを組み立てるという趣味はなかったらしい。部品を買ってきて組み立てる、たとえばプラモデルの組み立てなどには興味がなかったから、この工作少年はそもそもの原理そのものに関心があったのかもしれない。

中学1年の時だったか、この『子供の科学』が懸賞論文を募集したことがある。私は、裏山の古い木株に巣くっている山アリの生態を観察し、それをまとめて応募した。
思ってもみないことに、これが入選だか佳作だかに当選した――優秀賞ではない――。そしてその講評が雑誌に載ったときは本当にうれしかった。講評に「観察は的確だが、ただ『山アリ』というだけでなく、その種名を調べてはっきりさせることが必要」といったようなことが書かれてあった。

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